第52話 千葉県副知事・阿曽沼一義

「ぬまちゃん、千葉県のカビ対策の進捗はどうなってる?」


 最近の丹下は以前のように『わが国で一番困ってるヒト選手権』でブッチギリ優勝する雰囲気を漂わせることがなくなった。


「匠エージェンシーに散布を依頼したのが四日前。即日五十四市町村六区全てに散布完了。ウィルス感染を待って、昨日からカビの駆除を開始しています。個人宅は引き続きそれぞれの家での駆除をお願いしていますが、公共の場所はそのまま匠エージェンシーに任せています。カビの駆除に関しては千葉モデルで実績を積んでますし」

「端から順にやってるの?」

「いえ、成果の見えやすい都市部から順に手を付ける形で、ボランティアも投入して人海戦術でやっつけています。過疎地の方は自然の復元に任せる部分が多くなると思いますので」

「さすがぬまちゃん。頼りになるね」


 ネクタイを半分緩めた丹下が、満足げに頷く。今日の柄は房州ビワだ。

 昨日の黄色い花のネクタイは落花生の花のデザインだったらしい。落花生を知っていても花を知っている人は少ないに違いない。


 俄かに信じがたいが、あれから筧大臣の言う通り臨時国会が召集され、カビ対策法案が可決された。前以て二階堂研究所から聞かされてはいたが、本当にあの人がここまでするとは思わなかった。

 実際とんでもないスピード可決だ。閣議決定など一体いつ行われたのか、何もかもが異例尽くしだった。


 そもそも国会の在り方を見直す時が来たのかもしれない。驚くべきことに、今回総理は入院先の病院からリモートで出席していた。

 二階堂研究所の天野女史などは「全員リモート出席したらいいのよ」などと相変わらずの毒舌を吐いていた。彼女曰く、一人ずつがずっとアップのままだから居眠りもできない、ヤジも飛ばせない、スマホで漫画も読めないから国会議員がちゃんと仕事するようになる、ということらしい。ご尤もといえばご尤もである。


 野党は異議を唱えて欠席の姿勢を見せたが、「入院中の総理がリモート出席するのに野党が欠席するなど言語道断」と大反発を招いた。結局そのまま強行採決になったのだから、欠席だろうが何だろうが結果は同じなのだが。

 これによって内閣不信任案が出るのは必至だが、もとよりそのつもりだったらしく、総理は全く動じることなくことを進めた。


 それからすぐに二階堂研究所からウィルスに感染させた青カビのパックが全国の自治体に送付され、日本中に散布されることになった。

 全国の市町村にプラスして政令指定都市は区の数だけ、さらに広い地域や温泉地などは多めに配布するとあって、国立大学に培養の協力を仰いだようだ。二階堂研究所だけであの量を培養するのは難しい。


 彼らはそれぞれの自治体の職員でも撒けるようにと、簡単なウィルスパックを作った。ウィルスは数時間で死滅してしまうため、感染させた状態のカビをパックしたらしい。硫黄島の試験で使ったものと同じ要領だ。これなら数日は確実に生き延びる。その間に散布してしまえば次々に感染していき、青カビの増殖が止まるという寸法だ。


 千葉県は散布も匠エージェンシーに依頼した。今までのカビ退治の仕事に比べたら、撒くだけなど赤子の手をひねるくらい簡単だ。

 あとはカビが十分ウィルスに感染したであろうころを見計らって、一掃するだけだ。人工物は人の手で駆除できるし、それが不可能な場所は自然の回復力に任せるしかない。


 日本に先立ってアイスランドでウィルスが撒かれたが、カビが蔓延した温泉地を自然の力で完全に回復させるには年単位の時間を必要とする。その結果を待ってというわけにはいかないのだ。

 こうしている間にも、日本の世界遺産は次々にカビに汚染されている。奈良や京都の社寺が、姫路城が、白川郷が、今まさにカビに侵食されつつあり、人々の手で被害を食い止めるべく必死の努力が続けられている。


 幸い、アイスランドではウィルスを撒いたところでは新たなカビの増殖は認められていない。人体への影響も今のところ報告は出ていない。

 もちろんブルーラグーンやゲイシールのような天然温泉は、増殖が止まったとはいえ、完全に駆除するのはほぼ不可能だ。ホットスプリングスの営業再開は何年も先になるだろう。

 日本も白神山地や紀伊山地は、回復するには十年単位の時間を必要とするに違いない。


 ここで気になるのが筧大臣だ。彼はウィルスを頭から浴びながら駆けずり回ったと言っていた。あの人がそんなことをするなど驚嘆に値するが、あの天野女史が言っていたくらいだから本当なのだろう。

 その筧大臣の健康調査が毎日行われていたようだが、彼は健康そのもので、ウィルスがヒトに影響を及ぼさない事を彼自身が証明していた。

 未知のウィルスへの恐怖心を少しでも和らげるためだろう、筧大臣はSNSで毎日健康報告をするにとどまらず、メディアへの露出を増やして以前と変わらぬ健康体であることをアピールすることに力を注いでいるようだ。


「さっき筧大臣から連絡があったんだ」

「えっ、まさか健康被害が?」


 ここで筧大臣に何かあったらシャレにならない。だが、阿曽沼の心配を他所に、丹下は「違う違う」と笑った。


「結局アメリカがくれって言って来たらしいよ。アラスカに猛反発されて引っ込んだのにさ、日本が全土に撒いたのを見て行けると思ったんじゃない? 西海岸をメインに散布するみたいだね」

「ということは、これからフィリピンやニュージーランドから要請が来るかもしれませんね」

「なあ、ぬまちゃん」

「はい?」


 窓辺に向かった丹下が、千葉の街を見下ろしながら「千葉モデルさぁ……」とボソリと呟いた。


「みんなの役に立ったかな?」

「当然ですよ。アイスランドはウィルスを撒いた後、千葉モデルに従ってカビを駆除してます。これからアメリカもウィルス感染させた後で同じように千葉モデルを利用するでしょう。人類すべての役に立ってますよ、丹下さん」


 丹下がクスクス笑いながら振り返る。何か笑われるようなことを言っただろうかと阿曽沼は一瞬首をひねった。


「いや、これさ、俺じゃなくてぬまちゃんが考えたんだよ? 忘れてない?」

「そうでしたっけ」


 ――そう言われてみればそんな気も?


「ぬまちゃんが世界を救ったんだよ」

「いえ、みんなで救ったんです。丹下さんと、天野博士と、岩倉さん率いる匠エージェンシーの人達と、筧大臣と、アイスランドの研究者と……我々の与かり知らぬところで携わった多くの人と、それと何より一般市民の力です」

「良い事言うね、さすがぬまちゃんだよ」


 阿曽沼は自分が少し丹下に感化されてきていることに気付いて、内心苦笑いしていた。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、丹下は阿曽沼の肩にポンと手を置いて言葉を継いだ。


「ラーメン食いに行こうか、関羽殿」


 阿曽沼は「行きましょう」と言いながら、心の中で付け加えた。「劉備殿」と。

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