第35話:伝説の終焉——「人間魚雷」の死 3

 視線を上げて時計を見る。


 ——午前四時十三分。


 ずいぶん長い時間もの思いに沈んでいたように思えたが、まだ幾らも経っていなかった。


 は、はは、……


 笑ってしまう、笑ってしまった。頭ん中ブッ飛んだ男の、完全に狂ったエピソードを思い返していて、にも関わらず、オレは今、泣きそうになっている。いい歳してこんな時間に、いったい何をやっているんだオレは?


 *******


 横顔を見せ、フザケて大口を開けて笑いながら、RZを発進させて車線の中央に乗り出すと、——


 人間魚雷は、「最後の」加速を開始した。


 夜の冷気が沈んで冷たく、白く光る路面に、YUZOユーゾーのクロスチャンバーが発するヒステリックな排気音が叩き付けられる。


 2ストローク・エンジンの爆発的な凄まじい加速。前輪が跳ね上がり、車体全体がふわりと浮き上がりそうになる。それを人間魚雷は前のめりの極端な前傾姿勢を取って体重を掛け、上半身全体で、無理矢理に押さえ込む。


 発車したてのRZテールランプに、高速走行からの減速中だったVFRが突っ込みそうになるが、すぐに同速となり、やがて引き離され始めた。


 こちらもアクセルを開ける。大型二輪の名にかけて、白バイ隊員の名にかけて負けられない。分厚いトルクにタイヤが溶けたように空転し、しかしアスファルトの路面をグリップした瞬間、「ドンッ」という衝撃とともに前輪が低く浮き上がる。


 しかしそれでも、二台の距離が縮まることは無かった。RZの、無限上昇音じみた高回転の伸びと、予想外に太いトルク。ツーストとは言え250ccのエンジンとは思えなかった。エンジンをRZ350のものに換装しているのかも知れなかった。


 なるほど、そう思う。

 その走りは確かに、「750ナナハンキラー」の名にふさわしい。


 後ろから見る、その加速して行く姿も印象的だった。見慣れている他のバイクのそれとは、かなり違って見えた。


 イマドキ(一九九二年当時)のバイクは、空気抵抗や重量バランスについて考え抜かれて設計されていて、まるで地面に吸い付く感じで、そして前方へと強く吸い寄せられるように、ピタッと、そしてスルスルと加速して行くが、……


 ヤマハ・ロケット——RZは違った。


 まさにロケットみたいに、空中を、真っ直ぐにブッ飛んで行く感じだ。


 不安定な感じだった。その姿は、僅かな横風や、ごく小さな路面の凹凸を拾っただけで、一瞬で、致命的にバランスが破綻する、そんな危うさを孕んでいた。


 高回転域から更に上昇して行くそのエグゾースト・ノートも、最新の高回転技術に支えられたレーサーレプリカのそれとは違って、無理に無理を重ねて性能の限界まで、強度の限界までパワーを振り絞る、余裕や遊びが一切無い、完全にギリギリな感じだった。


 人間魚雷が三速にシフトアップする。すぐに時速一〇〇キロを超える。次の瞬間、それは一四〇キロになり、四速に入れた時点で一六〇キロ、そのまま回転限界レブリミットまで引っ張り、五速に入れた時点で、その速度は二〇〇キロを超過した。


 耳元を吹き過ぎる風の音が一気に大きくなり、その耳朶を削るような空気の擦過音は、やがて固形物がブツかり耳元で爆ぜるような衝撃音となり、その衝撃音は連続してやがてビートを細かく刻みだし、それはフルボリュームで聴くテレビのホワイト・ノイズ砂嵐へと変化し、そしてそのノイズの周波数が上がって行くのに比例して音量が急激に小さくなって、最終的に極度に硬質で、冷たい耳鳴りとなる。その最小ボリュームの、けれども頭が痛くなるようなカン高い耳鳴りの、その奥の方で、RZとVFRの排気音が、遠くから、細く、微かに聞こえてくる。


 前方から迫って来る景色は、スピードに擦り切れ、混じり合い、後方へと消し飛んで行く。それはまるで、どこまでも続く半透明なトンネルの中を走り続けているような、そんな気分だった。


 その高速移動をする異空間のごときトンネルは、速度が増すにつれて遥か先の方まで伸びて行き、正常に認識できる視野が、クリアに見える視界が、狭く、遠く、そして小さくなって行く。


 集中し過ぎているせいだろうか? 漆黒の夜空が、白く、時に赤く、微かに、発光しているように思えた。


 キィィィィィィィィーーーーン


 という耳鳴りの外は、完全な無音だった。

 その無音の世界の中、景色だけが、その空に映る様々な色彩の雲が、もの凄い鮮やかさで視界の中心から産み出され、拡がり、後方に吹き流され、消し飛んで行く。


「あんなにスピードを出したことはない、崖から落ちたら死ぬじゃないですか、私たちはそのことを本能で知っていて、だって猿から進化したんですよ人類は、だからスピードというのは、恐怖そのものなんですよ、分かりますか? 圧倒的でした、ひれ伏す思いです、原初の荒々しい恐怖、真夜中なのに空が光って見えて、いやそれは奇跡、というよりは死を予感した生命の、暗闇を、それでも見ようという火事場の馬鹿ヂカラ的な何か、なんでしょうけど。


(中略)


 いや、だいぶ引き離されていましたね、三百メートルくらいです、いや、実際のところは分からないですね、普通の精神状態じゃありませんでしたし、例えば高層マンションで火災に遭い、火と煙とにベランダまで追われた人間は、数十メートルも下にある地面が、軽い気持ちで飛び降りれるくらいの高さに見えると言います、なので、近くに見えていたかも知れないです、はい、ものすごく近くにね、その朝焼けのような、夕焼けのような、北極の空に見るオーロラのような、ジェット気流のように物凄い速さで吹き流される狂った色彩の夜空の下、人間魚雷は、更に加速し始めました。


 もう耐えられませんでした、私はアクセルを戻しました、大型二輪が、中型二輪に追いて行けなくなったんです、普通なら有り得ない、ええ、そうですね、……はい、地理的には茅ヶ崎から藤沢に入る、その少し手前くらいです、そう、その時、海から少し強めの風が吹いて、松籟しょうらい、と言うんでしょうか、砂防林を揺らすざわめきが聞こえて、なぜでしょう、何だか少し、嫌な予感がしたのを覚えてます。


 ちょうどこの時です、圧倒的なスピードで遠去かり、小さくなる人間魚雷のはるか前方に、大型のタンクローリーの姿を見たのは。」


































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