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 封筒の中身は、父の葬儀の日程表と王国−ティタン間の列車の往復代金だった。治療費は機密局が既に支払ったとある。

 将軍だった父は国葬され、女王に奉仕し殉死した者として、王宮に程近い墓地に埋葬される。ガリウスの意外に達筆な走り書きで、遺体の代わりにフランツが持ち帰った服と愛剣とロケット――母の遺影と遺髪が入っていた――が棺に入れられると書かれていた。

 目を閉じた。

 あれだけ怪我を負っても、また生き延びてしまった。ここでずっと眠っていられたら楽なのに。

 ……いや、楽だけれど、ここに居てはいけない。

 アーサー・フラクスを手に掛けてから、もう二度と人を殺したくないと思った。だからティタンに逃げられて、かえって良かったかもしれないと思っていたのに――状況は良くなっていない。

 生きているほうが苦痛だなんてこぼしたら、これまで手に掛けてきた人々に、嘲笑されるだろう。あの魔剣の放つおぞましい闇の向こうに、いとも容易く連れ去られてしまうだろう。

 俺はまだ死ぬことを許されないし、きっとまだ死にたくないんだ……

 床が抜けるような浮遊感に包まれる。現実と夢の入口が混濁していく。

 青い照明が揺らめく店内で、少女はカウンターに片肘をついて扉の外をじっと見つめている。外は雨のようだった。

『ルピー、彼がもう帰ってこなかったらどうしようって思ってるでしょ?』

 夢の入口に立っているだけ、にしては、随分と視界が鮮明で声がはっきりしている。

 席に座っているのは、ティスだ。

 少女は、目を伏せた。

『別にそんなこと……無事でいてくれればいいんです。もしそうなっても、今まで通りに戻るだけですよ』

『でもあなたは、もう今まで通りには戻れない。だから、帰ってきてって電話すればいいのに』

『私には変えられませんよ。それに、きっと連絡ができない場所にいらっしゃるのでしょう』

『そうかしら? あなたから、あちらの知り合いには連絡できるでしょ。理由を並べて躊躇うのはどうして? あなたはこのままでいいの?』

『意地悪ですよ、ティス』

 自分のことを話しているのだろうか? それにしては随分と深刻そうだ。何か重要な事実が発覚したのかもしれない。連絡が出来なかったのは、ずっと寝ていたからだが。

 夢の中なら話せるかと思いきや、声は出せない。

 不意に、星と闇が同居するサファイアブルーとエメラルドグリーンが、まるでこちらに視線を合わせるかのように煌めいた。

 小さな唇が囁く。

『早く帰ってきてください、馬鹿デジレ


 見渡す限り、銀世界だった。山腹に沿って立ち並ぶ針葉樹も、家々の赤い屋根も、すっかり白く厚い雪を被ってしまっている。

 雪の欠片が前髪から睫毛にふわりと落ちてきて、指先で払い落とす。

 少し離れたところに、雪の中をはしゃぎまわる子どもたちの姿が見えた。まだ十になるかならないかの少女が二人と、少年が二人。雪合戦をしている。

 一番身体の小さい少女が、顔面に雪の玉を立て続けに食らう。彼女は顔を赤くしながら足元の雪をかき集め、笑っている少年二人に仕返しする。しかし、少女たちより身体の大きい彼らは、少女が懸命に投げた雪玉を容易く避けた。

「お前、運動も勉強もできないんじゃ将来どうするんだ。男は顔だけでやってけないぞ」

「口だけ達者じゃ、よくて官僚、最悪商人になるしかないな」

 どうやら先ほど顔面に玉をぶつけられていたのは、少女ではなく少年だったようだ。

 もうひとりの少女が彼の前に立ちはだかった。

「兄さんたち! シャルルは好きで身体が弱いわけじゃないでしょ。何も軍人になることだけが全てじゃないし、自分たちも学校の成績は大して良くないじゃない。偉そうに言えるの?」

「ハン! 俺と兄貴はもう推薦で王都のミドルスクールへの進学が決まってるんだ。シャルルの成績と俺たちの昔の成績を比べてみろよ」

 西アルプス山脈の麓にあるロラン家の領地のほとんどは、一年の半分以上のあいだ雪に覆われている。

 主要産業は山腹での放牧酪農で、けして実り豊かな土地ではない。領民の若い男たちの多くは兵に志願し、女たちは残った男たちや老人と共に酪農を支え、子を州都の学校に送り出すための資金を必死で稼ぐ。厳冬をくぐり抜け、生活苦を乗り越える強さのある者しか生き残れない土地。

 ロラン家は、州都に王都の大学や士官学校や上級職業(いわゆるホワイト・カラー)訓練校への高進学率を誇る教育環境を整えてきた。領地内外から貴賤を問わず教育熱心な国民を集めることにまずまずの成功を収めており、州都は政府から教育環境優良都市の指定を受けていた。

 そんな経緯もあって、ロラン家の教育も厳しいものだった。代々、将軍を数多く排出してきた家であるから、男子はエレメンタリースクールを卒業すると王都の士官学校付属ミドルスクールに入れられた。

「勉強ができることと頭の良さはイコールじゃないわ」

「サビーヌとカトリーヌがそうやって甘やかすから、シャルルは口うるさいだけのバカになっちまったんだよ」

「だからシャルルはバカじゃないわよ!」

「もういいですよ、姉さん。バカには好きなだけ言わせておきましょう」

 小柄な少年は、ひどく冷めきった声で言う。

「お二人も、カトリーヌや姉さんに甘えたいのなら、正直にそう言えばいいと思いますよ。でも、お二人は父上に可愛がってもらってるじゃないですか。十分でしょ。まあ、ぶりっ子なのはバレバレですけどね」

「何だとこの!」

「すかした顔しやがって。気味が悪いんだよ、この男女!」

 二人が少年に掴みかかろうとする。少女が割って入らなければ、間違いなく殴られていただろう。

「サビーヌ、邪魔すんな! 偉そうにしてるそいつが悪い!」

「殴ったほうが負けよ。私は兄さんたちを助けてあげてるのよ?」

 二人は少女に手を上げることができない。それをいいことに、庇われた少年は二人に言い返した。

「その汚い言葉遣いを父上に聞かれたらどうするんですか。父上の前でだけバカみたいにおとなしいふりをしてるのが無駄になりますね」

「覚えてろよクソ!」

「ばーかばーか!」

「頼まれなくても、兄さんたちの暴言の回数はちゃんとカウントしてます」

 少年は年齢に似合わぬ冷めた表情のまま、こちらに向かって歩いてきた。そして傍観者の存在に気付くと、怯えた様子で足を止めた。

「父上」

 人形のように白い顔は青ざめていて、唇の色も良くない。

 長く繊細な睫毛に縁取られた、曇ひとつないアイスブルーの瞳に見つめられると、不意に感情を掻き乱された。焦りなのか、郷愁なのか、苛立ちなのか、判別のつかない喪失感。

「すみません。外で遊ぶなと仰っていたのに」

「風邪を引く。早く家に入れ」

 彼はなにか言いたそうにしたが、俯いて脇を歩いていった。その小さな小さな背中に手を伸ばしかけて……やめた。

「旦那様」

 乳母のカトリーヌがいつの間にか隣に現れていた。

「驚かせるな。シャルルを暖にあたらせてやれ。今日は午後から家庭教師が来るだろう。体調を崩せば、また学業が遅れる」

 カトリーヌは眉を上げた。

「旦那様、どうか、時には旦那様がおそばについていてさしあげてください。シャルル様は、本当にお加減が悪い時もありますが、教師から逃げ出したり反抗したりしておられるのは、旦那様の気を引きたいからですよ。なぜ手を伸ばしかけて、やめてしまわれたのですか」

 眉間を摘んだ。歯に衣着せぬ物言いは彼女の長所であり短所でもある。

「弱さ故に甘やかされ守られることに慣れてしまえば、外の世界で生きてゆけなくなる。あの見た目で甘やかされて、つけあがっては困るだろう」

「シャルル様は聡いお方です。そのようなことは、よくわかっておいでです。いつも女のようだと言われて傷付き、お一人で抱え込んでおられるのですよ。どうか、ジョルジュ様がお話を聞いて差し上げてください。私では、また甘やかしていると、上のお二人にヤッカミを受けてしまいますから」

 ため息をついた。

「私は父から受けた扱いと同じことしか出来ない」

「再婚なさるおつもりはないのでしょう? それが子どもにとって幸せなことではないと思っておいでなんですね。それなら、私が果たせない部分の役目はジョルジュ様に肩代わりしていただかなければ」

「どんな役目だ」

「ですから、お話を聞くことです。それから抱きしめることですよ」

「今さらそんなことをしても怯えさせてしまうだけだ」

「まだ遅いということはありませんよ。早ければ早いほどいい。今この瞬間が一番、早いです」

 少しの間、口を噤んだ。

「もう行かなければ」

「お仕事は、お休みだったのではありませんでしたか」

「いや、そうではなく」

 振り返ると、そこには女性が立っていた。

 春の女神だ。

 景色はいつの間にか、一面の白から眩しい青と緑の世界に変わっている。

 天使のような幼さを残したままの、変わらない微笑み。被った白い帽子が風に飛ばされないように手で押さえている。金色の短い髪は軽やかに春風に舞う。伸ばすと剣を振るうのに邪魔だからと言って、貴族の風習に逆らって一度も伸ばしたことがない。ドレスは風に白地に薄紫のモスリンやリボンがあしらわれたもので、清楚ながら、近くで見ると細部の華やかなデザイン。

「ねえジョルジュ、もう少し、あの子を近くで見守っていてあげて。私があなたの傍に居たように。たった一人ではブーケパロスを手懐けられないから。あの子は優しくて泣き虫な子なんですもの。あなたみたいにね」

「何を言ってるんだ、マリー……」


 翌朝は朝日が昇る前に目が覚めてしまった。

 テーブルに山ほど盛られた朝食を食べてから、姉に伴われ、父が埋葬された墓地を訪れた。

 王家に仕えた者が葬られるこの墓地は王宮の裏手の小高い丘の上にあり、見晴らしがよい。墓石が立ち並ぶ場所だが不思議と寂しい雰囲気はなく、都会の中にあって草と土の爽やかな香りが立ち昇る。まだ時間が早いこともあり、ほかに人の姿はなかった。

 父は母の隣に埋葬された。母もまた王家に仕えた者として、ここに埋葬されていた。幼い頃に一度くらいは来たこともあったのかもしれないが、記憶がない。

 まだ車椅子から降りられないフランツの代わりに、サビーヌが持ってきてくれた花束を供えてくれた。

 記憶を継いだといっても、その影響はまだ感じられない。いつもより複雑な夢を見るくらいであり、目覚めると大部分は忘れてしまっている。

 王都は故郷ほど寒くないので雪は降っていない。が、長くいると冷えてくるので戻ろうとしたところ、父の墓に花束を捧げに来た女性と、その連れらしき男性とすれ違った。

 女性は全身黒いドレスだ。縁戚かと、顔を背けかけたが、サビーヌが急に慌てた様子でカーテシーをした。

「シャルル、女王陛下よ、ご挨拶なさい」

「いいのよ。シャルル・フランソワ、あなたもそのままにしてくださいね。私は友人たちの墓参りに来ただけなのですから」

 フランツは、その凛とした声の主を、呆けたまま見つめた。

「陛下……?」

 女王は氷のようだと言われる瞳の持ち主だと噂されているが、目の前の女性の姿は想像していた姿からは掛け離れていた。

 黒のドレスを纏っていなければ、明るい色合いの印象派の絵画の中から出てきそうな。

「無事に帰ってきてくれて良かったわ。ジョルジュもきっと、貴方に会えてほっとしたのね」

 従者に持たせていた花束を墓石の上に置くと、彼女はしばらく目を閉じて祈った。

 それから彼女は膝を曲げ、フランツの目線の高さに視線を合わせた。

「貴方とお話したいことがあるの。あとでアフタヌーンティーに来てくださるかしら? それにしても、本当にマリーにそっくりね」

 母親のような優しい笑顔を向けられているというのに、フランツは不意に身の危険を覚えた。

「さ、左様ですか。お招きいただき光栄です」

「そんなに堅苦しくならないで。個人的にお茶を振る舞いたいだけよ」

 この種の表情を浮かべる女性は決まって同じことを口にする。師匠然り、アメリー然り、シャロン然り。

 瞳を輝かせて熱に浮かされたような表情で、両手を胸の前で握りしめて言うのだ。

「一度きりでいいから私のマリーに会わせてほしいわ」

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