第三章 温泉スタッフ・グズムンドゥル

第8話 グズムンドゥル・1

 今日もいい天気だ。晴れが続くと客足も伸びる。

 グズムンドゥルは朝一番の点検をしながら満足げに空を仰いだ。

 見渡す限り続く真っ黒な溶岩と青味の強い乳白色の水、白く立ち昇る湯気に紺碧の空 。黒、白、青で塗り分けられた景色に黄色のスタッフジャケットがよく目立つ。

 柔らかな湯気の向こうには、もうもうと湧き上がる発電所の蒸気。あちらは黒い岩と金属光沢によるモノトーンの世界が広がっていて、ここに比べてシャープな印象を与えている。


 アイスランド、ブルーラグーンホットスプリングス。アイスランド国内有数の観光地が彼の職場だ。

 ここは三十七度から四十度くらいのややぬるめのお湯とミネラルたっぷりの泥が人気で、湯に浸かったままビールが飲めるのも話題づくりに一役買っている。


 海外からの観光客で敢えて四月を選んでくる人がいるとすれば、かなりの通と言える。三月までは雨の日が多く二日に一日は降っているくらいだが、四月に入ると急に晴れる日が増えてくる。

 春に入ったとはいえまだまだ寒いので、シーズンオフのブルーラグーンは割と空いていて、サービスもオンシーズンよりは手厚く行き届く。


 グズムンドゥルの仕事は、施設内の監視と案内だ。七千平方メートル、競泳用プールが五つ入っておつりがくるほどの面積を誇るこのだだっ広いブルーラグーンの中を一日中歩き回る。

 滞りなく午前中の業務を終え、ランチの後の巡回を始めて間もなく、客の一人に後ろから呼び止められた。

 振り返ると褐色の肌に白いビキニの良く映えたアフリカ系の女の子が手を振っていた。


「なんでしょうか」

「あそこでビールを飲んでいるご婦人がいるでしょ? 私たちも何か飲みたいんですけど、お酒じゃないものもあるのかしら?」

「フルーツスムージーなんかもありますよ。あちらで注文できます」

「ありがとう」


 たったそれだけの会話だったが、グズムンドゥルはなぜかとても彼女の事が気になった。アフリカ系の客が珍しいというのもあったかもしれないが、何かそれ以上のものを感じた。

 しばらく巡回していると、また彼女が声をかけて来た。


「ここのオススメの楽しみ方、教えてくれませんか?」


 後ろにいるのは彼女の仲間なのだろう、男女四人が笑顔をこちらに向けている。

 ――そうか、彼女はこのグループのリーダー格なんだ。どういう仲間なんだろうか。


「ここの泥はミネラルを豊富に含むので、泥パックがオススメですよ。体中に塗っている人もいます」

「泥パックね、ありがとう」


 言うが早いか、もう五人は顔に泥を塗り始めている。大学生くらいのグループか、彼よりは五つくらい年下に見える。

 少し歩いてなんとなく気になり、もう一度彼らを振り返ってみると、さっきの彼女がグズムンドゥルの方を見ていた。

 気のせいか、と彼が思った瞬間、彼女は小さく手を振った。明らかに彼に対して手を振っている。

 グズムンドゥルはどうしたものかと思いながらも、軽く手を挙げて見せた。彼女はそれを受けて満足げに仲間の方に向き直って行った。


 それから彼はずっと彼女の事が気になっていた。彼女がこちらを見ているような気がして何度も何度もその姿を探したが、それきり彼女を見ることは無かった。

 とんだ自意識過剰だと自分でおかしかったが、なぜか勤務が終わるまで目は彼女の姿を追い求めていた。


 夕方、今日の仕事を終えて駐車場へと向かう途中、はたと思い出した。今朝、家を出ようとしたとき、車のタイヤがパンクしていたのだ。

 早番だった彼はタイヤの交換をする暇もなく、バスで通勤せざるを得なかった。

 ――やれやれ、ついてない。帰ったらタイヤを交換しなければ――そう思いながらバス停に向かおうとしたその時だった。

 いたのだ、あのアフリカ系の彼女が。

 彼ら五人はグズムンドゥルを覚えていたようで、声をかけて来た。


「今仕事上がりですか?」

「そうなんだ。今朝車のタイヤがパンクしてね。今日だけバス通勤」

「お兄さんもケプラビークの方の人なんですか」

「ああ、僕んちはその手前、ニャルズヴィークっていう小さな町だよ」

「じゃあ同じバスね」


 その間、彼女は一言も言葉を発しなかった。ただグズムンドゥルをじっと見ながら微笑んでいるだけだった。


 バスに乗ってからも彼らはいろいろと話しかけて来た。

 自分たちがケニアから来たナイロビ大学の学生であること、地熱発電の研究をしていること、明日は発電所の見学に行く予定を組んでいること、そのあとはシンクヴェトリル国立公園とグトルフォスの滝を回り、ストロックル間欠泉を見に行くこと。

 そして、アイスランドは何を食べるべきか、人気のあるお土産は何かと、いろいろな話題を振って来た。


 彼らとのおしゃべりを楽しんでいるうちに、家の最寄りの停留所に到着した。彼は他の全てのブルーラグーン利用客に言うように、彼らにも「君たちのお陰で楽しかったよ。良い旅を」と言ってバスを降りた。

 降り際、例の彼女が何か小さな紙をグズムンドゥルに握らせた。彼はギョッとして彼女を盗み見たが、彼女の方は何食わぬ顔で「いろいろありがとう」とだけ言った。


 走り去るバスの窓から、彼らが手を振るのが見えた。彼女も手を振っていた。

 バスを見送ったあと、手の中の紙を開いてみると、近くのホテルの部屋番号と時刻が書かれていた。思わず顔を上げたが、小さくなっていくバスが見えるだけだった。

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