(2)
艦長は帝国の軍人だ。見た目は二十代くらいにしか見えないが、実際は三十代前半で、それでも既に軍上層部に近いポジションにいる。ここの客のほとんどは彼の部下といってよく、彼らからは艦長と呼ばれている。場を乱すような破滅的な飲み方はしないし下戸でもないのだが、強い酒ばかり飲むので、毎度寝るか突っ伏すかして、閉店時間になると部下に引きずられるようにして帰って行く。
「話す気になったらいつでもどうぞ」
ルピナスは氷を大量に入れ、少し溶けるのを待ってから出した。
「うん、今日は放っておいてくれ」
彼は琥珀色の液体に浮かぶ氷山を見つめ、微笑んだ。これは相当来ているらしい。十年以上片思いの兄嫁、今は未亡人となった人に振られ続けているのだが、相手が厄介なもので、飴と鞭なのだ。いわゆる悪女というやつか。
「あんな感じなので、ご安心ください」
ルピナスは青年に笑いかけた。
「お仕事が大変なんでしょうね」
「いえ、プライベートの方ですよ」
艦長は数口飲んだだけで机に突っ伏している。
「あら。こっそり薄めたんだけど」
「く……そうなんじゃないかと思ったよ」
消え入りそうな声で彼は返事した。
「ああ、死にたい」
「死にたいなんて冗談でも言わないで。はい、寝るなら寝る、もしくは動けるうちに帰る」
返事がない。今度こそ寝たらしい。ルピナスはカウンター越しにブランケットをかけてやった。
「プライベートって……いや、聞かない方がいいですね」
「悪女に十年間惚れていらっしゃるのです」
「ああ……」
青年は何となく察したらしい。
「いちおうフォローしておくと、たいへん頭の切れる人なんです。でも、ここで知ったことは誰にも話さないでくださいね。約束です」
青年は頷く。グラスが空になっている。
「何かご注文なさいますか?」
「そうですね……じゃあ、あの方が飲んでらしたのを」
「ミドルマーチですね。かなりきついですよ」
「大丈夫です。あまり酒に酔ったことがなくて」
「お強いんですね」
「まあ……」
入口の扉のチャイムが涼しい音を立てる。
「ルメリ……あ、シャロンさん!」
亜麻色の長い髪の若い女性はルピナスに軽く手を挙げると、どこに座ろうかと目線を泳がせた。ルピナスは彼女から見て左端の席を勧め、いつもの
「今日はお仕事終わり、早かったんですね」
彼女の仕事は日付を回ることが多いので、今日は珍しい。
「運が良かったよ」
彼女は先客の二人をちらりと見た。
「今日はお疲れのお客さんたちだね」
「そうですね」
シャロンは出された
「それ、何ですか?」
彼女は青年が飲んでいるグラスを指した。
「ミドルマーチというそうです」
彼はシャロンの勢いの良さに驚きつつ答えた。
「たくさん飲まれるつもりなら、きついですよ」
彼女は軽い酒をたくさん飲む方が好きだ。
「うーん……それは駄目だろうな。ラストリーフで」
「承知しました」
シャロンは隣の青年の顔をまじまじと見つめた。
「すみません、綺麗だから一瞬女の人かと思った」
「い、いや、汚いのに」
彼は慌てて髪を抑えた。
「たしかに髪も顔も洗った方がいいですけど、そっちの意味じゃないですよ」
シャロンは快活に笑った。
「そうなんです、それでリクルートしてみました」
「え、裏方? それともカウンター?」
「カウンターという手もありますね! でも裏方のほうが急ぎです」
「ふーん、金土ならちょっとは手伝えるけど……」
「いえいえ無理しないで下さい」
青年はシャロンの手元を見つめた。
「裏方って、用心棒のことですよね?」
「そうです。シャロンさんは剣の名手ですよ」
「言わなくていいよ。というか、さっき裏方にリクルートしたって言ったよね」
「ええ。推定・剣の達人さんです」
シャロンの目がキラリと光った。
「あなた、アルビオン語だから王国の人ですよね」
「まあ……何でそんなに嬉しそうなんですか」
「うちも人手が足りないんだけどなあ、入省試験の実技監督」
シャロンはこう見えて、王国警務省に首席で入省した実力者だ。現在は国境支部で下積みしているが、女性ながら将来が期待できる人材だという。
「シャロンさんは警務省の方です」
青年は申し訳なさそうに断った。
「すみません、そういう仕事は出来ませんので」
「じゃあせめてちょっと手合わせとか」
「シャロンさん、本当はそっちがメインですよね?」
「ちっ、ばれたか」
「お願いですから、こんな狭い店内ではやらないでくださいね」
「今度どこかでね」
「いや、そんな、会ったばかりの人間に何を」
「ここで会ったのも何かの縁。私はシャロン・ベリル・フラクス。あなたは?」
青年は少し
「フランツです。あの……ちょっと近い」
「あ、つい。失礼」
戸惑う青年の手をぶんぶん振って握手すると、シャロンは満足そうに杯を空けた。
「今日はいいこと続きだな……ってことで、シークレットをもらおうかな。フランツも飲もうよ。美味しいよ」
「じゃあ、俺の分もお願いします」
「承知しました。スメラルダ・ヴェルドですね」
シャロンは七年前に失踪したという叔父を探している。彼女の唯一の親族らしい。
八年前、この街からもそう遠くない王国領で先住民との紛争が起きた。彼女はその領土を治めていた家の一人娘だ。彼女の母親は先住民の血を引いており、領主である父親は争いを好まない性格で、平和に治めていたはずだった。
だが、その平和は脆かった。些細な行き違いから紛争が起こり、彼女は両親を失った。叔父があとを継いでくれたものの、彼も一年ほどで失踪。領土は一旦国領となり、今は隣接する州が吸収する形となっている。子どもで、女で、さらに先住民の血を引く彼女に家の継承権は認められなかった。
彼女は自分の力で故郷を取り戻すことを誓い、公職に就いた。そして、週末になるとこのバーにやってきて、叔父に関する手掛かりがないかとルピナスに尋ねに来るのだった。
フランツと名乗った青年は、その話を聞いて、顔を曇らせた。
「あれは酷い紛争でした」
ルピナスは彼に三杯目を差し出した。
「レッドバッジ・オブ・カレッジです」
彼は赤いカクテルに浮かぶチェリーを摘み、口に含んだ。
「そう。私にとって民族の皆は家族だった。領地は平和そのものだった。発端になった事件は、外部が起こしたものに違いない」
つまり、紛争を望む勢力、紛争から利益を得る勢力だ。
「私はその謎を解き明かしてやるんだ」
シャロンはグラスを握りしめた。氷が溶けて、中味は薄いグリーン色になっている。
「分かっていらっしゃるとは思いますが、こういった、きな臭い事件にはあまり深入りしないほうが良いですよ」
フランツは声のトーンを落とした。
「分かってるんだけどね……」
シャロンはとろんとした瞳で頬杖をついた。セカンドネームのベリルというのは、その緑の瞳が由来だという。頰は紅潮していて、酔い始めているらしい。ルピナスは水を差し出した。
「ありがと。フランツ、あなたは何でここに来たの? そんなボロボロの服で歩くと目立つよ。職質しそうになるなあ」
彼女は意地悪そうに笑う。フランツは、すいと目線を逸らした。
「ここは、知人が教えてくれたので……宿が取れなくて」
「ああ、まあ初対面の人に根掘り葉掘り聞かれたくないよね」
「今後の行くあてに困っておられるのですが、当店以外におすすめの働き口はありますか?」
ルピナスが言うと、シャロンは唸った。
「うちは、さっき言った日払いの試験監督しかないよ」
「そういえば、もうそんな時期だったんですね」
フランツは懐かしそうに言う。
「当座しのぎに試験監督はダメなの?」
「あちらには戻れない事情がありますので」
「まあ、聞かないけど犯罪者じゃなさそうよね。どこぞの政争にでも巻き込まれた?」
「なかなかのご明察ですが、これ以上はお答えできません」
「とりあえずここで働けばいいじゃない。ルピナスは親切だし、お客さんはいい人ばかりだし。カウンターに立つのもありだよね。ね?」
ルピナスは頷いた。
「きっと女性のファンが増えると思うんです、うふふ」
「ええ? どういう……」
「いいですねえ、自覚のない美青年」
ルピナスはくすくすと笑った。
「そうそう、ここにいてくれればいつでも手合わせを頼めるし」
フランツは目を瞬かせる彼女を見つめ返した。
「そ、そんなにお好きなんですか。俺はあまり……」
「逃げるの? やだよー相手してー」
シャロンは彼の肩を掴んでグラグラと揺さぶった。
「は、離してください。近いって」
酒ではまったく変わらなかった彼の顔色は真っ赤になっている。シャロンは、ごめんごめんと言うとカウンターに頭を乗せた。
「うんー酔ってきた」
ルピナスはフランツに耳打ちした。
(シャロンさんは毎週金曜日に来られます)
(へ?)
(ちなみに、婚約者を振ったのでフリーですよ)
フランツは目を泳がせた。
「な、なんの話です?」
ルピナスはにっこりと笑った。人が恋に落ちそうな瞬間は見逃せない。シャロンは気持ち良さそうに暫く目を瞑っていたが、日付が変わる前に席を立った。
「じゃあまたね、来週もここに来るから」
勘定を済ませて、フランツの肩に手を置いてウインクすると、酔っている割に危なげない足取りで階段を上っていった。
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