第42話 天野梨香・4
いつものように梨香は二階堂の部屋にやって来ると、ノックをしながらドアを開けた。
「ちょっと所長、聞いてよ!」
「ねえ、梨香はノックって何のためにしてる?」
「は? 入るわよっていう合図よ」
「あーなるほど。開けるわよ、じゃないから同時にドアを開けるんだねぇ。理にかなってる」
二階堂がすぐに立ってコーヒーを淹れる。お決まりのルーティンだ。
「で? 何を聞いたらいいのかねぇ?」
「できちゃったのよ!」
勧められもしないのにさっさとソファに座って腕を組んだ梨香がドヤ顔で――とは言え、彼女はいつだってドヤ顔なのだが――報告する。
「え、そうなの? おめでとう、子供諦めてなかったんだねぇ」
「ちがーう! ウィルスができたのよ、ウィルス」
二階堂が持って来たコーヒーを受け取ると、得意気に胸を反らして続ける。
「ま、あたしの産んだ子供であることには間違いないけどね」
「たまに梨香の生物学的分類がわからなくなるねぇ」
梨香は相変わらず二階堂の軽口を聞いているのかいないのか「さぁ感染させるわよ」などと言っている。言うことがいちいち恐ろしい。
「そこだけ聞くとまるでバイオテロリストだねぇ」
「カビ以外に影響を与えないんだから逆に安全よ。ウィルスなら自分からターゲットをロックオンして向かってくれるもの。それに消毒薬を飛行機で空中散布するよりずっと確実でしょ」
数日前にアメリカの穀倉地帯で、大規模な空中散布が実施されたのを皮肉っているのは彼女の表情から十分読み取れる。日本にそれだけのことをする広い土地は北海道くらいしかない。やっても飛行機ではなくドローンだろうし、そもそもそんな無意味なことはしない。
「ターゲットをロックオンってことは、ゲノムに手を出したってことだよねぇ?」
「そりゃ当然」
そう言ってコーヒーをすすり「熱っつ!」と叫ぶ。毎日同じことをしているのに、なぜかこれだけは学習できない。
「データの詳細は共有ファイルに落とし込んでおいたからあとで見てちょうだい。例のカビだけに感染するように組み替えて、感染したカビの繁殖力を抑えるウィルスにしといたわ。十分テストはしたしデータはそこそことれているけど、所詮テストも研究所内でのことだからね。どこかで試験したいところだけど」
「しかしねぇ、ウィルスだからねぇ。どこもモニター試験はやりたがらないだろうねぇ。そのウィルスがどんな動きをするか予測できないしねぇ」
二階堂もため息交じりに梨香の向いのソファに体を預ける。
「今のところ例のカビにしか効果はないけど、相手がウィルスだから、ちょっと怖い部分もあるとは思うのよね。とは言っても、今回は相手が相手だからね。普通のカビなら養分がなくなればそれ以上増殖もしなくなるだろうけど、硫黄細菌ということになればそこら辺じゅう餌だらけだからブレーキの無い状態でしょ。どちらにしてもこのまま国民が餓死するか殺し合いするかしかないってくらい切羽詰まっているところなら、モニター試験に参加してくれるかもしれないわ」
「それは暗に二階堂研究所としてモニター試験を呼びかけろって言ってるよねぇ?」
さすがに二階堂は話が早い。脳の回転の速さが異常なのか、長年の付き合いで梨香の考えそうなことが手に取るようにわかるのか、その辺りは定かではないが。
「わかったらすぐ実行!」
「その前に千葉県に中間報告入れていいかねぇ。多分、千葉のカビ対策チームは今どこから手を付けたらいいか途方に暮れてると思うんだよねぇ」
「もちろん。SNSなんか酷いわよ。火炎放射器でまとめて焼いてしまえとか、アメリカみたいに空から消毒薬を撒けとか。むちゃくちゃだわ。ここをどこだと思ってんのよ。日本みたいな狭い国で何考えてんだか。いっそアイスランドで試験しちゃえばいいのよ。どうせゲイシールなんて近寄れなくなってるんだし、そもそも間欠泉くらいしかないでしょ」
アイスランド国民に聞かれたらただでは済まされないようなセリフの後に「シーグルズルにもメールしといてね」と付け加え、彼女は颯爽と二階堂の部屋を後にした。
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