第36話 岩倉・3
一時間経過した。報告はまだ一件もない。水無瀬部隊が稼働する八時間の間に一体何件の要請が来るだろうかと、岩倉はかなり楽観的に構えていた。
なにしろ岩倉自身がまだそのカビを見ていない。その目で確認していないものを信じろと言われても、彼自身が見たのはアイスランドやアラスカの映像であって日本のそれではない、どこか他人事のような気すらしていた。
志藤部隊と森部隊のメンバーは、いつでも連絡の取れる状態にして一旦帰宅して貰った。とはいえ、志藤と森にはここに残っている。
大会議室では水無瀬部隊のお爺ちゃんお婆ちゃん(と呼ぶにはなかなかに若々しい)たちがお茶を飲みながらお喋りに花を咲かせている。
これも仕事のうちだ。仲間同士が仲良くなっておき、情報を共有し合う。横のつながりが現場で重要になることは、経験上痛いほどよく知っている。
「岩倉さん、丹下知事のコメントが出てますよ」
志藤が野太い声を響かせながらスマートフォンを見せて来た。なるほど、『通報する際は出来る限り写真を添付してください』というコメントをSNSで発表したらしい。
その時、突如聞き慣れないアラームが鳴った。
「通報だ」
全員が一斉に色めき立つ。岩倉の隣でパソコンを睨む瀬古が詳細を読み上げる。
「印西市の千葉ニュータウンの公園。ここからなら車で約三十分」
「いや、現在カビ対策チームは緊急車両として知事から届け出が出ています。サイレン鳴らして急行すれば二十分で行けるはずです」
岩倉の補足に水無瀬が頷くと、目の前の席でお茶をすすっていた春日部が即座に席を立つ。
「ここは広いわねぇ。バキューム二人、消毒六人」
「よし、いきなりだが稼働テストも兼ねてバキューム車で行こう。出動メンバーは登録して整列」
メンバーは全員自分のIDを入力してから出動する。それによって誰がどこにいるか管理するのだ。
「水無瀬さん、広い公園なら俺がバキューム行くよ。樹木医だ。あんたと俺で行こう」
「そうしましょう、他に通報が入ったら森さんの方で指示してください」
「了解」
「はい、行ってらっしゃい。気を付けて」
スタッフベストを着こんだ老人が八人、水無瀬の後に続く。『匠』に樹木医がいたことに今更気付いて岩倉は笑いがこみあげてくる――凄い、凄いぞ、これでこそ『匠』だ! これが普通のシルバー人材センターとの違いだ。
彼らが車に乗り込んでいる間にまたアラームが鳴る。
「我孫子市天王台、手賀沼近くの墓地」
「なんてこった。卒塔婆がカビまみれだ」
瀬古の報告に志藤の声が重なる。そこに眉根を寄せた春日部が割り込む。
「お寺さんに確認してください。卒塔婆を残したらどれだけ消毒してもまたやられる。今すぐ全部お焚き上げするように」
「お寺さんならわたしが話をします。横のつながりがありますから」
割り込んだ女性は確か
「そうね、了函さんが詳しいわね。まず、お炊き上げするという前提で、ポータブルバキューム二人、消毒五人」
にわかに慌ただしくなってきた。了函が岩倉のもとへすっとやって来る。
「岩倉さん、春日部さんの話から考えて、今すぐに丹下知事に連絡した方がいいんじゃないでしょうかねぇ。千葉県内のお寺に掛け合って、木製の卒塔婆をできる限り早いうちにお焚き上げしてしまうようにお願いした方が。檀家さんへの説明も必要になりますからねぇ」
「そうですね。今すぐ交渉してみます」
「わたしが岩倉さんの代理ということで話を付けますよ。岩倉さんは全体を仕切る役ですからドンと構えて、細かいことはその道のプロに任せてください」
と、そこへ「お疲れ様でーす!」と脳天気に現れた男がいた。人の良さそうな丸顔、ちょっと八の字に下がった眉、コロンと丸い鼻、くりんとした大きな目、年相応に見えないツヤツヤの肌。丹下源太その人だ。
両手に大きなスーパーのビニール袋を下げ、後ろから数人の職員を引き連れて「岩倉さん、来ちゃったよ」などと緊張感の欠片も無く入って来た。
「丹下ちゃん! どうしちゃったの、今そっちに連絡しようと思ってたところなんだよ」
「うん、聞くからまずこれ置いていい? あ、そこ指令本部なのね。じゃ隣にセッティングするから」
背後にいた職員が、持って来たパソコンを岩倉のそれの隣にセッティングし始めた。一体何が始まるのか。
「岩倉さんのは通報受付用になるだろうから、もう一台持って来たんだ。二階堂研究所がちょこちょこ発信してるのを見落として欲しくないからね。あと俺も地味に発信してるし。あ、この袋の中、お茶菓子が入ってるから。適当に待機メンバーでどうぞ」
と問答無用で近くのおばちゃんばかりのテーブルに無造作に置くと、首元に指を入れてネクタイを少し緩めた。
おばちゃんたちはまるで動じることなく「あら、ご馳走様です」なんて受け取っているが、これが余裕というものなのだろう。
「ありがたいけど、予算少ないんでしょう? 我々に気を使ってもらわなくていいから」
「ああ、これラーメン大王の大将からの差し入れだから。県庁近くに来たら寄ってやってね。こっちはパチンコBIGの店長からだよ。ネオンの『パ』が切れてるから早く直せって言ってんのにね。はははは。で、俺に用事って何?」
なんというか、それまでの緊張感がぶっ飛んで何故かホッと肩の力が抜けてしまう。それが良いのか悪いのかなんとも言い難いところだが、彼の魅力の一つであることは間違いないだろう。
「丹下知事、わたし了函っていいます。お寺さんの事でご相談があるんです」
年配の人の凄いところはこういうところだ。最初から肩の力を抜いたまま緊張感を維持しているから、相手のペースに流されない。
卒塔婆の件を了函に任せて席に戻ると、県の職員が設置したパソコンと匠のパソコンを二つ並べた瀬古が睨みを利かせている。定年まで警備会社で監視業務に就いていたとあって、ただパソコンを睨んでいるだけでもサマになっている。
プロジェクタには瀬古が監視しながら抜粋した情報が映されており、お茶を飲みながらのんびり待機しているメンバーは、それを見て情報を共有している。彼らが有能過ぎて、岩倉には手も足も出ない。
「二階堂研究所のコメントがいいわねぇ、わかりやすくて」
「そうねぇ。やっぱり自分の家の敷地内はなるべく個々でやって貰わないとね」
「ロサンゼルスで殺人ですって。トイレットペーパーを巡って客同士が喧嘩の末?」
「ケニアの大学生、住所特定されて中傷されたって、可哀想だねぇ。歪んだ正義ほど怖いものはないからね」
「そうそう、自分は正しいと思っている人ほど自分の歪みに気付かないから」
アラームが鳴る。
「通報。成田市、印旛沼近くの木材置き場。写真アップします」
プロジェクタに木材置き場の写真が映される。苔と見紛うほどの青カビが木材に生えている。これを一体どうしろと……。
「俺が行くよ」
丹下が笑顔で立ち上がった。
「何言いだすんだ丹下ちゃん、あんた知事だ。全体を仕切らなきゃならん」
岩倉が丹下を止めるのを見て、森が口を挟んだ。
「いえ、丹下知事に行っていただきましょうよ、岩倉さん」
「どうやって丹下ちゃんにカビ抹殺させる気ですか、清掃のプロじゃないんですよ!」
「だからですよ」
ギョッとする岩倉を黙らせた森は、丹下に「お願いします」と頭を下げた。
「焼却の指示が出せるのは知事のあなただけだ、丹下さん」
「はい! 今すぐ行ってきます。その足で県庁舎に戻るので皆さん頑張ってください。また明日も来ますからね。SNSで発信して欲しい事があればいつでも連絡してください、二十四時間どこからでも発信します。じゃ、丹下源太、行ってきます!」
ニコニコ顔で職員を従えて会議室を出て行く丹下を見送りながら、岩倉は彼らの次元の違いに愕然とするだけだった。
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