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 逃げられるものなら逃げたかった。

 しかし、身体がまだ思うように動かないうえ、車椅子に乗っている身で逃げ出すことは不可能だった。しかも、核戦争時代以前の遺跡を修復した王宮は、ティタンで言うところのバリアフリーには非対応だ。

 それ以前に、クリステヴァ王国が女王からの誘いを無視すること自体が不可能だったが。

「もう嫌だ、もう二度とやらないって決めたんだ」

「陛下のご要望を聞けないの?」

 姉に首根っこを押さえられ、あっという間に化粧も髪のセットも仕上げられてしまった。

 さすが、元宮仕え。もはや諦めの境地に達したフランツは、初めて目にした彼女の腕前に感心した。このあと、拷問具が待ち受けていることを知らずに……。

「鍛え方が足りないわよ。息を吸って止めて!」

「も、もうムリですよ……むり……この辺で許して」

「泣くな! 女なら誰もが通る道なのよ」

「泣いてない、誰が女だ」

 コルセットで締め上げられ、青ざめているフランツをサビーヌは容赦なく叱咤した。

 体型を考えてほしい。いくら何でも女性ものが合うわけがない。

 不覚にも、いきなり背後から首を絞められた。

「騒ぐな動くな」

「うっ……ぐっ……」

 身内から突然殺意を向けられれば、どんなに訓練しても殺られてしまうかもしれない。恐ろしい勢いで背中のリボンが締め上げられていった。

「ま、こんなもんで許してあげるわ。全部は閉まらなかったけど、とりあえず写真を撮るだけなら大丈夫。さすがにもうそろそろ女装は無理かと思ったけど、いけるじゃない。私って天才スタイリストかもしれないわね!」

 あとはもう為す術もなく、人形のようにわさわさと衣装を被せられてしまった。

 床から天井まである大きな鏡の前には、恨めしげな顔をしたドレス姿の女がいた。

「このドレスって」

 家に飾られていた母の肖像画と同じものだ。白地に薄紫のモスリンやリボンが控えめにあしらわれた、清楚でありながら、細部は繊細で豪奢。

「父上が形見にって陛下に差し上げたそうよ」

 鏡の前にいると、奇妙な心地になった。いつか、こんな場面を体験したことがある気がする。あれはいつのことだったのだろう。鏡に手を当てて向こう側を覗いていると、その背後から現れたのは一体誰だったか。

――あの人に見てほしい。

 あの人って、誰だ?

 その感覚は、帝国製と思われる『カメラ』とやらを手にはしゃぐ女王の登場で掻き消された。

「素敵! マリーだわ! 私はこんなに歳を取っちゃったけど、あなたは昔と何も変わらないみたい! いいわ、その余所余所しい感じ! あと、三人一緒に撮りましょ!」

 王都を闊歩する女学生のような勢いだった。抱きつかれたり腕を組まされたりポーズを取らされたり一緒に写らされたりで、女装させられたことへの屈辱感も、母の姿への奇妙な懐かしさも吹き飛んでしまった。

 ひとしきり騒いで満足したらしい女王は、私室に二人を呼び、アフタヌーンティーを振る舞った。

 久しぶりの女子会だと言って喜び盛り上がる二人を前に、フランツは黙って貼り付けた笑顔を保つことにした。

 なぜ女性という生き物は、ただ集まって喋るだけで何時間も過ごせるのだろうか?


 そして、今は女王と二人きりだ。

 二人で話す時間が欲しいと言われ、新たに持ち込まれた山盛りの焼き菓子のピラミッドを挟んで向かい合っている。

 緊張とコルセットのせいで胃が縮み上がっていた。

 女王は相変わらずのペースで雑談しながらピラミッドの頂点からマフィンを取り、フランツにも勧めた。

「貴方がなかなかの大食漢だと聞いて、たくさん用意させたのよ。遠慮しないで食べてちょうだい。誰から聞いたか分かるかしら?」

 女王は一口で小振りなマフィンを頬張った。あの拷問具を装備したうえで、上品に一口で食べる芸当は、とても真似できそうにない。

「ジョルジュよ。何でもかんでも、とにかく食べると言っていたわ」

 フランツは女王の目を見つめ返す。彼女は混じり気のない笑顔を浮かべていた。肩書きを纏わない彼女は、扱い方に決まりが存在しない、一人の女性だった。

「左様でしたか。今でも、恥ずかしながら、たくさん食べないと動けなくて」

「ふふ、お母様もそうだったわ。ほっそりしているくせに物凄くたくさん食べるの」

 女王は懐かしそうに言うと、聞き飽きたかもしれないけれど、もう少し思い出話をさせて、と続けた。

「ジョルジュは無骨で無口だったけれど、マリーのことをとても一途に想っていたわ。あんな堅物だけど、マリーの前ではふつうに笑っていたの。幼馴染だから安心できたのかもしれないけれどね。私のマリーを掠め取ったことは今も許せないわ。まあ、意図していなかったとはいえマリーもジョルジュの心を虜にしてしまったんだから、どちらも許せないわね。あまり言われたくないでしょうけど、言わせてちょうだい。あなたはよく似ているわ。私の大切な友人たちの若い頃に、とても、ね」

 目の前の女性は優しく微笑んでいる。フランツはどんな顔をしていいかわからず、目線を落とした。

「特に、負けず嫌いなところとか、反抗して結構やんちゃをしてしまうところとか。お師匠様をジジイ呼ばわりしちゃうとかね、全部聞いた話だけれど、ジョルジュと同じよ」

 顔が急速に赤くなるのが分かった。

 女王は一向に食が進まないフランツに、さあ食べて食べてと勧める。

「私には子供がいないけれど、親にとって子供って、やっぱり難しいのよ。だって、自分そっくりなところがいっぱいあるのに、自分と全然違う。分からないところもあるけれど、痛いほど分かるときもある。お説教ね。ごめんなさい。この歳になると後悔が増えてしまうのよ」

「いいえ、お説教なんて、そんな」

 彼女は窓の外を見つめた。晴れて雲ひとつない青空だ。

「記憶を継ぐ相手は、やっぱりその人が一番大切に思っている人なのだと思うわ。彼にとって、あなたは特別だったのよ。最愛の人の忘れ形見だったんですもの」

 紅茶を口に運びかけていた手を止めた。これ以上は聞きたくない。そう思っても、彼女は止めてくれない。

「でも不器用な人だから、気持ちの表現の仕方が全然わからなかったのね。それに、もしかするとジョルジュは、あなたを大事に思わないようにすれば、違う誰かに番人を継がせられるかもって考えたのかもしれないわ」

 紅茶の味は感じられなくなっていた。

 許したつもりだった。それでも二十年以上抱いてきた感情は簡単に消えない。あの男に関わると感じる、この感情が嫌いだ。逃げられない穴の底にいる自分に、泥を流し込んでくる。

「あなたがとても強い剣士になったのは、もしかしたら自分を殺したいほど憎いからかもしれないって、ジョルジュは言っていたわ。情けない顔でね。それが本当かどうかはあなたしか知らないけれど、彼は待っていたのよ。本当は、あなたに向き合いたかったんだろうけど、大人は間違えるとなかなか後戻りができないのね」

 女王は立ち上がった。

「親のことを嫌いだなんて、子供は言えないから苦しいのよ。心のどこかで、好きになれない自分を責めているから。嫌いなままでもいいのよ。許せなくてもいいわ。でも、どうかあなたの中で消し去ってしまわないで。逃げないで。いつかあなたも父親になるかもしれないから、その時のために」

 母がいたら、こんな風に話をしてくれたのだろうか。

 息がうまくできない。手が震えていた。

 彼女は、フランツの背後に回って、背中に触れた。それから、ゆっくりとさすった。顔を見ないでいてくれてよかったと思った。

「申し訳ありません」

 歯を食いしばった。でないと、あまりの情けなさと、込み上げてくる、止めようのない、名前のない感情に負けてしまいそうだった。その向かう先は、もうなくなってしまった。

 あんな形で終わらせたくなどなかった。もっと言ってやりたいことがたくさんあった。

 記憶を継いでいれば、いつか答え合わせすることができるかもしれない。でも、そんなものは望んでなんかいない。

 なぜだか喉の奥から笑い声が漏れた。他人には嗚咽しているようにしか聞こえなかったかもしれない。

 可笑しかった。

 ほぼ面識のなかった女王陛下に、いい歳なのに子供のように背をさすられている、この状況も。石像のような父が、母を前に笑っている顔も、自分のことで友人に相談している姿も想像もできないのに、嘘だと認めたくない自分が確かにいることも。

「陛下……お聞きして良いことなのか分かりませんが、番人というのは、前任者を手にかけないといけないものなのですか」

「あなたもジョルジュも、つらかったでしょう。もちろん罪に問うことはないですからね。あなた達を苦しめたのは、そういう問題ではないでしょうけれど」

 やはり、その質問にはハッキリ答えられないということのようだった。

 左手を見せた。半世紀以上の年月が刻まれた手の甲。掌の厚みも指の関節も手首の骨も、無骨で大きい。几帳面に切り整えられた大振りな爪の形だけが、フランツのもとの手と似ていた。

 まだうまく握れない。父は右利きだったということも関係あるのかもしれないが。

 その手を大事そうに両手で握りしめられ、恥ずかしくなって目を逸らした。

「母の姿を見ました」

「魔剣リヒトシュヴェーアは、使い手だけでは制御がきかないから、前任者の魂が付き添ってくれるのだとマリーが言っていたわ。呪いに呑まれないように守ってくれるって。でもジョルジュは剣を自分の手元には置きたがらなかった。だから預かっていたの」

「なぜ局長は私にアーサー・フラクスを……」

 聞くとまずかったかもと思ったが、席に座り直した女王は、先ほどまでとは打って変わって、強い光を湛えたライト・ブルーの瞳をフランツに向けた。

「番人の運命に逆らう意志を持っている者は、いずれ同じ運命を辿ったわ。彼は千年伝説と番人は茶番だと、真実を暴いてやると言っていた。さらに自分が番人だと偽って妻リアナ・フラクスが狙われないようにと庇っていた。蒼き涙はリアナの……放浪の一族がひそかに伝えていた祭具だったということを隠すために」

「誰も嘘だと思わなかったのですか?」

「蒼き涙の番人は、千年前からずっと行方知れずだったのよ。それがなぜなのか、他の番人には知らされていない。情報がないから、蒼き涙について詳しい彼を疑う者はいなかった。ギュスターを除いて、誰も」

「局長は番人でもないのに、これほど関わっていて大丈夫なのですか? あ、いえ、立場上知り得てしまうとは思うのですが、危険ではないかと」

 女王は微笑んだ。

「そうね。でも番人のことを知っている普通の人間は、国の上層部には、あなたが想像しているよりは多くいるわ。それから彼は私の後継者なんですもの、知っておいてもらう必要がある。ああ、でもまだ本人にも誰にも言っていない秘密なのよ。言わないでね」

「王族以外が継ぐのですか。局長に言わなくて、良いのですか……」

 女王は彼より先に天に召される運命だということか。聞いてはいけないことだったのではないだろうか。

「悪意のある番人に知られたら、彼も狙われてしまうわ」

 特に、アンリ殿下は次期国王候補の筆頭でありながら、ドートリッシュ公夫人の記憶の継承者であるから、女王の力と記憶は手に入らない。

「もしエレーヌが死ぬまでに、アンリが私をひそかに殺すことができたら? だからエレーヌは私の弱みを探し回っているのね。王族は幽閉して殺すのが一番簡単ですもの」

「ですが番人になっても、その力だけで国を治められるわけではありませんよね」

「そうね。でも私の能力と記憶は、この国を治めるためには必要不可欠なものなの」

 自分の身を守ることばかりだったことを恥じた。陛下をお守りしなければ。しかし彼女は首を横に振った。

「私は大丈夫よ。ギュスターがいますもの。貴方には貴方の役目がある。無理に機密局を続ける必要はないわ。ギュスターは私の影。彼の為すことには私にも責任があります。これ以上巻き込んで酷い目に遭わせたくないの」

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