16(4)

 目を覚ますと、どこかのベッドの中にいた。

 ついさっきまで夢を見ていたのか、雪景色の中にいたような、燃え盛る山野の中にいたような気がした。が、その情景も誰かと交わした言葉も、あっという間に溶けていってしまい、掴めなくなってしまった。

 部屋を見渡した。

 壁紙は日に焼けて色褪せた、薄桃色の華やかな花柄。小さいながらも繊細な装飾が施されたシャンデリア。凝った意匠が施された家具。

 傾いた日の光が差す小さな窓の外には、ピンクともオレンジともつかない色に染めあげられた、華やかな壁装飾のある壮麗な建物が見えた。

 まさか、ここは宮殿の一室では。

 身を起こそうとすると、全身が悲鳴を上げ、ベッドに再度沈み込むことになった。

「シャルル? 目が覚めたの?」

 聞き馴染みのある声が素早い足音とともに近付いてきて、フランツがその姿を視界に捉える前に、勢いよく抱きついてきた。

「良かった! シャルル! 良かった……三日も起きないから、もう! クリスマスも過ぎちゃったわよ!」

 痛いと抗議したが、姉サビーヌは弟の訴えを完全に無視した。

 襟ぐりの深いドレスから覗く、コルセットで無駄に盛り上げた脂肪――最後に会った時よりも明らかに増量しているが、命が惜しければ決して指摘してはならない――で獲物を窒息させかけたのち、犬猫相手のように髪に指を突っ込んでグシャグシャにした。

「あら? また寝ちゃったの?」

「こ、殺す気か……」

「ああ〜〜! 生きてる! 良かった!」

 今度は頬ずりされたが、やはり以前より明らかに顔が丸くなっている。しかしそのことを指摘してはならない。フランツは口を固く結んで、されるがままになっていた。

 髭が痛いと文句を言われないところをみると、どうやら綺麗に剃ってくれているらしかった。

「姉さんが無事で、ほっとしました」

「私も家族も大丈夫よ。ずっとディアスさんの部下だっていう人についててもらったもの。それに、ここは陛下の客人用のお部屋だから安全よ」

「へ、陛下の?」

 起き上がろうとすると、左脚と右手に鈍痛が走った。

「まだ起き上がらないで」

 ぼんやりした頭に記憶が戻ってくる。復讐に燃える翠の双眸。天使の顔をした謀略家と、その部下。機械人形の銃弾の雨。友人との再会。母の亡霊、そして黒い霧に呑まれて崩れていった父の姿。

 エルンストに助けられ、地下水路から機密局が使っている地下室に辿り着いたところで、記憶はふっつりと途切れていた。

 手脚に痛みはあるが、動かすことはできる。銃弾で傷を負った割に回復が早いことに驚いた。

 おとぎ話と違い、人体を回復させる治癒魔法は存在しない。可能性としては、番人になったことと何か関係があると考えられる。

「あんたは小さかったから、母上にここに連れてきてもらったこともないわよね」

 サビーヌはベッド脇の椅子に腰掛け、面持ちを暗くした。

「起きたところすぐに聞かせたくない話なんだけど、父上はもう……」

 彼女は両手に顔を埋めた。

「一度も会えなかった。父上が、弱った姿は誰にも見せたくないって言ってたんですって。でも……病気だって言ってたけど、本当は何か事件に巻き込まれて大怪我したんじゃないかと思う。ねえ、あんたは何か知ってるの? 突然ティタンに亡命するし、バーで働いてるなんていうし、戻ってきたらボロボロだし。私には何も教えられないって言うんでしょうけど」

「すみません、姉さん」

 サビーヌは顔を上げた。

「もしかして父上と話ができたの? 何を言われた?」

 逡巡した。彼女は何かと鋭いから、嘘はつけない。

「大嫌いだったって話をしただけです。ただ、父上は悪事に手を染めていたわけではありません。信じてください。兄上たちにも、そう伝えてください」

「そんなのわかってるわよ。あんただって、悪いことしてないって思ってる。でも、そんなボロボロになるのは嫌よ。何針も縫ったのよ」

 姉の目から涙が溢れて零れ落ちた。彼女が泣いている顔を見たのは、ずっと幼い頃に一度きりだ。自分が高熱を出して生死の境を彷徨った夜、一度きり。

「すみません。でも俺は絶対に死なないって陰口を叩かれるような人間ですし」

「ちょっと体調を崩したらすぐに熱を出してたくせに。今だって丈夫そうには見えないわ。馬鹿みたいに食べるくせに全然吸収できてないのよ。私の余ってる分を全部あげたい」

「それはいい案……いえ、なんでもない」

「バカ! 減らず口がきけるだけ元気になってよかったけど、あとで覚えときなさいよ!」

「自分で言い出したんじゃないか」

 サビーヌはフランツの口にいきなり何かを突っ込んだ。シュークリームだ。王都の有名店のもので、昔はクリームが多くて好きだったのだが、さすがにいま食べたいとは思えない。苦労して飲み込んだ。

「ちょっと、病人には果物でしょう」

「病人はまずカロリー摂取!」

 脇のテーブルに積まれているシュトーレンが目に入り、げんなりした。

「姉さんのシュトーレンは甘すぎる」

「母さん直伝の味よ。ほら食べなさい」

 拒否権は無かった。これ以上食べられないくらい食べさせられたところで、訪問者が扉をノックした。

 フランツは、現れた人物を見て顔をしかめた。久しぶりに顔の筋肉を使ったせいで、うまく表情を作れず余計に不機嫌な顔になったことだろう。

 ガリウス・ディアスは、冬だというのに以前バーで会ったときよりも日焼けした顔で、白い歯を見せて部下に笑いかけた。

「よう、相変わらず機嫌悪そうだな。看病してくれた姉ちゃんにちゃんと礼は言ったか?」

「相変わらず無駄にお元気そうですね、ガリウス」

 ガリウスはフランツの返事を流し、真面目な顔になると「よく無事で帰ってきてくれたな」と言った。

「五体満足かどうかはまだわかりません。帰ってきたのは父上に会うためだけではありませんし、怪我したのは仕事のせいですから治療費を請求します」

 彼に心配そうな顔をされて腹立たしくなってそう言ったのだが、サビーヌは鬼の形相になり、「上司に何て口のきき方なの」とフランツの頬を思い切りつねった。

「いつも通りの口がきけるんなら良かった。ちょっとだけ、話できるか?」

 清々しい笑顔を浮かべると、ガリウスはサビーヌに、しばらく隣室に移ってもらうよう頼んで、ベッド脇の椅子に腰掛けた。


「シャロン・ベリル・フラクスの件、わかるのが遅くてすまなかった」

 ガリウスによれば、局長は出先で、シャロンがドートリッシュ公夫人の手先になった情報を掴んでいたようだ。が、局長はフランツとシャロンの関係までは知らない。急いで知らせる必要まではないと思っていたようだ。

 局長がエスメラルダに寄った折に話を聞いたルピナスがアメリーに連絡を取り、ガリウスに話が伝わったのだという。

「それが、お前が俺に電話を寄越したあとでな。アメリーは今、俺と直接連絡をとる手段がないんで、わざわざ出向いて来てくれたんだよ」

「父上に会えたのも、どういう経緯かエルンストが助けに来てくれたのも、師匠とアメリーのお陰ということですか」

 ガリウスは頷いた。

「エルンストは、ルピーが艦長殿から買い取った機械人形なんだってな? ありゃすげぇな。うちに欲しいぐらいだ」

 彼が生きていたことはフランツにとっては驚きであり、嬉しい話でもあった。もしかすると、アーノルドに敗北して艦長達が回収したのだろうか。その話を聞いたルピナスが、引き取る話をつけてくれたのかもしれない。

 エルンストがすぐにフランツを助けに来られたのは、フランツが王国に帰る際に安全を図れるようにと、ルピナスが機密局にエルンストを預けておいたからだという。

 帝国産の機械人形を、よくまあ王国に派遣できたものだ。彼女の手際の良さと、様々な組織との繋がりを考えると、感服すると同時に背すじが寒くなる。

 ガリウスは、ひと通り話し終えると、フランツの左手に目線を落とした。

「親父さんのことは残念だった」

 父の死に対して、なんの心理的ダメージも受けていないと言えば嘘になる。けれども寝起きのぼんやりした頭では、その事実をうまく呑み込めていなかった。

「番人を継ぎました。でもまだ右も左も分からないので、師匠に色々と教えてもらわないと。できるだけ早くティタンに帰りたいのですが」

「まあそう焦るな。親父さんの葬儀はちょうど今夜だ。起きてられそうなら、車椅子でも使って出たらどうだ? ちょっと変装すれば」

「いえ、俺がいるところが見つかれば他の参列者に危険が及ぶかもしれない。帰る前に墓前に立ち寄ります。……ドートリッシュ公夫人の部下は魔法の代わりに銃を使う男と機械人形でした。あちらも帝国と繋がっているんじゃないですか? なのになぜ陛下の揚げ足取りを?」

「あの女は厄介な番人とつるんでるんだ。番人の仲間を増やしたいらしい。お前、今後も追われるかもしれんぞ」

「どうでしょうね。強力な魔剣を扱えるとはいえ、使い手の意志とは無関係に人を殺すんです。使いすぎると早死する。けして便利とは言えない」

 部屋の隅に立てかけられた長剣は、そこにあるだけで不穏な力を発しているような気さえする。

「力そのものより、記憶のほうが欲しいのかもしれんな」

「でも何も……思い出せませんよ」

 左手を握ったり開いたりしてみる。まだうまく動かせない。掌は厚く、指も爪も自分のものと比べて大きい。腕を捲くるが、継ぎ目は見つからなかった。右手のほうは、まだ握力が戻っていないが、やはり傷の回復は思っていたより早い。

「ちょっとばかり時間は掛かるだろ」

「局長が俺を呼び出した用事は結局なんだったんですか?」

「そりゃ、早く番人を継げって話よ。残念ながら、まだこっちには戻っていらっしゃらない」

 ガリウスは、人差し指と中指に封書を挟んで差し出す。いつもの封蝋が押された封書だ。

 封書の中の手紙には、今後の指示が暗号で記されていた。帝国皇帝の動向に関する情報の収集と、レオンハルト・ホーエンシュタウフェンの監視。都度指示を出すと書かれている。

「艦長さんは、局長がフラクス家を潰したことくらい、勘づいていそうだ。なぜ家を潰す必要があったんです?」

「俺に聞くな、わからん。だが、アーサー・フラクスは番人の役目に背いたんだろうな」

 それだけで領地まで取り上げるものだろうか。艦長が亡命したのは身の危険を感じたからだろう。シャロンを置いていったのは、やむを得ない理由があったのかもしれない。人質として取られていた、とか……。

「あまり深入りしないほうが良さそうですね」

「そうだな。心配すんな、お前は陛下を裏切らないだろ。家族にまで類は及ばんさ。フラクス家は何かよっぽどまずいことをやったんだ。陛下を危険に晒すようなことだろう」

 この男が事情を知っているのかいないのか、表情や口調からは全く掴めない。なんにせよ、知らなくていいし、知るほうがまずいのだ。

 ガリウスはベッドサイドテーブルに頬杖をついた。

「なあ、お前もこの仕事、辞めたいと思ったことはあるよな」

「何ですか、藪から棒に。当たり前でしょ。命も保証されない理不尽な仕事ですよ」

「馬鹿正直で安心した」

 彼は、ふっと笑いながら顎の無精髭を撫でた。

「これは雇用継続の面接ですか? 俺は貴方と局長を信用するしかありません。だから、信じますよ。でも、もし正しくない道に進まれていると分かったら、正す覚悟はあります。それが結果的に、主である女王陛下のためでもあると考えます。あなたもそうでしょう? 局長がやってきたことをよく知ってる貴方にしか、正すことはできないんじゃないですか?」

 ガリウスは目を細めた。

「なんだかんだ、今どき珍しく忠義に厚いし真面目な奴だよな。将軍もマリー様も同じ。やっぱ貴族……ロラン家の人間だな」

 そう言われて、嫌なわけではなかった。

「でもな、正義感のせいで早死にするタイプだ。お前は珍しく機密局ここじゃ長生きしてるほうだ、俺以外でな。それは運がいいからだとしか言えん。特に、人の運がな」

 また、その話だ。父と同じことを言う。分かっているつもりだ。慢心してはいけないと。

 話を変えた。

「あなたは、この仕事を辞めたいと思ったことが、おありですか」

 彼は貴族の生まれではない。一介の考古学研究者だった。フランツの推測では、研究するうちに千年伝説に関わる何かを知り得てしまったがために、機密局に引き込まれたのだと思われる。

「俺はお前とは違う。妻子を殺した奴らを見つけ出して殺すために、ここにいるんだよ」

 人好きのする笑顔を浮かべていながら、その声は野性の獣の威嚇を思わせた。

 その話は、いま初めて聞いた訳ではない。他の人間に明かしているのかどうかは知らないが、何度も聞かされている。いつも返す言葉を思いつかなかったから、何も言わずに流していた。

「俺は、あなたの目的を関知しないし協力もしない。私怨を晴らす手伝いをすれば、ただの犯罪者ですから。別に止めもしませんが」

 ガリウスは、ふっと力を緩めるように息を吐いて笑った。

「金を払って雇えば、やってくれるわけでもないってか」

「そのために俺が死なないように手を回してきた、なんて言い出したりしませんよね」

「俺にそんな権限はないし、お前が金で動く人間じゃないことぐらい分かってるさ。たまにちょっと本音を漏らしても、適切な無関心を装って黙っててくれる良い奴だと思ってるだけだ」

 フランツは目を逸らした。男が弱さを見せるのは、よほど信頼している相手の前だけだ。どこを気に入られているのか知らないが、人に気に入られていることは、嫌ではない。しかし、この男に仕事ではなく個人的なことで頼られていることには、居心地の悪さを覚える。

「俺はあなたのことが好きじゃない。それ故の無関心です。勘違いしないでください」

「出たぜ、絶対零度対応。可愛げなんか元々なかったけどよ、そろそろ丸くなれよ」

「毎日怖い師匠にいびられているから無理ですね」

「ルピーが怖い? お前の態度が悪いんだろ」

「女性はみんな怖いですよ。ご存知でしょ? いかにして喜ばせるかではなく、いかにして怒らせないかが大事だ」

 ガリウスは立ち上がった。

「中々いい経験を積んだらしいな。でもよ、おっさんから忠告しとく。死にそうになったら、ちゃんと逃げろよ、フランセスカ」

「ご自分で名を与えておきながら、わざと間違えるのをやめてください。俺からも、ひとつ。復讐は何も生み出しません。亡くなった方への祈りを捧げて日々を過ごしてくたさい」

「俺がまだ生きてる意味は生み出してるぜ? このやり取りが出来るのが、最後じゃないことを祈る。ルピーによろしくな」

 枕元に茶封筒を置くと、彼は片手を上げて部屋を出て行った。

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