(10)

 シャロンは、さながら鬼神のようだった。

 剣よりナイフのほうが得意なのかもしれない。その一撃一撃は、訓練と経験に裏打ちされた正確無比なフランツの突きとはまるで逆で、オリエント民族の舞を彷彿とさせる。形のない水のように自由に、危うく脆く、今にも壊れそうな刹那の美しさをもって、憤怒と悲嘆と歓喜すらも纏ってフランツを襲った。

 そうか、この人は内に炎を飼っているけれども、水の精霊に愛されているに違いない。この場所を選んだのは分が悪かった。

「感情を抑制するのが下手なあなたが、どうやって暗殺者なんてやってたのかと思ってた。でも、屋上の時と昨日今日のあなたを見て確信した。あなたは冷静で計算高くて獰猛な生き物を飼ってるんだね」

「……ああ。子どもの頃は制御できませんでしたから、飼い慣らす方法を先生と司祭に教わったんです」

 抑圧された闘争本能は解放場所を求める。スポーツもチェスのようなゲームも、全て殺し合いの模擬戦だ。

 もしも本物の刃を握ったなら、いかにしてその凶暴性をいなすかを考えねばならない。その時、何度誘惑されても決して魂を売ってはいけないと先生はよく言った。身の安全を守ることではなく、ただ相手を圧倒し傷つけることだけを目的にした時、武器を使うはずの人間は、使われる側になってしまうから。

 シャロンは笑っていた。あの日の戦女神のような微笑みではなく、無邪気で残虐な破壊神の笑みだ。刃の流れに身を委ね、眼前の玩具か畜生か、破壊と殺戮の限りを尽くしても咎められないものをいたぶるようにして、フランツを壁際に追い込んだ。

「本気じゃないでしょ。私を傷付けずに勝とうっていうの?」

 迫る刃を鍔でなんとか押さえ込みながら、フランツは打開の糸口を探した。

「ねえ、ひとつ教えて。私が殺した相手の娘だって知っていながら近付いたの?」

「いや、知りませんでした。アーサーという名とアルビオン系の貴族であることだけしか」

「……そう。嘘はついてないみたいだね」

 ナイフに込められていた力が急に抜け、フランツはよろめいた。シャロンは一歩下がると挑発するかのようにナイフを掲げた。

「もっと抗ってよ、悪人らしく。その手で何人も殺してきたんでしょ?」

 何人も。あの魔剣で。仕事だから、やらなければ自分と家族が殺されるからと言い訳して、哀願にも贖罪にも耳を貸さずに。神に縋るのは、懺悔を誰にも聞いてもらえないからだった。

「あなたに殺されるなら本望だ」

「そんな責任逃れはさせてやらない。……あなたには何か生きて成し遂げたいことはないの?」

「別に。ただ……たとえ嘘でも、昨日あなたが抱きしめてくれたから十分だと思っていたりします。ずっと一人だったから」

「私が失ったもの全部持ってるくせに」

「そうですね……俺が幸福を感じられていないのは、愛されていると感じる部分が欠落しているからなのかな。いや、拒絶していたのかもしれない。無償で与えられることが怖かったのか」

 愛とは見返りを求めないことだとリアナは言っていた。それはフランツが知っている愛とは違う。

 母親が赤子に与える無償の愛なら理解できる。しかし、それを恋愛対象に抱くものだろうか。愛されたいと願うことは間違いだというのか。自分だけを見つめていて欲しいと願うことも、代わりに己を差し出すことも。自分はシャロンに何も差し出せない、要するに釣り合わないから愛される資格はないってことじゃないのか。

『期待するのは間違いで、期待しないのは愚かだからよ』

 わからない。でも、たとえ愛されなくても相手の幸せを思い続けることが正しいというなら、シャロンの幸せとは一体何なのだろう。復讐を果たすことか。平穏な日々を取り戻すことか。

 目標を果たしたら、そのあとは? また次の目標を見つけるのだろうか。

 シャロンの手元のナイフが闇の中で青白い光を反射した。と思った瞬間に風が頬を掠める。反射的に避けた。空を切った刃は、光の筋を引きながら二度三度と異なる軌道を描いて、一層鋭さを増していく。

 命のやり取りをしている間はいつも無心でいられるはずだった。なのに彼女に相対するとき、無駄に思考が頭の中を飛び交う。

 自分には生きる目的など、ない。学者になりたいのは、それ以外にやり甲斐を見出せないだけで、名を残したいわけではない。

 いっそ心を捨てて殺人鬼になってしまえたら、どれだけ楽か。

 それで仕事の最中に死んだら、訃報を聞いて誰か泣いてくれるだろうか。いいや、今までだって、そんな生き方をしてきただろうか?

 不意に、水底が揺らめく色違いの瞳が、闇の向こうからフランツの目を見つめているような気がした。

 彼女は泣いてくれるだろうか。いや、きっとこう答えてくれるだろう――

『誰があなたのために泣きますか。馬鹿デジレ

 ああ、あの人を泣かせてはいけないな。泣いてくれる自信があるなんて言ったら、間違いなく踵で足の指を踏まれてしまうな。

 そうだ、目的ならある。帰らないといけない。あの青い海のそばの騒がしい街の、静かな海の底のようなバーに。


 シャロンの手元の銀色の筋が闇を斬っ裂く。微かに苛立ちが混じる、その瞬間を待っていた。

 超速で擦れ合った刀身が甲高く耳障りな悲鳴を上げた。シャロンは歯を食いしばる。その一瞬の乱れをフランツは見逃さず、瞬時に攻勢に転じた。反応が遅れたシャロンは間合いを取ろうとして背後の水路に目を遣り、踏みとどまる。体勢を崩してもなお、まともに食らえば息の根を止められるくらいの鋭い突きを繰り出すが、それを読んでいたフランツは右手で刃の軌道を逸らした。

 皮膚が裂け、赤い血が飛び散り、刃が深々と食い込む。シャロンが、はっと息を吐き出す。その腕を取って強く引き寄せた。

 彼女は目を見開き、何か口にしようとした。

 その唇を奪う。

 たぶん、これが最後になると思った。

 シャロンは肩で息をしたまま、その場にずるずると座り込んだ。

「わざと……? 馬鹿じゃないの……?」

 心臓が打つたびに走る、気を失いそうなほどの激痛に堪えながらフランツは笑ってみせた。伝えておかないといけないことがある。

「シャロン、あなたの母上は生きておられます。リアナさんからは黙っているよう言われましたが。もしかして、リアナさんが番人なのではありませんか? 艦長さんなら居場所を知っているかもしれない。会いに行くべきだ。こんなところで、誰かの手駒になってちゃいけない」

 シャロンは唇を震わせた。瞳の端から涙がこぼれ落ちる。

「本当に……本当に母さんが生きてるの? やっぱり、そうじゃないかって……!」

「俺は二回しか会っていませんが、常連さんのようですから」

「ああ……良かっ……」

 フランツが最後の力を振り絞って放った一撃で、彼女は身体を半分に折って崩れ落ちた。

 ちょうどそのタイミングで、水路脇の通路の奥から足音が響いてくる。

 フランツは階段の影に身を隠した。頼む、局員であってくれ。そうでないならシャロンを人質に取らなきゃならない。

 だが現れたのは、局員でもなければ、シャロンの味方でもなかった。フランツが最も憎み、最も会いたくない、けれど会うためにここまで戻ってきた人物。

「なんで、あんたがここに……」

 言い切らないうちに、いつの間にか背後に現れていた別の何者かに後頭部を殴られ、フランツは意識を失ってしまった。

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