第38話 岩倉・5
記者たちの前に現れた丹下は、いつものようににこやかな笑顔……というわけにはいかなかった。
ネイビーにベージュのポルカドットが爽やかなネクタイを締め、万博ロゴの入ったジャンパーを羽織った彼は、テレビカメラに一礼すると早速話し始めた。
『先程、千葉県全域をロックダウンする旨、発表しました。カビの胞子は人にくっついて移動するだけでなく、荷物や交通機関にも付着して移動します。もちろん鳥や虫にもつきますし、風に乗って移動することもあります。そういった意味では、インフルエンザウィルスよりもたちが悪い。自分で勝手に移動しちゃいますからね。少なくとも人の移動がなくなるだけでかなり拡散は避けられると予測できます』
『実質的にはどういった対策を』
『まず千葉県は完全封鎖です。今のところ千葉県以外では大阪に被害が出始めています。既に大阪と東京、愛知、福岡、広島、新潟、宮城で千葉モデルを採用しています。同じシステムを使い、人員配置なども情報提供しています。特に東京はお隣なので連携を組んでやっていこうということで都知事と話がついています』
「あら。丹下さんのネクタイ」
「まあほんと、可愛らしいわねぇ。あの水玉、ピーナツなのね」
「さりげなく千葉の宣伝してるところが丹下さんよねぇ」
待機の女性たちの声に気付いてよく見ると、確かに丹下のネクタイの柄はピーナッツだ。今日は八街ピーナツの宣伝か。先日は水玉がビワだった。一体どこで見つけてくるのやら。
「通報。東金市、雄蛇ヶ池。外周の遊歩道がやられてますね。これ、我々の手に負えませんよ」
少し前に見たナイロビがそこに再現されている。もうダメか。
『万博はどうなるでしょうか』
『万博会場も既にカビまみれです。そもそもが山の中に作られていますし、ネイチャー・アンド・テクノロジーを謳い文句にしているので遊歩道は全て木造、花壇や噴水なども非常に多くなっています。子供たちのために作られた芝生広場も巨大アスレチックも立体迷路も青カビに覆いつくされてますよ』
『政府には協力を仰がれたのでしょうか』
『そりゃあもう。早いうちに対策をと何度も何度も政府に訴えましたが、国は対策も取らず予算も取ってくれない。千葉県の財力では最初から限界が見えていました。それでも国が動いてくれるまでなんとか持ちこたえようとしたんです。千葉県民が一丸となって食い止める努力をしたんですが……無念です』
だんだん視線の下がってきた丹下が思い立ったように顔を上げた。
『この場を借りて、ご協力いただいた千葉県民の皆さんと、応援してくださった県外の皆さんにお礼申し上げます。ですが、諦めたわけではありません。引き続き頑張って参りますので今後もご協力お願いします』
『万博はどうなるのでしょうか』
『それは国が決めることでしょう。少なくとも県知事として言えることは、現在千葉県はロックダウン状況下にあるということです』
カビに覆いつくされた会場で万博など開催できるわけがない。総理は一体どんな判断を下すのか。筧大臣がどんな顔で人前に出るのか。
『まもなく日本中がカビまみれになります。東京が、名古屋が、福岡が、新潟が、仙台が。そうなってしまう前に国を挙げて対策を講じないと』
『千葉県はこれからどのように動くのでしょうか』
『我々は次の段階に入っています』
次の段階? 聞いてないぞ? ――岩倉は首をひねった。
『今までは増やさないことに重点を置いて対策を講じて来ました。ですがもうそれでは遅い。これからは撲滅のためにこちらから仕掛けていきます』
『具体的には?』
『まだ発表できる段階にありません。ですが、このままにはしておけない。もう国には頼らない。自治体の横のつながりで方策を練ります』
あんな大きなことを言って大丈夫なのだろうか。最近の彼は、岩倉が学生時代から知っている後輩の丹下と随分雰囲気が違って来た。
優しくてお人よし、面倒見がよく情に脆い。それが丹下源太の形容詞だった。だが、最近の彼は十歳も年上の筧を容赦なく切り捨てる。これくらいの方が頼もしいと言えば頼もしいのかもしれないが、なぜか丹下が別の世界に行ってしまったような、自分が置いて行かれたような寂しさを岩倉は覚える。
「岩倉さん、阿曽沼副知事から連絡です。こっちのパソコンで回線繋がってます」
岩倉の耳に瀬古の声が唐突に飛び込んできた。
「岩倉です」
「阿曽沼です、お疲れ様です。知事の記者会見ご覧になってましたか?」
「もちろんです」
「そのことでちょっと。まだ未発表なんですが」
執務室にいるらしい阿曽沼が、誰もいないだろうにもう一度確認するかのように周りを見渡した。これは県庁内部にも知られていない極秘情報に違いない。
「もしかして『次の段階』のことですか」
「ええ、今朝入ったばかりの情報なので、まだ何とも言えないのですが。実は二階堂研究所から連絡がありまして」
二階堂! 何かがわかったということか。
「例の青カビ、普通の青カビらしいんですが、少々特殊な性質があるらしいんです。それを発見したようでして、ほぼそれで間違いないだろうとしながらも、まだ明確な調査結果が出ていないのではっきりとは言えないと。ただ、もしもそれで確定なら、撲滅する方法は無きにしも非ず、ということなんです」
「対策が取れるかもしれないということですね」
「はい、まだ発表できるほどサンプルを取っていないということなんですが、ほぼ行けると」
待機スタッフから歓声が上がる。とは言っても、老人たちのそれは静かで重みのあるものだ。
「発表できるようなものでなくて申し訳ないんですが、研究が進んでいるという中間報告でモチベーションが上がればと思いまして。お邪魔かとも思いましたが連絡を差し上げた次第です」
「ありがとうございます。もう皆さんやる気満々ですよ! さっきまでちょっと絶望的な空気が流れていたんです。丹下ちゃんが頑張っているなら、我々はその三倍頑張りましょう」
画面の向こうで阿曽沼が力強く頷いた。恐らく彼も相当参っていたのだろう。
「二階堂研究所の話では、もしも成功すれば、再び皆さんに別の協力を要請するかもしれないということでした。カビ除去よりは楽な仕事の様です」
「今より楽ならなんでもするわよ!」
春日部の声が思いがけず大きく響いて、みんながどっと笑う。
「そちらから丹下に何かご要望はありますか?」
岩倉が匠エージェンシーのスタッフに問いかけるように視線をぐるりと送ると、おばちゃんたちがパソコンの前に集まって来た。
「今日のピーナツネクタイ良かったわよ」
「明日の記者会見は大漁旗デザインのマスクで」
「成田山のタイピンもあったでしょ」
「ビワのネクタイもそろそろ見たいわねぇ」
「わ、わかりました伝えます! ではまた追ってご連絡しますので!」
焦る阿曽沼を見ながら、それでも少し展望が見えて来たことに岩倉は期待した。
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