第九章 千葉県副知事・阿曽沼一義

第30話 阿曽沼一義・1

「困ったなぁ」

 執務室の机で知事が頭を抱えている。ここ一週間ずっと、こんな時間が一日一回はある。楽天家で知られる彼がこんなふうに悩み続けるというのも珍しい。

「今、『わが国で一番困ってるヒト選手権』で国民投票したら、ブッチギリで優勝できると思わない?」

「しょうもないこと考えてないでどうにかするのが知事の仕事です」

 千葉県知事、丹下源太たんげげんた。知事らしくない知事ナンバーワンとして、日本国民で知らない人はいない。いろいろな意味で有名な人だ。

 そして彼とタッグを組んでいるのは副知事の阿曽沼あそぬま一義かずよし。数年前まで会計士をしていた異色の副知事だ。

 頭の切れる阿曽沼から見て、丹下は知事にしておくにはかなり心許ない。物事を理論的に分析し、システマティックに行動を展開していく彼には、丹下の要領の悪い動きはストレス以外の何者でもない。

「丹下さんはどうしたいんです?」

「そりゃ確かに経済効果を考えれば政府の言うことはわかるよ。でもさ、やっぱり県民の生活が一番大事なんだよね。若い子はいいけどさ、バスも電車も止まっちゃったら、お年寄りは病院にも行けなくなっちゃうんだよ。うちの隣のおじいちゃんは週に三回、病院で透析受けてるんだよね。それどうやって通うわけ? って考えるとさ、やっぱり万博延期してでも今はカビを入れないことが最重要課題だと思うんだよね」

 とにかくこの丹下という男は、年寄りと子供を最優先に考える。何かを決める時、必ず「それ、おばあちゃんに理解できる?」「それ、子供のためになる?」という言葉が自然に出るのだ。優先順位が彼の中で完全に決定しているのだろう。

 そのせいだろうか、街に出ても年寄りと子供にはすこぶる人気がある。

 屈託のないストレートな表現と人懐こい笑顔、素直で一生懸命なその人柄は政治屋としては危ういところもあるが、知事を県民の代表と考えるならこれ以上の人材はないだろう。

 一つ問題があるとすれば、知事になるには優しすぎるところだろうか。心を鬼にしてくださいと言ってもこればかりはどうにもならないので、仕方なくそういう場面では阿曽沼がバッサバッサと切り捨てて行くことになる。

「自分は丹下さんの方針に従います。ただし、今回は絶対に政府は折れません。なにしろ相手が万博ですから。万博とオリンピックには何をやっても勝てないんです」

「動物と子供には勝てないのと一緒だよね」

 全然違います! 心の中では盛大にツッコミを入れてはいるものの、一見ズレた事を言っているようで案外真理を突いていることもあるので、声には出さないでおくのが阿曽沼の日常である。

「困った。万博は来月、もう準備万端であとは人が来るのを待つのみ。だけどその前にカビが来る。カビが日本に入って来たら一瞬で千葉県は終わる。成田から会場までの直通路線も引いちゃったし、どう考えても日本で真っ先にカビまみれになるのは千葉県だよ。何としても千葉県民を守りたい」

「でも万博は延期にはなりません。政府と千葉県の全面戦争になりますよ。どうします?」

 しばらく「う~ん」と唸っていた丹下が唐突に立ち上がった。

「ぬまちゃん、ラーメン食べに行こう」



「大将のラーメンはいつ食べてもうまいねえ」

「わかったわかった、チャーシューもう一枚ってんだろ? しょうがねえ知事だなぁ。ぬまちゃんにもサービスね」

「あ、すみません」

 この丹下の人気はなんなのか、阿曽沼は不思議で仕方ない。丹下と昼食を取ることはよくあるが、どの店に行ってもみんな「丹下ちゃん丹下ちゃん」と世話を焼いてくる。この男はこう見えても知事なんだが。

「丹下ちゃん、ボウズいくつになった?」

「大学生になりましたよ。あんなに小っちゃくて可愛かったのに、もう全然太刀打ちできませんね。山本さんちはお婆ちゃん元気ですか? この前入院したって聞いたけど」

「婆さんはもう退院したんだけどよ、今度は爺さんが図書館の段差で転んで入院。うちのかみさんはぎっくり腰、俺は五十肩、もう満身創痍」

「図書館に段差があるんですか。すぐに調査してスロープ設置します」

「スロープはあるんだけどさ、階段じゃなくて、ちょっとした段差なんだよ。だから却って危ねえ。司書に聞けばわかるよ」

「了解しました!」

 今度は別のテーブルから声がかかる。

「丹下ちゃん、万博は延期ナシかい?」

「今んところね」

「カビは大丈夫なのかねぇ、まだ千葉じゃ見てないけど」

「入って来たら一撃KOですよ。まだ入ってないんでしょうね」

「対策はとるのかい?」

「対策取ろうにも予算が無いんですよ。国は予算出してくれないし、万博は絶対やるの一点張りだし。もうこれは県民の皆さんにお願いするしかないですね」

「何をお願いされるんだ?」

「いろいろですよ。お願いしたら皆さん協力してくれますかねぇ」

「そりゃもちろんだよ。オレの財布に影響がなけりゃな」

 知らぬ間に店じゅうの客が丹下との会話を楽しんでいる。大した話は何もしていない、ほとんどがどうでもいい世間話なのに――。

「緊急事態になったとき、皆さんどうやって県庁からのアラームを受けとりますかね? 広報誌じゃ間に合いませんよね。かと言って、みんながホームページを見るとは限らないですよね」

「SNSで呟いたらいいんだよ。SNSもいくつかあるから、みんなどれかしら見てんだろ」

「緊急地震速報や洪水警報だって個人端末に直接来るじゃねえか。あんなふうにしたらいいんだよ」

「丹下ちゃんSNSにアカウント持ってねえのか?」

「はい、すいません」

「遅れてるねぇ。アカウント作んなさいよ。丹下ちゃん個人の。あたしアイコン描いてあげようか? 丹下ちゃんならタダで描いてあげるよ」

「え、ほんと? 描いて描いて!」

 次々といろいろな人がランダムに声をかけてくる。そして丹下を中心にいろいろな人が繋がって行く。彼はいつもこうやって人々の声を聞いているのだ。

 丹下にSNSデビューさせるのは今しかないだろう。阿曽沼はここぞとばかりに強調する。

「丹下さん、そのアカウントに市民の生の声が届くようにすればいいですよ。ホームページに投書するよりずっと早くて手軽です。毎日何か呟いておけばそこに市民のリプライ返信がつきます。手っ取り早い目安箱です」

 阿曽沼が言い終わるかどうかといううちに、もう周りが反応している。

「確かにホームページに投書するのはめんどくさいけど、丹下ちゃんのアカウントに絡むのは気軽にできるな」

「さすがぬまちゃんだねぇ。二人合わせて『千葉の劉備と孔明』だな」

「千葉の、ってとこが等身大でいいねぇ」

「じゃあ、千葉の劉備と孔明に、俺からおごりだ。大将、二人に餃子焼いてやってくれや」

「遠慮なくご馳走になりますっ!」

 ――おいおい、躊躇なくおごってもらうのか? 丹下さんの方が給料貰ってるだろ。

「その代わりと言っちゃなんだが、しっかりみんなを守ってくれよ?」

「はい! 丹下源太、県民の皆様を守るため、身を粉にして働きます」

「頭使うのは私なんですが」

 ボソリと阿曽沼が言うと、みんながどっと笑った。

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