第十一章 生物学者・天野梨香
第39話 天野梨香・1
「来たわね」
「そうだねぇ、来たねぇ」
例の青カビは日本で発見されてから爆発的に広がった。つまり裏を返すと、それまで本当に日本に入って来ていなかったと考えていいだろう。そして、入って来てからも衛生管理に人一倍うるさい日本人の性質から、見つけ次第抹殺されてきたに違いない。
だがここ最近の増殖速度は異常だ。既に日常生活に影響が出始めている。
まず最初に影響が出たのが、思いがけず学校だった。給食にカビが生える。お弁当が昼までもたない。
社会人は社員食堂などを利用すればいいのでお弁当が無理でもどうにかなるが、子供たちはそういうわけにはいかない。嫌が応にも午前中で授業は終わりとなるか、一旦家に帰って昼食を取ってから学校に戻るしかない。いずれにしろ昼食は自宅でとるしかないのだ。
では、誰がそれを作るのかということになる。
朝の作り置きを食べるのであれば、弁当と同じだ。学校でカビの生えたお弁当を食べるか、家に帰ってカビの生えた昼食をとるかの違いでしかない。必ず、作ったその場ですぐに食べないと意味が無いのだ。
となると、祖父母のいる家ならいいかもしれないが、核家族で両親が共働きの小学生などはどうにもならない。両親のどちらかが昼食を作るために半休を取らなければならないのだ。
当然収入は減るし、ことと次第によっては正社員からパートタイマーに変更したり、夫婦のどちらかが仕事を辞めざるを得ないところまで追い込まれている。
たかがカビ、されどカビ、カビ一つで生活形態や収入まで左右されてしまう。
テレワークが可能な職種ならそれもできようが、そんな業種ばかりではない。
結果として総菜パンやカップ麺の需要が一気に伸びたのは言うまでもない。
通勤通学も様変わりしてしまった。
最も大きく変わったのは電車のシートが外されたことだろう。座席は毎日丸洗いというわけにはいかないので、あっという間にカビが生えてしまう。そこに座った客がカビの胞子を体につけたまま、別のところへと移動することがあってはならないのだ。
バスも後を追うように運休が決まった。なにしろバスは座席に座るのが前提だ。座席の無いバスなど、危なくて道路を走れない。
同じ理由でタクシー会社も戦々恐々といったところだ。客を一人降ろす度に合成皮革のシートをアルコールティッシュで拭くという手間をかけていても、ドアを開けるたびに入り込んでくる胞子を完全除去することはできない。
テレワークが増えると、今度は家から出られないことによるストレスの問題が出てくる。小さい子供のいる家では、普段仕事に出ている親がそこにいるので、子供は遊んでもらえると思ってしまう。だが、仕事中なので遊んでもらえない。そんなことは子供にはわからないからぐずって泣く、仕事は進まない、会議は成り立たない、あらゆることが悪循環になる。
専業主婦(夫)の場合も、普段いないパートナーがそこにいるため、掃除や洗濯にも気を使う。いつも家事の合間に適当に食べていた昼食も、パートナーの昼休みに合わせなければならないし、子供たちも帰って来る。今までできていたことが一気にできなくなってしまうのだ。
ストレスを抱えた人々は少しでも情報を欲してネットに向かい、そこで仕入れた不確定な情報を鵜呑みにしてあたかも確定情報であるかのように書き散らし、それが更に拡散されて行く。
普通の青カビとの見分けもつかないため、青カビと見るや否や確認もできないまま「青カビ発生」のニュースを流してしまい、その近隣の地域をパニックに陥れる。
歪んだ正義感による犯罪も増えて来た。
成田の木材置き場で発生したカビに対して丹下が焼却要請を出し、業者が速やかにそれに従ったのを受け、木材置き場や古紙回収業者の資材置き場にカビが発生しているところへ放火する事例が相次いだのだ。
困ったことに、彼らの共通認識は「自分は正しい事をしている」という判断だ。正義の名のもとに堂々と放火をしているという自覚がない。わざわざ自らパトロールをしてカビを探し、見つけたら容赦なく火をつける。たまったストレスを晴らすために、正義の名を騙りたいだけなのだ。
脅迫という手段に出るものもいる。カビを見かけるとそこにクレームの電話を入れては「火をつけるぞ」と脅す。当然これも犯罪だ。それほどまでに人々はストレスを溜めている。
丹下が「千葉県公式の発表と二階堂研究所発表の情報以外は鵜呑みにしないように」と前以てあれほど何度も釘を刺した千葉県下に於いてさえ、その混乱が発生しているのだ。他の都道府県がこの状況になったらどこまで人々が冷静でいられるか。
そしてその千葉県はロックダウンに入った。県外に職場がある人、そして千葉県内に職場がある県外の人への通勤自粛要請が出され、全面的にテレワークになった。
ファーストフード店は店内で食べるのみ、テイクアウトは全面的に禁止、レストランや食堂でも、作ったその場で食べることを前提に営業が許可された。お弁当屋さんやデリバリーピザ、ベーカリーなどは自粛対象となった。スーパーでも総菜は販売自粛、一人暮らしや単身赴任者が困る事態となった。完全機械化の工場で作られた総菜パンなどは対象外で、需要はうなぎのぼりになった。
運送屋に関しては、衛生管理に十分配慮した上で許可されていた。それでも荷物の受け取りの際にアルコールスプレーを吹き付けられる配達員もいた。
子供を連れて買い物に行くと、「こんな時に子供を外に出すなんてかわいそうに」と家庭の事情も知らずに心無い言葉を投げつける人がいる。「ここのスーパーは総菜も売っていないのか」と店員に凄むお年寄りがいる。ただの風邪でも「カビが肺に入って死にそうだ」と病院のロビーで騒ぐ人がいる。
とても日本とは思えないような事が、少しずつ増え始めている。それだけ人々はストレスを溜めていた。
少しでも早く解決しないと、いつ、どこで人々の感情が爆発してしまうかわからない。ほんの僅かでもいい、進展が欲しかった。それだけに政府も都道府県知事たちも研究者たちも焦っていた。
「このカビは単なるペニシリウム。毒性もない。人間に全く害を及ぼさない。だけど他の青カビと決定的に違う特性がある。それが繁殖力だわ」
「そうだねぇ」
「だけど納得いかないの。広がり方がなんか妙なのよね」
現在このカビが蔓延している地域は発生順に、アイスランド、ケニア、アラスカ、タンザニア、アメリカ西海岸、エチオピア、フィリピン、インドネシア、日本、メキシコ、ニュージーランド。
「ニュージーランドで蔓延しているのにオーストラリアでは報告が無い」
「そうだねぇ」
「そして日本にはこれだけ広がっているのに、朝鮮半島や中国では全く見られない」
「うんうん」
「アラスカで発生してカナダでは広がりを見せない」
「不思議だねぇ」
「この共通点はなんなのかしら」
二階堂が「なんだろうねぇ」と言いながら、両手にコーヒーを持って戻って来る。
「ちょっと、所長もボケーッとしてないで考えてよ」
「考えてるよ~?」
「その無駄に高い知能、フル活用しないと宝の持ち腐れよ。IQ一七〇だっけ?」
「一六〇しかないよ」
「『しか』ってなによ『しか』って。まあ一四〇超えた時点で十分頭おかしいわ」
明白過ぎる八つ当たりを投げつけて、その被害者が淹れたコーヒーを喉に流し込む。そしてまた「熱っつ!」と文句を言う。
そんな挨拶代わりの理不尽を軽く受け流し、相変わらずののんびりとした口調で梨香に聞かせているともとれる独り言を彼は繰り出した。
「ちょっとねぇ、日本に広がってなかったから違うなと思ってたんだけどねぇ。この拡散の仕方は間違いないかなという気がするんだよねぇ」
「は? 何が?」
「わかっちゃったんだよねぇ、このカビの特性が」
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