October

ABT1. エメラルド・グリーン

(1)

「ルメリ(こんばんは)」

 繁華街から少しはずれた裏通り、存在を知らなければ通り過ぎてしまうほど分かりづらい場所に、古ぼけたコンクリートの小さなアパートがある。道路から一段下がった地下に続く階段を下ると、緑色に塗られた扉が現れる。その扉をくぐると小さいながらも洒落たバーがある。

 外にはサインも看板もなく、街のマップにも載っていない。店内にはカウンター席が五つと、奥には天井まで届く本棚と蓄音機があり、ゆらゆらと波のように青い照明が揺れている。

 カウンターに立つのは、どう見ても未成年の少女だった。

「ご来店ありがとうございます。ここにお越しいただくのは初めてですね?」

 白金色の髪は風に揉まれて乱れ、外套も顔も汚れや傷だらけ、蒼白な顔の青年を、彼女は少しだけ目を丸くして出迎えた。

「ええ……知人に場所を聞いたもので。汚い格好ですみません」

 彼女は首を傾ける。艶のあるボブカットの茶髪が青い光を受けながら揺れた。

「いいえ。当店はどんなお客様でも歓迎いたします。暴力関係以外は」

 彼は店内を見回した。一番奥の席に一人だけ男性客がいるが、彼は壁にもたれかかって眠っているように見える。

「今日の宿が見つからなくて」

「週末は人気ですからね。ところで、当店を紹介してくださった方のお名前を伺ってもよろしいでしょうか? そういうルールにさせていただいておりまして……」

 青年は瞬きして考え込んだ。

「うーん……ここに私が来たことをその人には言わないでいただけますか?」

「大丈夫です」

 ここに来る客の中には、それなりの地位の人物もいる。訳ありもそこそこいる。青年の外套はみすぼらしいが、その下の身なりはそれなりに良さそうで、話し方や行儀作法はきちんとしている。淀みないアルビオン語を話すことと服装から考えて、『王国』側の中流以上の人間だろうと店主は看破した。顔は中性的で美しい部類だ。知人の紹介と言ったが、はて、一体誰だろうか。

 彼は少し躊躇してから「ディアスさんです」と答えた。店主、ルピナスは内心手を打った。すると、この青年はおそらく彼の部下だ。或いは部下だったか。ならばそれ以上の深入りは不要だ。

「そうでしたか。ご来店ありがとうございます。何にいたしましょうか?」

「あったまるものが欲しいです。あまり強くないものでオススメがあれば」

 青い光でわかりづらいが、店主であるバーテンダーは緑と青のオッドアイだ。彼女はその瞳で青年の顔の向こう側を見るようにしてしばし考えると、ホットが良いならラストエンペラー、アイスならネバーエンディングストーリーと答えた。

「ホットでお願いします」

 彼女は頷くと、ドライフルーツの小皿を差し出し、ウインクした。

「こちらはサービスです。ようこそ、自由都市ティタン、そしてバー・エスメラルダへ」


 常に緊張をはらんでいる二大国、クリステヴァ王国と聖十字帝国の緩衝帯にある自由都市ティタンの歓楽街は、ここ数年で両国民の観光地として繁栄し始めた。出入国手続きは厳格で面倒なものの、国交が断絶された両国にとって、この小さな都市の果たす役割はけして小さくない。政治的には緩衝地帯として、異文化との出会いを求める両国民にとっては息抜きの場所として。

 夜十時から明け方五時までの営業時間にこのバーを訪れる客は、常連か常連の連れだ。

 ルピナスは出来上がったアルコールを青年に差し出した。

「ところで、ディアスさん、お元気ですか?」

「ええ。最近は忙しいからここに来られないと言っていました」

「そうですか。寂しいですねえ」

 青年は笑った。少し緊張がほぐれたらしい。

「どうぞ、冷める前に」

「ありがとうございます」

 彼は品のある動作でグラスを傾けた。ガリウス・ディアスは王国の役人だ。表向きは文化省の研究員だが、本職は『女王』直属の組織に属している。この青年はおそらく後者のほうの部下だろう。

「この都市まで辿り着いたはいいんですが、今後の行き先に困っているんです」

 彼はため息をついた。

「頼るよう言われた先がなくなっていまして……それで宿がないんです」

「それは大変。戻りの手持ちはおありなんですか?」

「ああ……その方面では困らないんですが、戻れないんですよね、はは」

 犯罪者には見えないが、やはり訳ありらしい。

「この街なら仕事さえ見つかればなんとかなりますが」

「そうですか。仕事……研究生活が長かったもので……」

「なんの研究ですか?」

「神学です。でも牧師を目指していた訳ではないので、仕事に繋がりませんね」

 ルピナスは彼の手をじっと見つめた。ガリウスの部下であれば、ただの研究者のはずがない。

「とりあえずの間、糊口をしのぐということであれば、用心棒の空きがありますよ」

 彼は眉を寄せてルピナスを見つめ返した。

「用心棒?」

「はい。うちの用心棒です。そこそこ地位のあるお方が来られますので……両国からも」

 彼は部屋の隅で眠っている男性の方をちらりと見た。

「あの人は?」

「お客様です。用心棒は裏にいます」

 ルピナスが指を鳴らすと、魔法のように現れた銃口から青年の眉間にポインターの光が伸びた。ルピナスが手をあげると、用心棒は闇の中に消える。

「失礼しました」

「一見の客に手の内を見せてしまっていいんですか? 私は犯罪者かもしれませんよ」

 青年は全く動揺していない。

「これはリクルーティングなので」

 ルピナスは微笑んだ。

「私の勘は当たるほうなんです。勘というのはデータの蓄積です。剣かナイフの名手とお見受けしました」

 彼は年端もいかない十代半ばの少女の顔を、鳩が豆鉄砲を食ったような顔つきで見つめた。

「月給二十トリンで各種保険完備、武器や制服の支給と賄い付きです。厨房補助も出来ればありがたいです」

「いや……剣の名手?」

「もちろんこれは提案ですから、お受け頂かなくても大丈夫です。聖務省の研究院に長く在籍されていて、身なりも作法も言葉遣いもきちんとしておられる。それなりに名の通った王国貴族の方でしょう。それでディアスさんの部下であれば、その剣だこを見なくても想像がつきます」

 彼は相好を崩した。

「迂闊に外を歩けませんね」

「ふふ、大丈夫ですよ。その外套を着ていれば分かりません」

「食うに困ったら考えさせてください」

「はい。でもお早めにお願いしますね。急募なんです」

 彼は奥で寝ている客に再度目線をやった。

「あの、聞かれていないでしょうか?」

「あの人なら大丈夫ですよ」

 ルピナスはそう言うと、奥の客に水を出した。

「起きてますよね、艦長さん」

 艦長と呼ばれた客は顔をしかめ、ため息を吐き出すと、緩慢な動作でグラスを受け取った。

「今の話は内緒ですよ」

「ああ、頭が痛いから明日には忘れてるさ」

「はい、忘れてください」

 彼は青年の方を見遣った。

「新規さんを口説くなんて、切羽詰まってるね」

「そうなんです。退役された方や仕事を探している方がいらっしゃれば教えてくださいませんか?」

 彼は口元を緩めた。

「今はいないと思うけど、うちより条件が良いから、誰かに辞められると困るなあ」

「そんなことおっしゃらずにお願いします」

「うーん……。ミドルマーチ、オンザロック」

「まだ飲むんですか?」

「頭痛だけで酔ってない」

「はあ……また何かありましたね?」

 彼がここに来るのは、女絡みの何かがあった日だ。青年は心配そうに艦長の方を見ている。

「聞かないでくれ」

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