(2)

 電話があってから約半刻後、モノクルをかけた壮年の男が現れた。彼は文官でありながら体格がいい。かつては警務官だったためだ。人目を引く外見というほどではないが、そこにいるだけで存在感がある。

「ルメリ、ムッシュー・ゴドフロア。お足元が悪い中お越しいただき、ありがとうございます」

 ルピナスは約一年ぶりに来店したVIP客に向かって丁寧にお辞儀し、雨に濡れた外套を受け取った。

「ボンソワール、マドモアゼル・エセナ。いつもいつも急ですまない。それから、うちの部下が随分と世話になっている。ありがとう。そしてボンソワール、皇帝陛下。お待たせして申し訳ありませんでした」

 最敬礼する彼に、フリードリヒは店にいる間は対等な立場で話したいと伝え、立ち上がると握手した。

 ルピナスはゴドフロアが決まって注文するロワイオテ・ム・リを用意し、差し出した。フリードリヒには、味見してほしいと頼んでいた試作のカクテルを出した。


 二人は暫くの間たわいのない世間話をしていたが、一杯目がなくなる頃には本題に入っていた。

 ゴドフロアはグラスの底に残ったシロップ漬けのクランベリーをスプーンで掬った。それをゆっくり噛み締めて味わってから、口を開いた。

「陛下。白桜刀はどうなっているかご存知ですか? 失礼ながら、あまり進捗は良くないようだとか」

 フリードリヒは苦笑した。

「正直、手が空いている他の番人が協力しないことには無理でしょう。せっかくうちの顔を立てようと任せてくださったのですが、我が国の番人は少ない。それに皇族ですら魔法を目にしたこともない者がほとんどですから、千年伝説もお伽噺としか思えない者が多いんですよ。国の危機と言われてもピンとこない」

 ゴドフロアは特に驚いた様子もなく頷いた。

 帝国領には、かつての大戦の負の遺産、核汚染土壌が広範囲に渡って広がっている。地上を守っているのは、かつて王国の協力を得て開発した、地中に埋め込まれた魔法障壁だ。その維持に大量の魔法元素を消費しているため、帝国の地上にはほとんど元素が残らない。

 帝国が王国に対し強く出られないのは、魔法障壁の管理のために王国から技術者を借りているからであり、王国が帝国に本格的に手を出さないのは、厄介な土地を引き受けたくないから。

 この二つの事実を知る者は番人と両国の政界トップ層に限られる。

「ルピナス君には色々と勘繰られているようだが、私が帝国議会と繋がりを持っているのは、障壁を維持する魔力の不足分を提供するためだ。だから議員でもあった番人のグレン・スプリングフィールドと繋がりがあった。グレンが息子を私に頼らせたのは、その繋がりにすぎない」

 もちろんルピナスは、彼の話をそのまま鵜呑みにしたりしない。が、表情には出さずに頷いた。

「白桜が復活して魔法元素が再び世界に供給された時、何が起こるか君にも想像がつくだろう?」

 彼は二杯目に注文したスメラルダ・ヴェルドを傾けた。

「パワーバランスの崩壊だ。すなわち戦争だよ。帝国に魔術を使わせるわけにはいかないし、第三勢力の台頭も平和の脅威だ。

 世界の均衡を保つ番人である女王の代理人として私は、魔力の分配は慎重な議論に基づいて行われなければならないと考えている。しかし、どうしても王国がイニシアチブを取らねばならないのだ。

 戦争が起きれば、この小さな街など、ひとたまりもないぞ。脅しているのではない。一旦戦争になってしまえば、いくら私たちが手を尽くしても、力及ばなくなる」

 彼が来店したのは、ルピナスとフリードリヒに釘を刺すことが目的だったようだ。余計な手出しをするなと。

 ルピナスは、力なく首を横に振った。

「あなたの話は分かります。しかし、両国のパワーバランスが取れているとはいえ、民の暮らしには大きな差があります。王国以外では子どもが満足な暮らしができないことなど、珍しくないのです。神の恩恵は皆平等に受ける権利があるのでは?」

「それはわかっている。だが、政治的努力でどうにもならない部分を魔法で簡単に改善できるようになるか? これは非常に時間がかかる問題なのだ。

 そして、いま教皇は黙って見ているだけだが、必ず口を挟んでくる。何せ、奴本人は別として、教皇庁は往時の権力を取り戻したいと考えているからな。何なら世界を再度大災厄に陥らせてから、神の御業と称して白桜の力を使いかねん。そんなことをさせるわけにはいかない」

 重い沈黙が下りた。教皇も番人の一人だ。教皇と、教皇に付き従っていると思われる番人は、他の番人とは距離を置いており動向が掴めない。

「ランス・スプリングフィールドは一旦うちで預かりましょう。まずは期日までに魔力を戻さねば。建前は何なりと用意します……『鮫』に連れ去られたということにしておくのもいいでしょう」

 フリードリヒは宙の一点を見つめて考え込んでいる。ルピナスはゴドフロアに率直に聞いてみることにした。

「鮫に手を貸していらっしゃいますか?」

「協力ではない。利用だ。あれは全ての番人を廃すことを望んでいるのだぞ。すなわち暗黒時代への逆戻り、ひいては人類滅亡だ。奴のことは利用できるところまで利用する、それだけだ」

 カクテルを味わいながら黙って聞いていたフリードリヒが沈黙を破る。

「私はこれまで聞いたあなたの考えに概ね賛成です。が、やはり帝国皇帝としては賛同できない立場にあります。ギュスターヴ、あなたが誰かに……たとえばレオンに私を殺させたとしても状況はそう変わりませんよ」

 瞬時に店内の空気が凍りついた。二人の男は笑みを浮かべていたが、どちらも目は笑っていない。レコードはいつの間に止まっていて、掛時計が時を刻む音がやたらと大きく聞こえた。ルピナスはフリードリヒの横顔を見つめた。彼は博打が好きだ。結果がどうなるかを考えたりしない。むしろ、思っていないことが起きるほど瞳をぎらつかせる。対するゴドフロアの表情は、凪いだ海のように静かだった。あまりにも静かすぎたかもしれない。

 ルピナスは息をすることさえ憚られ、身動きせずに成り行きを見守った。

 フリードリヒのグラスに残っていた氷がカランと涼しい音を立て、止まった時を進めた。彼は含み笑いしつつグラスを指で弾いた。

「私は政治には疎いが、バーテンダーをやっていたせいか耳が良くなってしまいましてね。噂話だけは拾ってしまうんですよ。

 遠戚のレオンが必要とされるほど皇族が減ったのは、いまの帝国の体制に不安を抱く勢力の仕業であることは想像に難くない。まあ私としても、右極に取り込まれた皇族の連中が手に負えなくなる前に掃除しておきたいので、ちょうどいいんですが。

 この百年、王国と国交断絶しているせいで経済は悪化しておりますから、亡命してきたとはいえ王国と繋がりを持つレオンを使って両国の国交正常化に繋げようと考える者もおります。が、改革派も一枚岩じゃありません。帝国民の感情もね。何も千年の節目に内政を乱す必要はないと思うんですよ。そこを狙われてしまうかもしれません」

 フリードリヒは尚も続ける。

「私はまあ……五十年も生きたから十分ですし、レオンが面倒ごとを代わってくれるのなら、むしろ有り難いとさえ思っています。彼のほうが私より遥かにうまくやるでしょう。しかし私だって遊んでいたわけじゃない。無駄死にするのは嬉しくありませんね。どうせなら、もう少しいい役を貰ってから退場したいものだ。お願いしますよ、脚本家殿」

 ゴドフロアは駄々っ子を前にして途方に暮れる父親のような表情になり、それから、若い頃の過ちを暴かれて恥じいるような表情になる。

「私がかつて脚本家を目指していたことをご存知とみえる。どこから聞かれたのか……」

 彼は横目でルピナスをちらりと見た。見られたほうは、軽く肩をすくめる。局長はモノクルを外し、カウンターに置いた。

「その噂話をあなたの耳に入れたのは、おそらくレオン・ホーエンシュタウフェン本人でしょうね?」

 それを聞いたフリードリヒは声を上げて笑った。

「殺すつもりだとわざわざ予告しに来るなんて、わが親族ながら変わった奴だと思いましたよ。どこまでがあなたのシナリオなのかを確かめたくて、この話をしたんです」

「噂に過ぎません。帝国の内政が乱れれば、難民が王国に押し寄せる。それに私は脚本を書くときに枠組みしか作らないタイプでした。あとは人物がどう動くか観察しているだけ」

「いいや、思うように動かなければ、障害や助っ人を入れるものでしょう」

「彼は忠告を聞き入れませんよ。彼に限らず、みな私の意図も苦労も知らない……」

「悪役を引き受けるというのは、そういうことでしょう。嫌われれば嫌われるほど演技が上手いということ。本当のあなたの物語は誰にも見せずに、傷つけられない場所に隠しておくもの」

 刹那、ゴドフロアの横顔に浮かんだものは何だったのか。

「たとえば伴侶にもですか?」

「ああ、そうですね。人生とは役を演じることロールプレイですから」

 フリードリヒは、失礼、と断って煙草に火をつけた。

「若かった私は孤独に耐えきれず、このバーを作った。そして他では得られないものを手に入れました。しかし、やはり孤独から逃げられはしなかった。孤独との対話は、私だけの物語なんですよ。あなたは多分、ロールプレイがお上手だ。けれど誰にも見せない物語を大事にしておられない。成さねばならないことを見つけては、時間と孤独を埋めている。

 何事も、目を逸らしたり背を向けたりしている間は恐ろしい。真正面から見つめ返さないとね。私にとって愛を知るとは、そういう道のりでした」

 わかったようなわからないような話で煙に巻くのは、話を切り上げたい時にフリードリヒが使う常套手段だ。これ以上話しても平行線だと考えたのだろう、彼は懐から自分の横顔が刷られた札束を数枚出してカウンターに置き、席を立つと壁にかけてあった外套と中折帽を手に取った。

「そういえば、愛を知らなければ魔法は使えないのでしたっけ? そんな歌がありましたね。それなら、私たちがいま魔法と呼んでいるものの本当の名は何なのでしょう」

 ゴドフロアは、くつくつと笑った。

「すると陛下は、神が人類への愛ゆえに授けてくださったものではないと……?」

「もしかすると、気まぐれに投げ込まれた黄金の林檎なのかもしれません」

「面白い。ですが神から権利を与えられているはずの皇帝が、そんなことを外で語られてはいけませんな」

「いいや、今あなたの目の前にいるのは、ただのフリードリヒという男ですよ。ギュスターヴ、あなたとお話できて良かった」

 フリードリヒは芝居がかった動作で頭を下げると、振り返ることなく店を出て行った。

 ルピナスは、ゴドフロアに一言断ってから、傘を持って外に出た。それに気付いたフリードリヒは階段の上で立ち止まる。これ以上スーツに雨の染みが増えないうちにと、ルピナスは慌てて傘の中に彼を入れようとしたが、背伸びしていることに気付いたフリードリヒは、笑いながら傘の取っ手を奪い取った。

「ルピナス、帝国に来いよ。ティタンは王国よりマシとはいえ、身体に障るだろう」

「それはできません」

「そう言うだろうとわかってはいたけどね。エメラと俺の約束を、君まで守る必要はないんだ」

 フリードリヒは膝を曲げてルピナスの左頬をペチペチと叩いた。

「大人の言うことは聞くものだ」

「む、子ども扱いしないでください」

 頬を膨らませていると、間近にあるターコイズブルーの瞳が細められた。

「ああ、やっぱり、その緑色の右目はエメラの……」

「そうです。遠見の番人が継ぐものです。巫女となるはずだった私が今日まで生きていられたのは、この目を貰ったからでしょう」

「それでも君の魔力は強すぎる」

「アドリア海が見えない場所で生きる意味はありません。あなたが酒と相槌のない人生などあり得ないと思っているのと同じく」

「はは、違うよ。俺はそこまで酒が好きなわけじゃない。言ったろう、酒は一時凌ぎに過ぎない。俺にとっては、言えない言葉を飲み込むためのものだった」

 目は口よりも雄弁だ。彼の瞳は、エメラルドグリーンの瞳の奥を見つめていた。一度や二度ではない。目が合う度にそうだったとルピナスは知ってしまった。

「フリードリヒ。エメラは……」

 そこまで言いかけて、ルピナスは口を閉じた。この言葉はエメラのものだ。自分のものではない。彼女が一度も告げなかったのならば、そのままに。過ぎ去った日々を変えてはならない。

「……エメラは、私とは違う人です。言いたいことがあったのなら、会った時に」

 見つめ合ったまま二人で雨が傘を叩く音を聴く。この情景にも既視感を抱く。エメラとフリードリヒが出会った日も、こんな雨の日だった。

 フリードリヒの指先が、するりと頬を撫でてから離れていった。

「ああ、そうだな。ルピナス、あの新作のカクテルは良かった。君になら、安心して店を任せられる。元気でな」

 雨の中に消えていく背中が見えなくなるまで追う、ということはしなかった。自分はエメラじゃない。だから。

「これで良かったんですよね……」

 雨が目に入る。店内に戻る前に、ハンカチで髪と顔と肩を拭く。

「ルチヤ(さようなら)、フリードリヒ」

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