第34話:伝説の終焉——「人間魚雷」の死 2

 一九九二年 十月二十五日 日曜 午前一時四十分頃、神奈川県警察本部 厚木第二交通機動隊に所属の白バイ隊員 後藤 國弘ごとうくにひろ(仮名)は、西湘エリアの二宮・大磯間をパトロール走行中、ノーヘルの中型二輪車を発見した。


 この湘南・西湘地域では悪名高い、もとい、勇名を馳せた、あの「厚木第二交機」、——暴走族を取り締まるのに鉄パイプ使用し、それを族車の後輪のスポークに挿し入れてブッコケさせて検挙していたと云われる——、あの「厚木第二交機」だ。ノーヘル走行の自動二輪車など、見逃してもらえるハズも無い。


 西湘バイパス二宮インター付近の一般道:国道一号線を東に向けて走行する、そのノーヘルの自動二輪車を対向車線に発見した彼は、躊躇すること無く転回して追尾を開始した。


 その自動二輪車は、ヤマハの旧式のスポーツバイク——RZ250初期型だった。今となっては昔のバイク、絶版車である。


 マイクとスピーカーを使い停車を指示するも、保護帽着用義務違反のその違反車輌は呼び掛けを無視して走行を続けた。いや正確に言うと「無視」では無く、彼は顎を上げ、横顔を見せて、後ろを振り返った。そしてこちらを振り返って見たまま走行を続けた。


 十月の終わりの、やや肌寒い日の深夜。その違反車輌のライダーは、防水素材の黒のライディング・ジャケットを着ており、濃紺のジーンズを履いていた。痩せ型、長身の男で、ヘルメットは被っておらず、目にはセパレート・タイプのゴーグルを装着していた。


 ——まさか、人間魚雷……なのか?


 すぐにそう思ったという。ノーヘルのRZ使い、間違いない。彼は県警所属の警察官だが、プライベートではバイクマニアの本格的な単車乗りで、非番の日にはホンダNS400Fというバケモノを駆る剛の者だった。バイク仲間や知り合いの走り屋から、人間魚雷というその薄気味悪い名前は、当然聞いて知っていた。


 深夜のヤビツ峠やツバキラインに出没する、死んだ走り屋の「亡霊」とまで噂された凄まじい走りの単車乗り——


 肌が粟立ち、全身の毛がそそけ立った。


 国道一号線という制限速度六十キロの一般道を、人間魚雷は非常識なスピードで加速し出した。深閑とした未明の国道沿いの街並みに、まるで競技車輛がしのぎを削るサーキットで聞くような、レブリミット・ギリギリの場違いな排気音が轟きわたる。


 後藤隊員はパトライトを回し、サイレンを鳴らして追尾を開始した。マシンはホンダVFR750R、レーシングマシンRVF750の血統を受け継ぐ、技術屋ホンダの意地がほとばしる精密機械のように造り込まれたハイテクマシンだ。大排気量がもたらす圧倒的なトルクとパワーとで、あっと言う間に追い付き三十メートル後ろを追尾、しかし速度メーターを見て、彼は凝然となった。


 ——時速、一六〇キロ


 街並みの景色が溶けてしまって見えない程のスピードだった。ノーヘルだぞ、死ぬ気なのか、そう思う。そして怖ろしいことに、人間魚雷は、その極めて危険な高速走行のさなか、時々、後ろを振り返った。それは、その挙動の意味は、こちらがいなくなったかどうか?を確認しているのではなく、ちゃんと尾いてきているか?を確認しているように思えた。


 一回振り返り、それから前方に視線を戻すまで——約二秒、その間、九十メートル強を行き過ぎる。


 キチガイだ。


 一度、時速七十キロほどで走行する貨物トラックを、人間魚雷は後ろを振り向いたまま鮮やかに躱して見せた。そしてそれを見た後藤隊員は、追尾しているのが辛くなったという。怖ろしくなったのだ。


 しかし、これ以上の追尾は危険、と判断し彼がアクセルを緩めようとする、その度毎に、人間魚雷は振り返り、視線を合わせてきた。それはまるでこちらの心を読んでいる、或いは気持ちが揺れ動くその、揺れ幅とタイミングとを測っている、そんなふうに思えた。


 酒匂川を渡り、平塚に入ると、人間魚雷は全く減速しないまま右斜めに、対向車の鼻先を掠めるようにして、平塚駅へ続く大きな街路へと切れ込んで行った。突然のことだった。どういう体重移動が可能にするのか、カキッと、しかも音もなく吸い込まれるように曲がって行った。急ブレーキを踏んでスピンするその対向車輌を躱して、後藤隊員も辛うじて追い縋る。次の大きな交差点を右折、碁盤の目のように整然と区画された次の交差点を左折、片側一車線ずつのバス通りを猛スピードで走り抜け、さらに次の信号を右折、さらに左折、——道幅が、だんだん狭くなる。


 その曲がり方も凄かった。百キロオーバーでカッ飛んでいて、そこからの急ブレーキ、両輪とも直後にフルロックして滑り流れる車体を鋭角に、路面を削るカンナの刃のごとく限りなく水平に近い角度で寝かせながら後輪を器用に前に滑り出して、やがて勢いが減殺されて速度が摩擦に吸収されて、タイヤが僅かにグリップを取り戻した、その刹那、思い切ったアクセル・オンで前輪を高々と跳ね上げての急加速、こうして直角の交差点を次々に、素早く曲がって行く。今、彼のそのライディング・テクニックを簡単そうに書いたし、後ろから見ていても簡単にやってのけているようにも見えはしたが、それはマネして出来るようなシロモノでは決して無く、曲芸と呼ぶのが相当である、としか言いようのない極度に危険な操車技術だった。


 やがて街中を抜け、アパートや住宅が密集する区域にノーヘルのRZ250は走り込んで行く。就寝中の住人を叩き起こすようなタイヤのスキール音を派手に響かせて、路地を、まさしく縫うように走り抜ける。ウワサに聞いたとおりの凄まじい走り、非現実的な程のライディング・テクニック。曲がりくねった水路をくるくると流れる木の葉のような、そんな鮮やかさで走り抜けてゆく。


 とても付いて行けたものでは無かった。速すぎるし、巧すぎる。付き合い切れないと思った。ヤツは自分の技量を、単車乗りの範たる立場の「白バイ隊員」に見せ付けたくて、こんな狭い道にわざわざ入り込んだに違いないのだ。


 後藤隊員は追尾を放棄した。


 先程まで、疎らにではあるが他に車流のある幹線道路を、チラチラと後方を窺いながら高速走行するという危険行為を、いや自殺行為を、あたかも挑発するかのように繰り返していた人間魚雷ではあったが、今は道幅も狭く、スキー競技のモーグルのような激しく切れ目のない体重移動の連続で、後ろを振り返る余裕は当然なく、そのことにより逆に心理的な余裕を得た後藤隊員は、あっさりと、痩せぎすなRZ野郎の追尾から離脱した。


 ただ逃げたくて離脱した訳では無かった。

 考えがあった。


 人間魚雷のRZ250は、元は広大な田畑であったろう平地の居住地域を、そこに刻まれた碁盤の目のような狭い路地を、階段を降りるようなラインを描き、右折と左折とをひたすらに繰り返して、南東に向けて走行していた。つまり——


 ヤツは、海岸沿いの「国道一三四号線」に出て、東に、江の島・鎌倉方面へと帰るつもりであることが想定された。


 先回りしよう、そう考えた。


 このまま最短距離で広い幹線道に出て、真っ直ぐに一三四号線に至り、そこから大排気量車のパワーにモノを言わせて時速二百キロで東上し、茅ヶ崎の手前、相模川に架かる湘南大橋にて待ち構えてやろう、と考えたのだ。向こうは250ニイハン、こっちは750ナナハン、道幅が広く比較的真っ直ぐな幹線道路では、圧倒的にこちらが有利だハズだった。向こうは狭い住宅地を細かく右左折を繰り返して来るわけだから、どんなにハイペースなドリフトで路地を滑り抜けて来ようとも、こっちの方が早いに決まっていた。


 後藤隊員は住宅地をそれまでの進行方向とは逆に、西へと少し戻り、南北に走る直近の幹線道路に出て、それを左折・南下して一三四号線に出た。


 ここまで「一息」だった。


 アクセルを大きく開け、二速までシフト・アップして少しだけ引っ張ると、もう眼前に一三四号線が迫っていた。中型バイク、それも車輛運送法では「軽二輪」に分類される250ccのRZとは、完全に違う種類の乗り物と言っても過言ではない。


 海岸に出たせいで夜空が、急に視界全域に開けて、ヘルメット越しに海からの風を感じた。波の音、そして東の遥か先の方に、江ノ島の灯台の光が、サーチライトのように闇に沈む街を照らし、回転するのが見えた。


 一三四号線に出ると、東に向けて、アクセルを大きく開けた。ホンダのV4エンジンと言えば、静かで、滑らかで、精密機械のような、「未来の乗り物」じみた、そういう調和のとれた、優等生的な印象だが、アクセルをドバッと開けると、その印象はガラリと変わる。技術屋ホンダの、飛ばし屋ホンダの、その意地が、その本性が剥き出しとなる。その排気音は、その乗り味は、


 オレが一番速いんだ! 誰よりもオレが速いんだ! オレが! オレが! オレが!!!!!


 という意地汚く勝負にこだわる、エゴ剥き出しで速さにこだわる、その土性骨が露わとなった、そういう舌触りだ。


 二速スタート。回転数が徐々に上がり、レッドゾーンまで引っ張り、三速に入れた瞬間、速度は一〇〇キロを軽く超えていた。


 三速を引っ張って、四速に入れてさらに高回転まで引っ張る。脇を締め、背中を小さく丸めて頭を低くし、歯を喰いしばって、その非人間的な加速度に耐える。胸骨が、肩が、肘や手首が、軋んでパキパキと音を立てる。


 息が、——出来ない。


 そしてギアを五速に入れた時、速度計の指針は、時速二〇〇キロを超えた。


 次の瞬間、彼はアクセルを戻した。相模大橋が、もう眼前に迫っていた。ロケットの乗せられてムリヤリに運ばれて来たような、圧倒的な速度感。約三キロの距離を、わずか一分弱で走り抜けてきたのだ。


 相模大橋は相模川の河口を跨ぐ、長さ約四〇〇メートルの橋で、湘南エリアでは一番長大な橋梁ということになる。


 間に合った、後藤隊員はそう思ったという。自分の方が速かった、と。


 エンジンブレーキに回転数が跳ね上がり、そのV型四気筒エンジンが発する排気音が、路面に手加減なく叩き付けられる。


 闇に沈む海と、漆黒の空。星は出ていない。その暗闇の中、相模大橋の路面だけが、白く光り、空中に浮き上がって見えた。


 ふと視界に、赤い光が映り込む。そして次の瞬間、


 風が、止んだ。


 長大な橋梁の真ん中あたり、その左の路肩に佇む、赤い点。秒速二十五メートルで流れ、迫り来る景色の中、すぐにそれがバイクのテールランプであると知れる。


 不審だった。こんな時間のこんなところにバイクが? 間もなく時速二百キロオーバーの最凶とも言うべきイカレタ違反車輌が通過する。移動するよう指示すべきだろう。


 まだ背後に追ってくるハズのRZの排気音は聞こえない。橋梁に差し掛かり、次の瞬間、その赤いテールランプに見覚えがあることに気付く。


 RZ、

 先刻まで見ていた、間違いない。


 違う、そんなハズない。今日はオカシな日だ、そう思う。こんな時代遅れの絶版車を二台続けて見るなんて。


 バイクに跨っている男が、背中越しにこちらを窺う。全身黒ずくめの、長身の男。目にゴーグルを当てており、——


 ヘルメットは被っていない。


 紛れも無かった。自分の脈拍が、鼓動が、速くなるのが分かる。息が、苦しくなった。


 どこを、どう走って来たのか? いや、ジグザグに、住宅地の狭い路地を縫って来たに違いないのだ。


 人間魚雷は(今はもう、疑いの余地が無い)一度アクセルを開けて空ブカシをして、薄い唇を笑みに大きく裂いて、こちらに向かって笑って見せた。それは肉食の爬虫類を思わせる、獰猛で、残忍な印象の笑みだった。


 笑いながら、しかし込み上げてくる愉悦を、歯を食いしばって噛み殺す。その歯が大きく剥き出しとなり、口角が深く裂けて凶々しく吊り上がる。


 悪魔の笑みだった。そして暗闇に潜んで獲物を窺う猛禽類のように、


 眼が、赤く光った。














































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