ABT15. ペールブルー・ターコイズブルー
(1)
シャロンとフランツが店を去った後。
エスメラルダの店内は、蓄音器から流れる女性歌手の甘い歌声とゼンマイ式掛け時計が時を刻む音に支配されていた。
外から微かに金曜の夜らしい街の賑わいが聞こえてくるぶん、誰もいない店内は空気までもが冷たくなったかのようだ。ルピナスはヒーターのツマミを捻ると、カウンターに両肘をついた。
用心棒が入れない日は休業にしてもよいのだが、今日は金曜日だ。アストラあたりが来てくれるかもしれない。VIP客は事前に連絡をするように頼んでいるし、今のところ、中立の立場を取るこのバーにわざわざ手を出してくる者は『鮫』くらいしかいないはず。その鮫も、今はおそらく艦長の相手で忙しい。
「あの青二才、大丈夫でしょうか……」
フランツはドートリッシュ公夫人に目を付けられている。命まで奪うようなことはしない人物だとルピナスは考えているが、万一ここが割れてしまったら、彼が戻ってくることはないだろう。
みんな、いずれはここから去っていく。一時凌ぎに過ぎない夜の止まり木に残るのは、しがらみばかり。
「……なーんて考える十六歳は嫌だなぁ」
人が通り過ぎていくだけの場所であっても、彼らが残した思い出は沢山ある。壁には色褪せ具合がまちまちの写真を収めたフォトフレームがいくつも掛かっている。その中では、二度と会えない人達も笑っている。ハロウィンの時に撮った集合写真をアストラがくれていたのに飾り忘れていたことを思い出し、新しいフォトフレームに入れて壁に掛けた。
「ふふ、いい写真ですね。楽しかったなあ。来年もまた集まれるといいな」
ふわりと毛先をくすぐる気配がした。もうじき雨が来る。水の元素――ティタンでは千年以上前から半人半魚の精霊の姿で描かれてきた――が満ちてくるのが分かる。蜂の翅を持つ風の精霊が噂を運んでくる。土竜の爪を持つ大地の精霊が地中の生物たちにそれを知らせる。
それらが見えてしまうルピナスは、特異体質の持ち主だ。ふつう人は、ひとつしか守護元素を持たない。しかしルピナスは風と水と大地の精霊に愛される存在として生まれてきた。それゆえに、人間が背負うには強大すぎる魔力を持ち、常人には見えない元素を目で見ることができる。
二つ以上の守護元素を持つ子どもは滅多に生まれない。ティタンでは、そういった子どもは十二歳になると神の使いとして寺院の巫女になることが定められている。ルピナスの家は寺院のひとつを代々司ってきた旧家だったため、ルピナスも当然そうなる運命だった。
十歳のとき、番人の跡継ぎだと分かるまでは。
ルピナス自身は、巫女にならずに済んで清々していた。厳格な父に従うだけのお飾りの巫女になって一生縛られて生きるより、知らない世界を見てまわりたかったから。だが父は、父の従姉妹にあたるエメラが話をしにきた時、エメラを異教の呪術師呼ばわりして家から追放した。
幼い頃からエメラに可愛がられていたルピナスは、二人の間で何があったのかを知りたくて、密かに彼女の行き先を調べ、バー・エスメラルダに辿り着いた。
家に縛られず自由に生きるエメラがなんの仕事をしていたのか、その時初めて知った。親しかった番人のフリードリヒが始めたバーを経営していたのだ。
それからルピナスは週末になると家を抜け出し、バーで手伝いをした。息苦しくて、妹達や弟達の世話で時間が奪われる家にいるより、いつも知らない土地を旅していて、格好よくて物知りで歯に絹着せぬ物言いをするエメラと、稀に姿を表す、気がよくて教養のあるオーナーと話す時間は刺激的で気楽で楽しかった。
帝国の皇族が身分を偽り、気まぐれの道楽で息抜きのために作った潜りバー。その時はルピナスも、まさかフリードリヒがいずれ皇帝になる人物だとは知らず、気のいいおじさんだと思って気軽に話していた。
エメラは、ほんとうはルピナスに番人を継がせたくないと言っていた。巫女にさせるのも可哀想だが、番人のほうがもっと大変なことに巻き込まれるからだと。エメラは持病を患っていて、まもなく訪れる千年伝説の節目までは生きていられないだろうと言った。その節目にルピナスが番人として選ばれたことには、きっと大きな意味があるから、どうか支えてやってほしいとフリードリヒに言っていた。
フリードリヒは、いつも浮かべている爽やかな笑顔のまま、運命という考え方は実にティタン的だ、番人の跡継ぎというのは愛によって定まるものだと思うと言っていた。
その時のルピナスは幼すぎて、彼の言葉の意味はよくわからなかった。けれども、エメラにとって二番目に大切な人が自分なのだとしたら、とても嬉しいと思った。一番目に好きな人は番人で既婚で、彼女の想いに気付いているのかいないのかハッキリしない男だということは、幼いながらも理解していたのだった。
雨水が階段を伝って店内に流れ込まないよう、入口の前に土嚢袋を並べていると、階段の上に中折れ帽子を目深に被った壮年の男性が現れた。
派手ではないが品のある服装に、余裕のある空気感を纏っている。体幹がしっかりしていそうな立ち姿の男性だ。
「今日は営業していますか?」
張りのある、よく通る声だ。そしてルピナスには、聞き覚えがありすぎる声だった。顔を見なくとも分かる。なんという偶然だろう。
「フリードリヒ」
彼は帽子を取ると、日焼けした顔の中で目立つ白い歯を見せて爽やかに笑った。俳優だと名乗っても誰も疑わないであろう完璧な笑顔。懐かしさ以上に、指先まで血が通うような、全身が目を覚ますような感覚を抱くのは、エメラの記憶のせい。ルピナスは努めて平静を装った。
「営業中ですが……ご予約をいただきたかったです」
「大丈夫だ。取り巻きなら、見えてないだけであちこちにいるから。それより随分大きくなったな、見違えたぞ」
彼は被っていた中折れ帽をルピナスに被せると、自分で扉を開けて店内に入った。ルピナスは、扉の札をclosedに変えてから中に戻る。
「この界隈と店の中は三年前とあまり変わっていないね。目まぐるしく変わる帝都と比べると、落ち着くよ」
フリードリヒは懐かしそうに目を細めながら店内を見渡した。
「街の中心は随分と変わりましたけどね」
「そうだな。この青の照明はいいね」
「ありがとうございます」
ルピナスは外套を預かり、壁に掛けた。
「急で済まなかったね。先客がいなくてよかった。いやその、俺が来るという情報を入れることもリスクだからな」
彼は真ん中の席に着くと顎を撫でながらメニューに目を落とした。
「それはそうですが、用心棒がいない日なんて滅多にないのに、そんな日に来られるんですから」
「外には一級の護衛がウロウロしてるさ。普段だって少し歩くだけでも護衛に監視、報道機関。人権の侵害だ。まあ、皇帝は人じゃないんだったか」
ルピナスは、彼が好きなレコードを棚から引っ張り出して針を落とした。音楽が流れ始めると、彼は指先でカウンターを叩いて拍子を取る。
「ご注文は、いつもので?」
「いや、久しぶりにあれがいいな。スメラルダ・ヴェルド。君が作ったのを飲んでみたい」
「かしこまりました。……ここに来られたのは、何か用事が?」
店を辞めてから一度も姿を見せていなかったのに、いま現れたのは何か理由があるはずだ。しかし彼は答えを濁した。
「そんなことより、ここで起きた面白い話でも聞かせてくれ。たとえば、そこの壁に修復跡がいくつもある理由とか、マイグラスを手に入れた猛者の話とか、さ」
「ビッグニュースというほどか分かりませんが、弟子ができましたよ」
フリードリヒは目を丸くした。
「それは君の跡継ぎ? もう現れたのか?」
「いいえ。とある番人の跡継ぎを拾いました。聞きたいですか? ジョルジュの息子さんです。マリーに生き写しの」
「また面倒そうなのを!」
彼はカラカラと笑った。
「性格も面倒くさいですよ。近いうちに顔を合わせることもあるでしょうから、楽しみにしていてください」
フリードリヒは何とも言えない表情を浮かべ、差し出されたエメラルド色のカクテルを受け取った。それから透き通った青翠色をじっと見つめてから口をつけた。
エメラは彼がグラスを傾ける瞬間が好きだったようだ。そう記憶が告げている。
「そうだ、エメラへのバースデーカード、ちゃんと届きました。ありがとうございます」
彼は目を細め、しばし記憶を辿っていたが、「ああ」と微笑んだ。
「でも、会いたいなんて書くのはダメですよ。既婚のくせに」
ルピナスが腰に手を当てて詰め寄ると、フリードリヒは笑って誤魔化した。
「しかも本人には届いていません」
「若気の至りだ。許してくれよ。そういえば君も合法的に酒が飲める年齢になった頃じゃないか? まだだっけ?」
「まだです。華の十六歳です」
「あと二年か。それまで俺は生きていられるかな」
彼は探るような目でルピナスを見上げた。ルピナスは気付かない振りをして背を向けた。本当は、言えるものなら言いたい。さっさと逃げ出して、誰も知らない場所で静かに自由に暮らしてほしいと。
「俺はレオン以外に記憶を渡す気はない。誰かに取られるくらいなら殺しに来てもらいたいって、あいつがまだ迷ってたら言ってやってくれるか?」
ルピナスは口をぐっと横に結んで唇を噛んだ。
そんなこと言わないで。
でも私には何もできない。
「そういうことは、本人に直接言ってください」
声が震えそうだったから、悟られないように感情を抑えて言った。
「うん、そうだな。すまない」
その時ちょうど電話が鳴ったので、ルピナスは失礼しますと断って受話器を取った。
「ルメリ、バー・エスメラルダでございます」
『エセナ君、久しいな。私だ』
受話器からは男の掠れた声が漏れてくる。ルピナスは背筋を伸ばした。
「……お久しぶりです。ご予約でしょうか?」
ルピナスはペンとメモを手元に引き寄せた。
『いつも急ですまないが、もうすぐそちらに行く。先客はいるかな?』
ルピナスは、チラリとフリードリヒのほうを見た。彼が意味ありげに片眉を上げてみせたので、ああ、そういうことかと内心で膝を打つ。
「お一人いらっしゃいますが、もしかしてお会いする約束をされていたのですか?」
『ああ』
ルピナスは緊張がバレないように微かに溜め息をついた。
『そうそう、私の部下は戻ってくる決意を固めてくれたかな?』
「ええ、まあ……お父様に会いに、です」
『ほう。ようやく話す気になったか』
「ジョルジュのことですか? いま、倒れて病院にいると聞きましたが」
『……それは聞いていない。私は昨日に王都を出ていたのでね』
「そうでしたか。それではご来店をお待ちしております」
ルピナスは静かに受話器を置くと、続けてティスに電話を掛けた。休日出勤で申し訳ないが、さすがに用心棒なしで二人を店に入れることはできない。ティスは「それなら仕方ないわね、割増料金もいただきましょ」と快諾してくれた。
受話器を置くと、ルピナスはフリードリヒに詰め寄った。
「この店を指定したのはあなたですか? 私に、あなた方の歴史的会談を見守れと?」
しかし彼は、なんて事はない、と軽いノリで笑う。
「歴史的じゃない。ただの飲みに誘われただけだ」
「嘘おっしゃい。あのタヌキさんが、飲むためだけにこんなところまで来るわけがありません」
「まあまあ。いい情報を仕入れられるかもしれないぞ? 売り方には気をつけないとだけどな。あの人がタダで君に情報を握らせるはずがない」
そう、そして全てがパフォーマンスかもしれない。だから余計に厄介だ。フリードリヒはカウンターの上で指を組んだ。
「ギュスターヴは多分、俺をこのまま皇帝の椅子につかせておいてよいか、品定めしたいのさ」
ルピナスは微かに顔を歪めた。彼が諦めているように見えたからだ。
「今の帝国では、皇帝なんてのは傀儡だ。誰がなろうと関係ない。彼も知っているはずだがな。俺は世渡りは得意だが、意志を持って政治に関わってはいない。政府、軍、元老院のどれかに力が偏らないようにはしているけれど」
「帝国は千年伝説をどこまで真面目に捉えていますか?」
「その話はギュスターヴにも聞かせたほうがよさそうだ」
彼はウインクが下手だ。目を瞑っているようにしか見えない。そしてエメラは、そんな不器用な格好のつけ方も好きなようだった。
***
ABT15(1)(2)のBGMは『Kind of Blue』より、Miles Davis/So What です。
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