第25話 タイラー・4

「お前さん、バスケットボールは好きか?」

「え? バスケですか?」


 いきなり全く無関係と思われるバスケットボールの話を振られて、ヨウンは一瞬返答に詰まった。バスケットボールには全く興味がない。

 だが、タイラーはその表情を見てフッと笑った。


「全く知らねえって顔だな。まあその方がいい。あるNBAの選手の話だ。昔すげえ選手がいたんだよ。ワトキンスってヤツだった。シアトルの守護神と呼ばれてた」


 シアトル……西海岸の北の外れの方だったか、とヨウンは記憶の彼方から地図を引っ張り出してくる。


「ヤツの出る試合は負けなしだった。ヤツを超える選手はしばらく出ないだろうと言われてた。変わり者でな、ギャラのほとんどを森林環境保全団体に寄付してた。だが、人生ってのはうまく行かねえもんだ。交通事故に遭って、脚を切断することになった。選手生命が絶たれた瞬間だよ」


 タイラーは酒を煽ると、自分で作ったサツマアゲを口にして「旨い」と呟いた。


「ワトキンスは自暴自棄になった。どこへ行ってもみんなが自分を知っている。落ちぶれた自分を見て、同情の眼差しを送って来る。その眼差しに耐え切れず、昼間っから酒を飲んで、喧嘩しちゃあ警察の世話になった。だが、警察でも憐れむような目で見られた。落ちぶれるには有名過ぎたんだ」


 有名になるとはそういうことだ。名声と引き換えに、プライベートを失うことになる。それはヨウンにも容易に想像できた。


「憐みの目など向けられたくない、誰も知らない土地へ行きたい。そう思っていたある日、バーのカウンターで隣に東洋人が座った。彼は気さくに話しかけて来た。日本人でスズキと名乗った。スズキってのはな、シーバスのことだ。魚と同じ名前を持つ男だったんだ」


 タイラーは思い出したように声を上げて笑った。笑顔で。彼の笑顔は人に伝染する。だが、今のヨウンには伝染しなかった。そういう心境ではなかった。


「そのスズキって男はワトキンスを知らなかった。日本人だったし、バスケットに興味が無かったんだろう。今のお前と同じだな。ワトキンスが名乗っても普通に初対面に見せる反応しか示さなかった。だからスズキと話している時のワトキンスは、元NBA選手ではなく、ガタイがいいだけの無職の男でしかなかった。そのせいか、スズキの前では緊張感が緩み、ありのままの自分でいられたんだな」


 ヨウンは妙な感覚を覚えた。タイラーはワトキンスの単なるファンではなく、親友か何かだったのだろうか、と。


「ワトキンスが無職であることを告げると、スズキは自分の仕事を手伝わないかと打診してきた。この街から出ようと思っているからと断ろうとしたら、どこへ行くのかと聞いてくる。行き先は決まっておらず、ただこの街を出たいのだと伝えるとスズキは何を思ったのか『それはちょうどいい。アラスカに来ないか?』と突拍子もない事を言い出した。ワトキンスはブッたまげたわけさ」

「え? 見ず知らずの人が?」


 ヨウンが驚くのも無理はない。それを聞いたタイラーだって驚いたのだから。


「そうだ。だがワトキンスは案外良い土地かも知れないと考えた。誰も知っている人がいない。寒い地方の人は忍耐強く、人の詮索もしないと聞く。何をするのかと聞くと、スズキは『魚肉加工だ』と言った。日本人は魚をよく食べる。ただの魚だけではない、魚肉をいろいろなものに加工するらしい。だから魚を水揚げしてすぐ、新鮮なうちに加工の前段階まで工場で一気にやっちまう。そう言うなり、そのスズキはバーのキッチンを借りてサツマアゲを作ってその場にいた客に振舞った。それがハチャメチャに旨かった。ワトキンスはあっさりスズキに胃袋を掴まれちまったんだ。で、彼と一緒に工場を回していくことになった。――それがこの俺、タイラー・ワトキンスだ」

「え?」


 驚くのも無理はない。工場で働いている人間ですら誰もタイラーの過去など知らなかったのだから。


「タイラーさん、義足だったんですか?」

「普通そこは『NBAの選手だったんですか』って聞くとこだろ」


 タイラーは「そうか、お前さんバスケに興味ないんだったな」と笑った。ヨウンがいくらバスケに興味がないと言ってもNBAくらいは知っている。その選手になるのがどれだけとんでもない事かも。


「スズキは日本とアラスカを往復しててな、一年のうち半分はここにいたがもう半分は日本にいたんだ。だから自分が日本に行っている間の、ここの責任者が欲しかったんだな。だからって昼間っからバーでブラブラしてるような俺に声をかけなくたっていいだろうに。そう言ったら、スズキはこう言ったんだ。『あんたは体格がいいから魚を運ぶのにはちょうどいい』ってよ。全然関係ねえ」


 ヨウンはタイラーの笑いに釣られて、思わず噴き出した。


「そのスズキさんは今、日本ですか?」

「いや、死んじまった。いいやつだったがな。よく家に招待してくれた。必ずシーバススズキのアクアパッツァを作ってくれた。それがまた旨いんだ。俺も何度か挑戦したが、スズキの作るアクアパッツァには到底及ばねえ。サツマアゲもだがな」


 昔を懐かしむように話していたタイラーが、ふと、目元を引き締めてヨウンに向かった。


「なあ、この工場はスズキと俺でここまで大きくしたんだ。俺の後継になるような相棒はお前さんしかいねえ。ここに移り住んでここで俺の右腕として働かないか? いずれここはお前さんに引き継ぎたいと思ってるんだ」

「いや、ちょっと、冗談でしょう? 僕は単なる研修生で……」


 突然の展開に、ヨウンが身を引くのにも構わず、タイラーは畳みかけた。


「お前さんがアイスランドで必要とされてるのはわかる。だが、ここでも必要とされてるんだ。俺や工場の人達だけじゃねえことはお前さんも気付いてるんだろう?」

「あ……ええと、その」

「イザベラの気持ちに気付いてねえわけじゃねえだろう? 俺もお前さんがバーバラの息子になってくれたら嬉しいがな」


 なかなか進展しない二人を工場の人間みんなが陰でこっそり応援していたのだが、本人たちはお互い必死で気づいていなかったようだ。


「まあ、年寄りの戯言だ。お前さんにもお前さんの都合ってもんがある」


 赤くなってモゾモゾと俯くヨウンに助け舟を出すように、タイラーは「おっ、そういえば」と紙袋の中を漁り始めた。


「イザベラがチェスを持って来たらしいんだ。お前さん、チェスはできるか?」

「学校のチェス大会で優勝したことがありますよ」

「よし、じゃ、いっちょ相手してもらうか」

「手加減しませんからね」

「おう、望むところだ」


 義足の元バスケ選手とアイスランドの若者は、畳の上にボードを置いて駒を並べた。タイラーのグラスの中で氷がカランと音を立てて揺れた。

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