第32話:なぜ今、伝説の終わりを、オレは語らずにはいられないのか?
ふと、我に返り時計を見る。
——午前四時、
人間魚雷の資料を、何だかヤケに夢中になって、ずいぶん長い時間、読み込んでしまっていた。オレは、フロアテーブルの周囲に転がっている無数のビールの空き缶を掻き集めて、それを二回に分けて台所の流しに運び、そのまま流しの横のコップに刺さった歯ブラシを手に取り、それに歯磨き粉のペーストを絞る。少しでいいから布団で横になって休もうと考えたのだ。朝までまだ少し時間がある、仮眠を取ろう、と。しかし歯ブラシを咥えたまま、オレはまたフロアテーブルに置いてあるパソコンの前に戻ってきてしまう。
やれやれ、どうしちまったんだ今日のオレは? そう思う。
*******
オレは「人間魚雷」を直接知る数少ない人間の一人だ。同じ時代に生まれ、同じ地域に育ち、青春の、その重要な一時期を共にした。
そして、
あいつは二十二歳でその生涯を閉じ、オレは五十歳、そう初老とも言うべき年齢にまで至り、今もこうして、のうのうと生きている。
これからあいつ——深沢カケルが死に至る経緯を、つまり「人間魚雷伝説」の結末を語る訳だが、その前に今のオレの心境を述べて置きたい。なぜ今、伝説の終わりを、青春の終わりを、オレは語らずにはいられないのか?
*******
人は誰でも、十代の中頃から終盤にかけて、育ってきた家庭環境や、或いは世の中全体に対して、牙を剥き、鋭く対立する、そんな時期があるのでは無いだろうか?
これは「巣立ち」のための動物としての本能でもあるだろうし、自立した一人の人間、独立した一個の人格としての、物の考え方や自我そのものを確立するために避けては通れない、一つの過程でもあるだろう。
若者の多くは、理想主義的で、みずからが追い求める思想や哲学、時に怒りを主張するために、世の中や、所謂「大人」たちと厳しく対立するが、やがて成長し、逞しくなり、孤独から脱却して、結果、愛するものや護るものが出来ると、今度はそれらを保護する必要から、世の中や、周囲の人間関係に迎合し、
——反抗しなくなる。
そして周囲から「大人になった」「角が取れて丸くなった」とか言われる。
妥協した。
世の中に負けた。
日和見主義者だ。
長いものに巻かれた。
利己保身に目が曇り、足を取られて、理想を見失った。
生活重視、体面重視、安全第一。
つまり、大人になった。
そういうことだ。
そして時は流れる、どんどん流れる、社会人は忙しい、学生の頃の感覚から言うと三カ月で一歳ずつ歳を取る、そんな感じだ。「光陰矢の如し」という言葉があるが、これは誇張でも大袈裟な表現でもない、実感である。オレも、もう五十になっちまった。ついこの間までオレは十九歳でまだ童貞だったハズなのに、何てことだ! 夢でも見ているのか? そして多分、引き続き生活や人生の荒波に巻き込まれ続けて、次にハッと我に返った時には、きっと六十七歳くらいにはなっているのに違いない。
*******
歳を取る、というのは、そんなに悪いもんじゃない。
オレに関して言えば、どうにか両親も健在で、自身もとりあえずは健康だ。仕事にも慣れた、のはもう二十年近く前の話で、人脈、という程のものは無いけど、業界に知り合いは多く、監督官庁にもある程度「顔」が利き、必要な資格も、ある程度の技術力もあり、そして仲間もいて、現時点で、その日常に於いては、悩みや不安はほとんど無い。この仕事が過労死寸前の激務であることと、家族と過ごす時間がほとんど持てないことを除いては。
今後、両親や家族、そして自身に健康上の問題が発生すれば、怖らくは人生で最も困難で過酷な暴風雨のような季節に見舞われ、きっと血を吐くような思いをするに違いない。
だが、今のところ、安定している。嫌になるくらい、安定している。朝、鏡に映る、のんきに太ったオッサンの顔、ぼんやりと眠そうな子供みたいな顔、ホントに嫌になる。嫌になるくらい安定している。
若い頃、五十代のジジイになんてなりたくない、その前に死にたいなんて、冗談に言ったものだが、いやそれはあながち冗談とも言い切れない雰囲気でもあったが、なってみると、そんなに悪くない。
知識、
経験、
職能、
薄っぺらいが一応、人脈、
あとちょっと老けて草臥れた風貌、
現時点でオレはそのすべての要件を満たしている。世の中を渡って行くのに、これほど有利な条件があろうか?
しかしオレは今、深沢カケルという若者のことを考えない訳には行かない。あれは何だったのか? あの非現実的な走りは何だったのか? 極端な反抗期とも言うべき、人間全体に向けられたあの敵意は、一体何だったのか?
反抗期、今オレはそう言った。反抗期、その言葉の裏には「半人前」というニュアンスが含まれる。気弱な青年の、遅れてやって来た反抗期。大人になり切らない、まだ未完成な人格。
しかし、オレは思う。ホントにそうだろうか? 二十歳そこそこの青年の人格は、本当に未完成なんだろうか? 高い理想や、鋭い復讐心に燃える若者の方が、実は自立した高い精神性をその心に宿していて、初老の域に達したオレの方が、実際のところ、妥協して、耄碌して、幼稚になり、退化した、見た目どうりの草臥れ果てた存在に過ぎないのではないか?
今、あの頃のカケルに、話し掛けてみたい気がする。ようカケル、おまえ伝説の単車乗りって呼ばれてるぞ、知らねえだろ、神速のRZ使い、ツバキラインの悪魔、ってさ。でもいい気になるなよ、世の中は厳しいんだ、反抗してる場合じゃない、人は誰でも大人になって、そして我欲と利己と保身にまみれた人外羅刹や、魑魅魍魎が跋扈する界隈を、剥き身で、泳いで渡らなくちゃいけないんだ。
でもさ、
こっちにだってエゴがあるワケだし、同じ人外羅刹や魑魅魍魎、妖怪、ケダモノの類に、いっそなっちまえば、そっち側の住人に、こっちがなっちまえば、戦って行けない相手じゃない、泳いで行けない世の中じゃない。分かるか? そう思ってこの残酷な世界にどっぷり浸かって過ごしてみると、連中も意外にかわいい奴ら、っていうか、まあ同じ人間、仲間には違いな————————
ハッとした。
今、未明のリビングで一人、無言でそんなことを思っていると、急に眼が眩み、視界全体が白く光り、瞬間何も見えなくなって、そして不思議なことに、殴られたような、叱られたような、そんな気分になったのだ。
は、はは、面白い。カケルが、あの世からオレに会いに来たか? 笑っちまう、そんな訳ないだろ? あるハズが無い。
だって、オレだぞ——
孤独、
絶望感、
自己嫌悪、
救いを求める敬虔な気持ちと、
そして、自己実現への強い、憧れ。
今のオレに無いもの。
世知と処世術にまみれたオレが失ってしまったもの。
そう、きっとオレは、それを思い出したいんだ。
そして、そのうえで自分を、
急勾配の登り坂を血を吐く思いで歩き続けた自分を、
切り立った崖を決死の形相でよじ登り続けた自分を、
断罪したいんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます