第24話:誕生——「人間魚雷」2
夜、店を出る時、聞こえたような気がしたんだ。微かに、遠くから、悲鳴のような、タイヤのスキール音。
ドリフトか? どこで? そんなことを考えながらRZ350初期型のキックペダルを踏み込んだ。
一回目、掛からない。
二回目、掛からない。
三回目、エンジンに火が入る。
そんなもんだ、普通そうだ、三回でエンジンが掛かるんなら、むしろ早い方だろう、今のマシンとは違う。でもあいつは一回で掛けて見せた、それも初めてなのに、だ。
その後三ヶ月、カケルは姿を見せなかった。勿論、そんなこと別に気にしてない。バイク屋やってると、よくあることなんだ。懐いてた若いヤツが急に来なくなる、なんて。
あの頃はホンダのブロス650を足にしてたんだ。だけど、何日かに一度はRZで軽く流しながら自宅に帰ることにしてた。時々乗ってやんないとダメになっちまう。オンナと一緒だ、分かるか? 難しいんだ、すごく難しい、で、すぐ機嫌が悪くなっちまう。
いや、特に何日に一度とか、決めてた訳じゃない、テキトーだよ。だから分からない、どうしてなのか? どうしてその日にカケルが現れたのか?
梶原から佐助の坂を抜けて、市役所の横を通り、八幡宮の前に出て、雪ノ下を過ぎた辺りで、バイクが一台、後ろから迫って来た。猛烈な勢いだ、高速道路とカン違いしてんのか、っていうスピード、アオって来る、というよりは、ブツけに来てる、そんな感じだ。
バックミラーの中で前照灯が急激に迫って、そいつがオレに追突しそうになって急ブレーキを掛ける、勿論ワザとだ、決まってる、激しいスキール音、ワザとらしい、でもそこからが凄い、ロックした前後両輪を同時に右にスライドさせ、アクセルを開けて一気に抜きに来た。
巧い、
鮮やかなテクニック、
速い、
そして手強い。
しかもRZ250初期型、音で分かる、でも、チューニングが甘い、入手したばかりなんだろう。オレもアクセルを開ける、ブチ抜くつもりだったろうが、引き離す。
バトルなんて久し振りだ、懐かしい。オレはヘルメットの下で歯を剥いて笑いを噛み殺す。腕には覚えがあった、かなりな、イマドキの小僧に、ホンモノの単車の乗り方を教えてやる、そう思ったね。
「命が要らねえなら追いてこいッ!」
そう吠えながら、笑っちまったよ、最高の気分だ。
十二所を過ぎると民家も疎らになり、峠の登りになる。鎌倉霊園の縁を曲がりくねって登り、駆け下る、片側は崖の、狭隘で急峻なワインディング、——
朝比奈峠、だ。
険しい道だが、長くは無い。登りと降り合わせても3キロ弱の短い峠道だ。小さく、しかし峻険な山々がひしめく鎌倉の、その独特な地形を反映している。
最初、違和感はあった、かなり。峠の登り、パワーとトルクじゃこっちが圧倒的に有利だ。なのにブッちぎれない、おかしかった、登りだぞ、でも理由はすぐに分かった、ブレーキを掛けて無いんだ、ノーブレーキでコーナーを曲がってるんだ。後ろで見えないが、それくらい分かる。とすると、タイヤのグリップがあまりに良すぎる、有り得ない程だ。でもすぐに、
ああ、と思った、
そうか、ってさ。
店を出て鍵閉めてる時に聞いたタイヤのスキール音を思い出した。駐車場だか路上だかでタイヤをアスファルトの上で空転させて温めてたんだ。だとすると頷ける、ベッタベタに路面に食い付くハズだ。頭の内側で一瞬、暗い路上で単車が一台、独楽なように繰り返しスピンし続ける、そんな孤独なイメージが浮かんだ。
と、その時、後ろから軽い衝撃を受けた。ブツかって来やがった。先行するオレが塞ぐラインを、それでも強引にこじ開け、擦り抜けようとして接触したのだ。
——テメェ、
思わず首を振り、一瞬だけ、後方を振り返る。
——ッ!
そして視線を前方に戻し、アクセルを開けながら、しかしオレは凝然とする。
——カケル? いや、違うか。
外灯に閃くその風貌や着ている物はオレのよく知るカケルそのものだったが、雰囲気が、仕草が、そのライディングが違っていた。トンガってて、凶暴で、何を仕出かすか分からない、説得不能な感じ。オレが知っているカケルじゃない、でも或いは……。
危険だった。午後九時ちょうど、攻めるには、バトるにはやっぱり時間が早過ぎる。理由は対向車だ。時折カーブの向こうからスッ飛んでくる(こっちが飛ばしてるので相対的にそうなる)対向車をかわしながら、しかしそいつは後ろからオレを差そうと、左右から執拗に頭を捻じ込みに来る。執念深くて、激しいライディング。
峠道の最高地点、頂上が見えた。オレはアクセルを戻して減速し、さらにギアを一速落とす。この道を登り切った向こう側は急峻な下りとなっており、すぐにキツくて深い左コーナーが迫ってくる。ガードレールの外側は崖、対向車もいる。しかしそいつはオレが一速落としたタイミングで、ガムシャラなアクセル・オンで、路肩のドブ板を蹴立ててオレを抜き去った。それは抜く、というよりはむしろ、体当たりに近かった。スペースの無い所に無理ヤリ前輪を挿し入れ、身体どうしを接触させながら文字通り「擦り抜け」て行きやがった。そしてその時、ケダモノが叫ぶのを、オレは聞いた。
がああああああああああああァッ!!!
横目でオレは、そのキチガイがやはりカケルであることを確認する。完全に狂った男の決死の横顔、自殺志願者の、虚ろな眼、でも紛れもない。
なら知ってる筈だ、朝比奈峠なんて地元じゃただの生活道路だ、当然知ってる筈だ、登り切ったすぐその先に、キツイ降りと深い左コーナーが待っていることぐらい。
板バネ構造のロイター板を、全力疾走の、その勢いに任せて踏み切る体操選手のように、カケルは飛んで見せた。
上り勾配の尽きた地点から、
夜空に向かって、
ニーグリップだけで車体をホールドし、
ハンドルから手を離し、
その腕を、横に大きく拡げて、
東の空に浮かぶ巨大な月の、
その冷たく青白い光を、
祝福を、
全身に受け止めて、カケルは飛んだ。
逆光に浮かぶ、
その痩せた後ろ姿が、
十字架に見えて、
黙示録に記された、何か不吉な暗示のようで、
オレは、瞬きを忘れた。
ゆっくりした動作で、カケルはハンドルを摑む。ぼんやり見ていたオレは一気に現実に引き戻される。
急激な下り勾配、
キツくて深い左カーブ、
眼前に迫りくるガードレール、
外側は崖、
RZ250初期型が着地する、
すぐに固い路面に弾き飛ばされる、
宙に踊る車体とカケル、
高さ2メートル弱、
空中でセンターラインを割る、
そこに対向車が来た、
2トンの貨物トラック、
最悪のタイミング、
絶対に避け切れない、
しかし4秒前、
オレを押し退けて前に出る時には決死の表情だったカケルは、
今は、
少しだけ笑って見えた。
結論から言うと、
カケルは貨物トラックを避けなかった。
アルミボディの貨物の側面に「着地」し、
その荷台の全長を走り抜け、
空中でカウンターを切って車体の前後を入れ替えると、
路面に、ナイフの刃のように鋭角に着地し、
スライディング走法で火花を撒き散らして滑りながら、
それでも次の右コーナーを曲がり切り、
痛いほどの爆音を鼓膜に叩き付けて、
あっという間に走り去った。
そのトラックは急ブレーキを踏んで停まったが、その後のことは知らない。
カケルに負けちまった。
でも別に悔しいとは思わない。
ステージが違う。
オトナなんだこっちは。
というかむしろ、
次の世代のトンガったヤツと競ることが出来て、
逆に誇らしいくらいだ。
伝説の単車乗り「人間魚雷」の、
その最初のバトルの相手がこのオレ、
ってことになる。
なあ、お前さ、どう思う?
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