(6)

 シャロンの着替えを待っている間、窓際の椅子に座って外を眺めていた。

 南ガリア地方の冬の田園風景は、どこまでも続く白と灰と茶の世界だ。けれども、冷たい地表の下に息を潜める生命の微かな躍動が、寂寥感を払拭してくれる。その躍動を伝えるのは、魔法の元素だ。

 魔法の才能には全く恵まれていないフランツだったが、元素が豊富な場所にいれば前身の毛が逆立つような感覚に陥るし、理由もなく湧き上がる高揚感に惑わされたりもする。才能のある者には元素が見えたり、逆に身体に異常を来したりすることもあるという。

 王国領に入ってから、列車の先頭車両は王国のものに変更されており、火の魔法を使う機関士と車両に設置された魔法石が原動力となって車輪を稼働させている。王国の交通機関は都市間が鉄道、都市内は市電で、どちらも同じ仕組みだ。

 フランツは守護元素が火であるせいか、鉄道や市電に乗ると、不思議と身体の内側から温められるような感覚がして、幼い頃から好きなのだった。


 果てのない平地と緩やかな丘陵が流れていく様をぼんやりと眺めているうちに、昨晩見た夢のことが思い出された。

 嫌な夢だった。

 父が出てくるかと思いきや、それは繰り返し何度も見てきた、初めて機密局員として『仕事』をした日の夢だった。


 大学に入って一年ほど経ったある日、手紙で王宮の一室に呼び出されてゴドフロア局長に会った。機密局についても、何の用事なのかも全く聞かされないまま、彼と部下であろう寡黙な男に連れられ、バスティーユに赴いた。着くと看守服を着せられ、顔は見えないようフードで隠して言葉を発さないようにと言われた。そして、終わりがないのではと思うほどに長い螺旋階段――おそらく作られてから数百年は経ているであろう石造りで足を滑らせないよう細心の注意を払う必要があった――を、誰も一言も発さずに降りた。


 バスティーユ最下層の牢に閉じ込められていたのは、重大犯罪者には到底見えない身なりの四十代くらいの男だった。三人が現れても男は動じず、椅子に座ったまま静かにこちらを見上げた。心許ない蝋燭の灯りに照らされた、薄汚れ窶れた顔の中で蒼い瞳が異様な生気を放っていたことを、今でも覚えている。佇まいや待遇からして、身分の高い政治犯罪者だと思われた。

 局長は、膝をついて目線を彼に合わせると、秘密を吐く気になったかと問うた。男は愛想の良い笑みを浮かべ、何のことか分からないと答えた。

 フランツは連れの男から無言で布に包まれた棒状のものを手渡された。重みで、これは剣だとすぐに分かった。そして、自分が何をさせられるのか漸く気が付いた。

は指示されるまで刺すな」

 それだけ言うと、男は牢のほうに顎をしゃくった。一見するとありふれた意匠ながら、細部に繊細な装飾が施された細剣は、紛争後一度も剣を手にしていなかったというのに、手にぴたりと吸い付いた。目には見えない、こびりついた血の匂いが立ち上ってくる。それが躊躇いを塗り潰した。この刃は、これまで同じ用途で何度も使われてきたものに違いない。使い手を得て悦びに震えている。長い鉤爪のある魔物に手首を掴まれているような気さえした。

 引っ掻くような耳障りな音を立てて鞘走った剣を、柵越しに、囚われている男の首筋に当てがう。だが男は、死の恐怖の代わりに驚愕を顔に浮かべ、フランツの顔を凝視した。皮が捲れ血がこびりついた唇から驚きの声が漏れた。

「……生きていたのか? いや、そんなはずはない」

 アルビオン語だった。何も答えるなと言われていたが、思わず息を吸ってしまった。

 局長はそのことに気を留めた様子はなく、男の呟きにも返答しなかった。

は君を傷つけることも殺すことも望んではいない。私もだ。君も彼に罪を負わせたくないだろう? もう一度だけ問う。細君はどこにいる?」

 男の瞳は闇の中で一層輝きを増した。オレンジ色に近い蝋燭の灯りの中ですら、晴れた日の波風のない海面のような蒼い瞳だった。彼はアルビオン語で答えた。

「ギュスターヴ、私を殺すなら自分の手で殺せ。君がどこまで知っているかは知らないが。外で見物しながら人の命をどうこうするなど、貴族の隅にも置けん。それともガリア人というのは、それが上品なやり方だとでも思っているのか?」

「わざと人種差別的発言をするのは良くないな。その程度で私は心を乱されたりしない」

 局長は狭い空間の中を、ひどくゆっくりした歩調で歩き回った。

「君が粘れば時間稼ぎにはなるが、いずれ結果は同じだ。細君の居場所を言えば二人揃って身の安全を保証する、その条件が気に食わないか?」

「何と言われようと、君には妻を渡さない。もし娘にまで手を出せば呪い殺してやる」

 静かだが断固とした口調だった。局長は長い息を吐き出した。

「正義や平等で平和は保てない。私のように罪を引き受ける人間もまた必要なのだ。そういう役目を負ったのだと自覚している」

 局長はフランツに目配せした。その意味するところを理解して背筋が粟立った。彼と眼前の男の意志の強さが、魔法元素の侵入が絶たれているはずの室内で、気の流れを轟々と渦巻かせている。それがフランツが手にした細剣が宿しているものだと気付いた時には、男の首は地に落ちていた。噴水の如く散る鮮血を浴びながらフランツは、のろのろと自分の手に目線を落とした。常人の力では、手を軽く捻っただけで首を落とすことなど叶わない。これは人が手にしてはならない魔剣だ。震える手から滑り落ちたそれは、石の床にぶつかり、乾いた甲高い音を室内に反響させた。

 局長はフランツの肩に手を置いた。

「やはり、それは君のものだな。君なら制御してみせるだろう。決して身から離さないようにな」

 局長のペールブルーの瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。フランツが動けずにいるのを見て取ると、彼は身をかがめて剣を拾い上げ、血を払うとフランツに手渡した。こんな呪われた剣を手元に置きたくないと思ったけれども、羽のように軽かったそれは、ひどく重く、先程までの力が嘘のように何も感じられなくなっていて、鞘にするりと収まってしまった。

 柵の向こうから足元まで広がってきた血溜まりの中心で、何も映さなくなった深海色の瞳は、低い天井を見上げていた。それを見下ろしながら局長は、掠れた声で呟いた。

「本当はな、アーサー、私は君が羨ましかった」

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