第42話:伝説の終焉——「人間魚雷」の死 10

 人間魚雷は、

 その伝説のRZ使いは、

 首を左にネジ向けて風の渦巻く漆黒の海を見る。

 そしてそのままアクセルを開け、

 後輪を空転させてのパワースライドで百八十度ターンし、

 オレ達に背中を向ける。


 オレは知っている。

 もうすぐ走り去る。

 もう一度だけアクセルを開けてタイヤを空転させて見せて、

 笑いながら走り去る。

 だって本人だ、覚えてるさ。


 ヤツは、

 いやオレは、

 痩せた肩越しにこちらを振り返る。

 距離があって見えないが、

 とがった横顔を向け、

 目を細めてこちらを見ているのが分かる。

 口元に笑みが浮いているのが分かる。


「おい」


 オレは声を掛ける。

 ヤツの動きが、一瞬止まる。

 表情は、逆光で見えない。

 オレのことが見えているのか、それも分からない。


 何か言わなきゃ、

 そう思った。

 あの頃のオレに伝えたいことは、無数にあるように思えた。

 でも、

 いま言うべきことが思い浮かばない。


 何を言えばいいんだろう?

 孤独は長くは続かなかった、ということか?

 いや、

 違う、

 そんなことじゃない。


 息を吸い込んだ。

 少しの間、口を閉ざす。

 すると怒りの感情が、胸中に溢れてくる。


 お前に、何が分かる?


 テメエ、

 馬鹿にしてんだろ、

 分かってんだぞ、

 ツラ見りゃ分かんだよ、

 ザケんなよ、

 人生は、

 テメエが思ってるようなノンキな場所じゃねえ、

 世の中ってのは、

 敵対したまんま、

 それでも生かしといてくれるほど程のお人好しでもねえ、

 そうさ、

 孤独は長く続かない、

 孤独は長くは続かなかった、

 分かるか?

 自由でいられなくなった、

 自由ではいられなくなったんだ、

 愛する者ができて、

 護らなきゃならないものができて、

 世の中に組み込まれていくんだ、


 人間関係に組み込まれていく、

 雇用システムに組み込まれていく、

 共同体に組み込まれていく、

 制度に組み込まれていく、

 社会に、

 組み込まれていく、

 倫理に、時代に、不文律に、

 組み込まれていく、


 何サマだてめえ、

 思い知れこのガキ、

 オレは負けてない、

 オレは弱虫なんかじゃない、

 オレは間違ってない、

 間違っているのはお前だ、

 お前が世間知らずなだけだ、


 ——お前に何が分かる!!


 そう言ってやりたくて、

 オレは口を開く。


 しかし、

 自分の耳に届いた言葉は、


「オレを連れて行ってくれ」


 だった。


 言ってしまって、オレは愕然とする。

 眼を見開いたまま、瞬き出来なくなる。


 そうだったんだ、

 オレは思う、


 そんなことを思っていたんだ、

 そんなことを願っていたんだ、


 だからオレは、——


「お前の行くところに、一緒に連れて行ってくれ」


 眼が、熱くなる。

 声が、震えてしまう。

 ふらふらと、オレは足を前に踏み出す。


「オレを、置いて行かないでくれ」


 告白する。

 オレはお前が怖ろしかった。

 こんなふうに、

 いつかどこかでお前に出喰わして、

 そのすべてを見抜いてしまう眼で、

 オレの魂の在り様を完全に見透されて、

 オマエは最低だ、と、

 断罪されるのが怖ろしかったんだ。


「ここじゃない何処かへ、オレも行く、だから……」


 人間魚雷は、

 ゴーグルの奥で目を見開き、

 RZ250のアクセルを鋭く開けた。


 凶暴で、獰猛な、餓えたケダモノの咆哮。


 ハッとする。


 驚いて足を止める。


 赤信号の手前。


 回転する灯台の圧倒的な白い光が、


 人間魚雷の痩躯を、背後から真っ黒に照らし出す。


 悪魔と呼ばれた、最にして、最の単車乗り、——


 笑みに口元を赤く裂きながら、首をゆっくりと前にネジ向ける。


 そのゴーグルの奥で、


 眼が、


 赤く光った。


 バケモノ、——


 大型の肉食獣が喉を鳴らす、その唸り声のような排気音が 、


 四囲の暗闇を叩いて震わせ、


 クラッチレバーを離して「スコンッ」とギアが入った瞬間、


 タイヤが空転してアスファルトの路面を摩擦し、


 凄まじいスキール音が深夜の134号線に轟き渡る。


 ギャハハハハハハハハハハ!


 魂切るエグゾーストノートに掻き消されながら、


 しかし人間魚雷は歯を剝いて笑い、


 前輪を激しく浮き上がらせて、


 東に向かって急発進し、猛烈な加速を開始した。


「待ってくれ、オレを、——」


 オレは走って追いかけようとするが、


 赤信号の暗い光が、


 何かを警告する絶対的な啓示のように立ちはだかり、


 そこから先に足を進めることが出来ない。


「オレを連れて行ってくれ」


 ここは嫌だ、


 すべてを捨てて、


 オレは自由になる、


 生活も、


 仕事も、


 家庭も、


 人生設計なんていうクダラナイ算盤そろばん勘定も、


 全部無かったことにして、


 オレは憧れそのものとなる、——


 しかし、


 信号が青に変わることは無かった、


 信号は、何時までも赤信号のままだった、


 その交差点のから、


 小さくなっていくRZ250初期型のテールランプを、


 オレは見る。


 その破滅的な排気音が、


 何時までもアスファルトの路面に木霊こだまするのを、


 オレは聴く。


 赤信号のから、


 力無く、立ち尽くしたまま。


 *******


 この日から数えて何週間か後、


 自意識過剰で対人恐怖のヒドかったオレにも、


 後輩や仲間が出来るようになり、


 やがて独りじゃなくなった。


 キッカケは忘れた。


 どうでもいいことだ。


 もちろん、理由なら分かる。


 自分に自信が持てるようになったんだ。


 その自信はライディングがもたらしたものだった。


 オレのライディングは、


 余人には真似出来ないほどの凄まじいものであるらしい、


 という自覚が、ようやく芽生えたのだ。


 笑っちゃうよな、


 でも自分では分からなかった、


 無我夢中だったんだ。


 そして、


 仲間が出来て、


 シフト明けの深夜に近場の峠を仲間と走りに行って、


 その時オレは、


 あの、


 神通力とでも言うべき、


 ライディングセンスを失っていることに気が付いた。


 だけじゃない、


 風や重力、慣性や遠心力など、


 空間を複雑に交錯する様々な力学を一瞬で捉える力、


「千里眼」も失ってしまっていた。


 目に見えるものだけが見えて、


 目に見えないものを見る力はすべて、


 人間関係と生活維持とに使われているようだった。


 オレは焦ったが、


 その焦りに比例するように仲間や後輩が増えて行った。


 どうにも出来なかったし、どうでもよくもあった。


 そして年が明ける頃、


 本当に、


 本当につまらないことで事故って、


 六か月間入院するほどの大怪我をして、


 血の小便が三か月も出続けるほどの怪我をして、


 でも、


 入院している間に実習中の看護学生さんと付き合うようになったりして、


 生まれて初めての彼女で、


 他にもいろいろあって、


 何だろう、


 いや、恥を承知で言う、


 もうオレには、


 自由を目指すべき理由も、


 孤独を引き受けて戦う必要も無くなり、


 何だか、


 何だか怖くなってしまって、


 オレはごく自然に、単車を降りたのだ。


 *******


 そう、


 伝説の単車乗り「人間魚雷」は、


 いなくなった。


 人間魚雷は、死んだのだ。


 *******


 明け方、

 嫁さんに起こされた。


 ——バッカじゃないの? 何やってるの?


 台所の流しに大量のビールの空き缶、

 照明でんきは点けっ放し、

 若くもないのに床にごろ寝、

 怒られて当然だ。

 しかし一度だけ、


 ——どうしたの?


 と心配そうに訊いてきた。

 オレはノートPCの前で、

 横になったまま小さく身体を丸めて、

 泣いていたというのだ。























































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