第35話 岩倉・2

 先程まで百数十人が揃っていた大会議室は、パイプ椅子が全て片付けられ、まるで別の部屋のようになっていた。


 まず、一番奥に会議用長机を横に二本並べた指令席が作られた。そこには現在の状況を確認するためのパソコンと、地図を映し出すためのプロジェクタが準備された。

 その机を正面として、長机一本に六個ずつの椅子で、いくつもの島が作られた。出動チームの待機席である。少し早めに来た人や時間外ボランティアのための島もいくつか準備したようだ。


 今回はただでさえ給料の安い仕事だというのに、時間外もボランティア参加を申し出てくれる人がいるのは非常に助かる。これもあの丹下知事の人柄のなせる業だろう。


 その丹下知事だが、先程午後から稼働できる旨を伝えたところ、すぐにビニール手袋や消毒液などの消耗品が大量に届けられた。驚くほど仕事が早い。何が何でもカビを封じ込めるという意気込みが窺える。


 今ここで封じ込めに失敗したらアイスランドやアフリカのようになってしまうに違いない。すでにケニアだけでなく、タンザニアやエチオピアにも広がっているようだ。

 アメリカのように、西海岸で蔓延したものの封じ込めに成功して東海岸に影響を及ぼしていないところもある。あれは数少ない成功例と言えるだろう。


 今回のプロジェクトは、今までの岩倉の人生で最も大きな仕事だ。

 大学を卒業して意気揚々と入った会社は、俗にいうブラック企業だった。

 普通では考えられないような常軌を逸したノルマが課せられ、それをクリアしないとクズだ無能だと罵詈雑言を浴びせられる。そして給料が貰えない。当然残業代など出るわけがない。

 だが毎日暴言を吐かれ続けていると、社会の汚さなど何も知らない新卒の若者は、自分が悪いと思ってしまう。自分が無能だから、自分が役立たずだから、自分の仕事一つマトモにできないから……一種の洗脳と言っていいだろう。

 それですぐにやめてしまった同期たちは賢かったのかもしれない。人一倍責任感の強い岩倉は、投げ出すことも逃げ出すこともできなかった。精神的に追い詰められて体調を崩しても、仕事に行こうとした。


 久しぶりに会った後輩の丹下が、岩倉の別人のように変わり果てた姿を見て「今すぐその会社を辞めろ」と説得し、心療内科に連れて行った。そこでやっと自分が異常な環境にいると気づかされた。


 それからすぐに依願退職したが、退職すらもスムーズにさせて貰えなかった。

 人間不信に陥り、自分をダメな人間だと思うようになってしまった。三十路になって、結婚どころか恋愛ができるほどの心の余裕もなかった。

 親に心配をかけるわけにもいかず、帰省しても仕事の話は適当に誤魔化した。


 それでも食べて行かなくてはならず、人材派遣会社に登録した岩倉は、自分にできそうなことは選り好みせずに何でも引き受けた。

 警備員、交通誘導、試食販売、データ入力、倉庫内作業、エアコン清掃補助、引っ越し作業員。岩倉が若かったのもあるが、一緒に派遣されるのはほとんどが年上の人だった。早期リタイアした人や、子供が手を離れたくらいのおばさんが多かった。


 お昼休憩は大抵彼らと一緒に食事をするのだが、そこで興味深い話をたくさん聞いた。定年退職してもまだまだ現役でバリバリ働ける人が多い。そして有能なのにもかかわらず、子育てが一段落しても現役復帰できる環境が無いという声もあった。

 そんな彼らがシルバー人材センターに登録しても、軽作業や除草くらいしか仕事がない。彼らは自分たちの能力を持て余していたのだ。

 技能もある、知識もある、経験もある、だが仕事がない。それでもまだまだ働ける。宝が大量に持ち腐れていたのだ。


 そこで岩倉は考えた。宝を生かせる場所が無いのなら作ればいい、と。

 下準備はさほど必要なかった。事務所も借りず、自分の住んでいる部屋をそのまま事務所代わりにした。

 備品は自分のパソコン一台だけ。それで人員の管理をすればいい。面接は喫茶店を使おう、最初はここで持ち腐れている宝を好待遇で引き抜けばいい。


 そうやって十五年前、齢三十五にして立ち上げたのが、この匠エージェンシーだった。

 本当に使える職人だけを集めたと口コミで評判になり、仕事が途絶えることはなかった。ここ数年、単価が跳ね上がっても指名で業務委託をしてくるところも出て来ていた。特に家政婦やヘルパーは指名が多い。遺跡発掘現場に呼ばれる元理科教師なんてのもいるくらいだ。


 しかし「百人以上、上限なし」などと言う滅茶苦茶な依頼は初めてだ。それも、クライアントはあの丹下源太だ。「こんなところに居たら死んでしまう」と泣きながら岩倉を生き地獄から引っ張り出した、あの丹下源太だ。絶対に失敗は許されない。


 あと三分。正午キッカリに県庁のカビ通報システムが稼働する。夜八時までの水無瀬チームは既に消毒用アルコールやビニール手袋などとポータブルバキュームをセットしてスタンバイしている。


「まもなく稼働に入ります。出動の際は全員忘れずにスタッフベストを着用し、自分のIDを入力してから出てください。夜間チームと午前チームは一旦帰宅して招集に備えてください」

「岩倉さん、あと一分」


 早くも監視体制に入った瀬古が時計を読み上げる。最初の部隊は水無瀬チームだ。正午から夜八時までの八時間勤務。二十時から朝四時までは、深夜に動ける人を優先的に集めた志藤チームがここに詰める。

 最初のうちはフル稼働ということはないだろうが、数日以内に二つの部隊が同時に動くようになることもあり得る。いくらプロフェッショナルと言っても中身は年寄りだ。岩倉よりは確実に体力のありそうな老人たちではあるが、それでも心配は尽きない。


 瀬古が見つめるパソコンの中で、ヘッドラインが動いた。


『千葉県が本日正午より、独自に構成した特殊カビ対策チームを運用することを正式に発表』


 今、このタイミングで政府に喧嘩を売ったか、丹下ちゃん。

 背後から志藤がボソリと報告した。


「丹下知事が作業中のスタッフには声をかけないようにとSNSで呼びかけてくれていますよ」


 さすがだ。でもこれはきっと阿曽沼副知事の仕業だろう。作業の妨げになることは完全に排除する方向で、常に先手を打って来る。

 十二時。通報システムがステータスの変更許可を示す色に変わった。


「岩倉さん、十二時です。水無瀬部隊待機に入ります」

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