第22話:深沢カケルの日記「契約」
雷に打たれた。
このことを、他にどう表現すべきなのか、僕は知らない。すべての価値観が逆転し、その色彩が、世界のあり様そのものが、変化した。空気はその重さを変え、逆さまにした砂時計の中の、そのさらさらした砂の様に、世界は崩壊し、細かく砕け、狭いトンネルを通り、やがて反転して、別の次元に再構築された。そして驚くことに、これは一瞬の出来事だった。「雷に打たれた」というのはそういうことだ。
価値が、逆転した。
僕は気が弱く、臆病で、そのクセ自分のことが大事で、その大事な自分を護るために極度に
何とか周囲の人間関係に溶け込もうとしたんだ。何回も。だって人間は社会の中で生きるものだから、幸せになれないじゃないか?まだ人生は始まったばかりだと言うのに、不幸な人生が不可逆的に決定してしまうなんて、惨め過ぎる。
でも好意も持ってないし、気も許していないのに擦り寄って行くその性根、と言うか下心を見透かされ、意味不明で気持ち悪いのだろう、嫌な顔をされ、変な顔をされ、時に暴力を振るわれて、その後永きに亘ってオカシな、屈辱的な嫌がらせを受けたりもして、でもそれは、僕のせいなんだ。僕ひとりのせいなんだ。僕の心が歪だから。僕の頭が壊れてるから。僕が、キモチ悪い人間だから。そう思っていた。
ブルーハーツを聴いた。
深夜、ヘッドフォンで聴いていたラジオから流れてきたのだ。そしてこれは、勿論キッカケに過ぎなかった。単に直接的な引き金となっただけで、予兆は、少し前からあった。そう、「荒野のおおかみ」がもたらした「止まない耳鳴り」のことだ。
ひとつの想念が、不意に湧いた。
「間違ってるのは僕の方なんじゃなくて、世界の方なんじゃないか?」
僕は雷に打たれた。
「僕一人だけが正しくて、世界全体の方が間違ってるんじゃないか?」
ハッとした。
そうだ、きっとそうに違いない。
だってその前提に立てば、僕の人生に降りかかって来た難題の、そのほとんど全てが、スッキリ説明され、解決するではないか!
勿論、これは絶対的な真理などでは無く、しかし「人生」そのものを「解決」できる程の、重要な「ヒント」に違いなかった。
ブルーハーツの曲は終わり、ラジオ番組のパーソナリティが何か喋っていたが、僕は凝然として、闇に塗り潰された深夜の窓を、瞬きもせずに眺め続けた。
******
明け方だったと思う。
夢を見た。
痺れるような短い眠りの中、濃密な気配が漂う、不思議な夢だった。
薄暗い書斎のような部屋、年代物の椅子に、一人の男が座っていた。見覚えのある若い男、高校で同級生だった——そう、ヤギ君だ。
どうしたの?
こんな所で、そう声を掛けようとしたら、その人物はヤギ君では無く、背の低い、初老の男性だった。制服の白いワイシャツに見えたそれは、今は黒っぽい地味な背広で、くたびれて、何だか埃っぽく見えた。
机の前に前屈みに座り、顔はやや俯いて、部屋はランプの頼り無げな灯りしか無くて何だか薄暗く、その顔貌をしっかり確認することは出来ない。
しかし、僕はその人物が誰なのかを知っていた。その、背のあまり高くない初老の男性が誰なのかを……。しかし、名前が思い出せなかった。
「これは断言してもいいが……」
男は下を向いたままこちらを見ずに、小さな声でボソボソと喋り始めた。小柄な体格に似合わず、その声は低く響いた。
「人間の営みのすべては、茶番に過ぎない。安っぽい張りぼての舞台の上で、下手な芝居を、そうとは気付かずに大真面目に演じている。
——人間とは考える葦である。
パスカルの、この偉大な仮説を私は否定しないが、人間の本質はそんなに可憐で、純粋なものじゃない。私ならこう言う。——人間は、芝居をする猿である、と。どうだね?こちらの方が人間の在り様を、その実態を、的確に反映してはいないかね?」
初老の男はシニカルに表情を歪め、笑いを噛み殺しながらこちらを見た。
「魂の血脈、……分かるか?」
分かりません。
確かに、そう言おうとした筈だった。
しかし、
気が付くと僕は首を縦に振り、首肯していた。
「現実世界の、生物学的な血縁とは完全に無関係な、精神世界の血脈。有史以来、時代を超えて、世代を超えて、連綿と受け継がれて来た、預言者の、解脱者の、アウトサイダーの、孤高なる、真理の探究者の系譜——」
男は顔をこちらに向けた。深く皺を刻んだ目尻と口元、長い年月風雪に晒され、耐えて来た男の、厳しい顔。
「君は、自由になりたいかね?」
唐突な質問に、言葉が出ない。他の何者にも左右されない、そんな自由な心を手に入れたい、もちろんそうだ!そうに決まってる!しかし言葉が出ない、だって自由って、現実って、そんなに簡単に手に入ったり変わったりしない、もしそうなら僕は、こんなに苦しんだりしない、もっと手強いものだ、もっと厄介なものだ。
「君は、自由を手に入れるために、孤独を引き受け、戦い続ける覚悟があるかね?」
男は言い直した。
厳しく細められた眼が、
赤く、光って見える。
「孤独を完全に引き受け、世界と、戦い続ける覚悟があるかね?」
「あります」
僕は答えた。
「僕は、誰の理解も求めず、いかなる共同体にも属すること無く、孤独と孤立とを完全に引き受け、全ての不文律を拒絶し、世界と、時代と、すべての倫理とを敵に回して、戦い続けます」
頬が何だか擽ったくて、摩った手のひらの濡れた感触で、僕は初めて自分が泣いていることを知る。
「さらば与えられん」
男は言った。
「君には特別な力を与えられる、この世界の
男は眼を逸らして下を向いた。
「その代償として君が引き受けるべき孤独は、……」
その眼は、もう光っていなかった。
「人間に
******
目が覚めた。
窓の外はまだ暗いままで、布団に倒れ込んで寝入ってから、まだいくらも経っていないようだった。
「孤独、……」
オレは呟いてみる。
孤独は、オレの望むところだった。人間は何時だって僕を束縛し、自らが理解可能な範囲で「役」を設定し、押し付け、支配しようとする。
「オレは、すべての人間の期待を裏切り、すべての正義と道徳とに叛いて、自らが望む者になる」
夜が、明ける。
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