第八章 生物学者・シーグルズル
第26話 シーグルズル・1
「じゃあ行って来るわね。あなたの作ってくれたマスク、職場で評判いいわよ」
「通勤用にしか使えないけどね」
「通勤の時くらい可愛いマスクを使いたいわ。じゃ、行ってきます」
「あ、待って」
「ん?」
シーグルズルは出て行こうとする妻を呼び止めた。
「愛してるよ」
「ありがとう。わたしもよ」
マスクの上からキスをするのも何度目だろうか。彼女を見送って部屋に戻った彼は、コーヒーを淹れながらぼんやりと考える。
今日はボタニカル柄のマスクだった。昨日はカラフルなポルカドット、その前はマドラスチェックだったか。カビがブルーラグーンで増殖し始めたとき、すぐにこうなることが予測できた彼は、その日のうちに手芸店に走って布マスクを二十枚縫ったのだ。
五種類の柄で二枚ずつ、それを妻の分と自分の分。一日に使うマスクは二枚、行きと帰りで同じ柄のものを使う。そうすることでマスクの替え忘れを防ぐのだ。
妻は看護師、シーグルズルは生物学者とあって、そういうところは徹底している。そもそも彼がマスクを縫う時点で、同じ柄のマスクでも『行きは白ゴム、帰りは色ゴムのマスク』というのを意識してゴムの色を変えて作っている。
他人から見れば神経質に映るかもしれないが、職業柄、二人の間ではそれが当たり前のこととして自然に認識されていた。
それにしても、マスクが市場から消えるのは早かった。視界がぼやけるほどのカビの胞子に、人々が一斉にマスクをつけ始めたのだ。確かにカビの胞子など吸いたいシロモノではないのだが、医療機関にまで回らないとなると大問題だ。
予測できたことではあるが、マスクの買い占めや転売が既に始まっている。早い段階でわざわざシーグルズルがアイスランド政府に働きかけたにもかかわらず、だ。
現在では転売の禁止とマスクの適正価格での販売が呼びかけられ、違法性のあるものは厳しく取り締まられてはいるが、時すでに遅しである。彼が提案した布マスクの使用について、政府が国民に案内を出さなかったのも敗因かもしれない。あれほど口を酸っぱくして「飛行機が飛ばなくなって、この国は孤立する。国内生産だけで賄えるように」と言ったのに。
今更「呼吸器疾患のある人優先」などと言っても誰も聞きやしない。「呼吸器疾患の診断書をとった患者だけがマスクを買えるようにすればいいのに」とか「マスク製造業者は医療関係施設以外には商品を卸せないように、今だけ緊急法制を出せばいいのに」だのとぼやいたところで、政治家の視点と科学者の視点など端から一致しないのだ。
そして困ったことに、シーグルズルの警告は現実のものとなってきている。飛行機が飛ばないのだ。胞子のように細かいとはいえある程度の大きさを持った粒子が機体にどのような影響を与えるのか、テクノロジーの方面にはとんと疎いシーグルズルでも、胞子がエンジンや翼についた各種の機器に影響を及ぼすことくらいは容易に想像できる。
SNSでは次に品薄になるであろうモノが予測され、それを買い求める人たちがパニックになって行列を作った。
マスク、トイレットペーパー、紙おむつ、女性用生理用品、ティッシュ……紙製品が次々と市場から姿を消してゆく。一度パニックに陥った人は、次のターゲットとなるものの情報をかき集め、それを買いにまた走る。除菌用アルコール、塩素系漂白剤、ブラシ。普通に今まで通り買い物していれば品薄になることもないのに、そうやって慌てた人たちの買い占めによって需要と供給のバランスが崩れ、適正価格の崩壊につながっていく。
人間とは、かくも未知の恐怖に弱い生き物なのだ。アイスランドは島国だ、飛行機が飛ばないのは致命傷になる。これが長期化すればあらゆるモノの値段が高騰し、経済が崩壊するのは目に見えている。
いま最も必要なのは『正しい情報』だ。あらゆる物的需要に対する供給がどれだけ保証できるか、カビが人体に与える影響、カビへの対処法、ライフラインや医療への影響、営業できなくなった業種への政府による補償、生活上の注意点、それらの情報が明確にされていれば、まだパニックは最小限に抑え込めるだろう。ここから先は政府がどれだけ迅速に動けるかがカギとなっており、その情報を与えるのが自分たち科学者たちの使命だ。
と、そこまで考えて、シーグルズルははたと我に返った。九時からニカイドウとリモート会議を予定していたのだ。日本時間では夕方六時、日本人の勤勉さには頭が下がる。
掃除は後回しだ。朝食の食器を片付けて準備をしなければ。さっさと洗ってしまわないと、皿についたままのソースにカビが生えてくる。
どれだけ徹底的に家の中を掃除しても、外出するたび、郵便物が届くたび、ドアを、そして窓を開けるたびにカビの胞子が家の中に侵入してくる。完全に除去することなど不可能に等しいのだ。とにかく今は増殖させないことが先決だ。
彼は袖を捲り上げながらキッチンへ向かったが、不意に戻ってきてスマートフォンを手に取った。そして溜息をつきながら流しの中の写真を撮ると、マスクをしてから洗い物を始めた。
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