第21話:「人間魚雷」は死んだのか?

「人間魚雷」と呼ばれたこの伝説の単車乗りは、時代遅れの絶版車——RZを駆り、一九八九年の夏、初めてその姿を深夜の箱根峠に現わした。当初はヘルメットを着けていたと云われるが、一九九〇年代に入り、その走りがより危険なものへとエスカレートして行くのに従い、ノーヘル姿での目撃証言や関連する伝聞が多くなる。


 命知らずと言われるような、そんな種類の走り屋の末路は、知れている。まわりに一人や二人はいる筈だ。頭蓋骨折で目の焦点が合わなくなって頭痛が何時まで経っても全然抜けない奴とか、全身骨折で骨盤まで粉々に砕けて一年間血の小便が出続けた奴とか、勿論、そのまま帰って来なかった奴だっているだろう。


 単車は、当たり前だが、危険な乗り物だ。ある四輪車を指して「走る棺桶」なんて乱暴な言葉があるが、単車はそれより断然危険だ。理由は、剥き出しだからだ。人体が剥き出しで時速二〇〇キロオーバーでアスファルトの路面の上をスッ飛んで行くのだ。断言する、飛行機よりも危険だ。


 人間魚雷に関する伝聞は、一九九二年の秋を最後に途絶する。翌年のゴールデンウィーク、多くの走り屋がノーヘルのRZ使いの姿を深夜の箱根に求めたが、彼が現れることは無かった。


 死んだのだ、そう言われた。


 ——人間魚雷死亡説。


 まことしやかに囁かれたその噂には説得力があった。無敵の不敗神話しか知らないエントリーしたての十代の若い連中ならともかく、その走りを一度でも見た者は、或いはその走りの凄まじさを知る者は、


 ——それはそうだろう、


 と呟いて、或る者はため息を吐き、また或る者はほくそ笑んだ。


 そう、人間魚雷は死んだ。しかし、その真相を知る者はいなかった。すべてが謎に包まれたまま、彼はいなくなった。そして程なく、忘れられた。


 意外にも当時、彼の死の真相が大きな話題になることは無かった。走り屋が死んでいなくなるなんて別に珍しいことじゃないし、生活上の事情で「峠」からフェードアウトするなんて、ハッキリ言ってありふれた出来事だろう。


 ******


 一九九二年一月に或るハリウッド映画が日本で公開された。


「ハーレーダビットソン&マルボロマン」、主演はミッキー・ローク。


 このことについて語る人間は少ないが、物語作品としての評価は別として、この映画は、静かに、だけど確実に、二輪車におけるモータリゼーションの、その時代の大きな舵を切った。レーサーレプリカ・ブーム、つまりパワー重視、スピード至上主義の時代は、この瞬間から終焉に向かって動き始めた。日本の、いや世界のバイク市場の潮流は、この映画の公開を境として、次のトレンドに、数年をかけて大きく移行したのだ。


 世に言う「アメリカン・ブーム」の到来である。クラシカルな意匠、ヒストリカルな出自、ビンテージ的な雰囲気の車種が人気を獲得し、時代の主流となった。


 一九九〇年頃、道行くバイクのほとんど全ては、ヤマハのTZR250かホンダのNSR250という2スト・フルカウルのレーサーレプリカだったが、一九九五年になるとそれが、ヤマハのSR400とホンダのVLX400スティードに置き換わっていた。


 ご存知だろうか?スティードはアメリカンスタイルの、要するにハーレー&ダビットソン的なデザインのバイクで、SRに至っては「生きた化石」というか、日本の車道がまだほとんど未舗装だった頃からそのデザインが1ミリも変わっていない、という「ヒストリカル」を通り越して、製造・販売中の現行モデルであること自体が「不思議」な車種だった。


 ちょうどこの頃のことだ、「人間魚雷」の名が伝説として復活したのは。


 八十年代後半に日本列島を席巻したレーサーレプリカ・ブーム、この「速いほど偉い」を信条とし、時代を牽引した世代の単車乗りが、次々に就職し、或いは結婚し、子供が出来て、他にも様々な事情で単車を降り、そして人生の次のステップにもがき、苦しみ、そのまま数年が過ぎて、それにもやがて慣れて、少しだけ余裕が出てきた九十年代の中頃、ハッと我に還ると、レプリカ乗ってる奴なんかどこにもいなくて、ジーサン臭いSRやチョッパーハンドルのアメリカンばかりが幅を利かせていて、そんなある日エイプ・ハンガーのハーレーを目撃して度肝を抜かれ、何あれダッセエ頭オカシイんじゃねえの?と口走ったら若い奴から白い目で見られ、その時点でようやく時代が変わったのだ、ということを悟り、昔の走り屋仲間でNSR乗ってハング・オン(ハング・オフのこと、昔はこの呼称が一般的だった)で峠攻めてた奴も、セパハンは腰にくる、とか何とか弱音を吐いてクラブマンやセロウに跨ってたりしていてダラシなく、若い奴も何だかずいぶんと大人しくなって道路をゆっくりトコトコと走っていて、隔世の感、というかまるで夢でも見ているようで、血を滾らせて峠を攻めた二十歳そこそこの熱き日々が懐かしく、何だかヤケに寂しい気持ちになって、その頃ようやく広く普及し一般的になった携帯電話で、昔の仲間に久し振りで連絡取って、チンタラ走りやがって今どきの若い連中はよ、と飲み屋でくだを巻き、そんな場面で、酔眼をフッと上げて真顔になり、


「人間魚雷って、いたよな?」

「ノーヘルのRZ野郎、キチガイだ」

「死んだって聞いたぜ、だよな?」


 と話題に上るようになり、それは自然発生的に、燎原の火のように拡がり、やがて複数のバイク雑誌が「人間魚雷伝説」と銘打って特集を組み、最終的にはTV番組にまで取り上げられるに至り、「伝説の単車乗り」としてその名が広く一般にまで知れ渡った、もちろん一時的に、ではあるが。


 ともかく、

 こうして人間魚雷は、史上最も有名な「峠の走り屋」となった。


 はっきりと言って置く。


 ノスタルジーだったんだと思う。

 過ぎ去った時代に対する、

 過ぎ去った青春に対する、

 ノスタルジーだったんだと思う。


 その郷愁が「人間魚雷」という狂った単車乗りの記憶を忘却の彼方から手繰り寄せ、不敗神話と奇跡とに彩られた「伝説」に仕立て上げたのだ。


「人間魚雷」を支持し話題にしたのは、レーサーレプリカ世代だけでは無かった。新しい世代のイージーライダー連中、或いはZEPHYRや、時にZ-Ⅱに跨がるカワサキ野郎共も、この「人間魚雷伝説」に喰い付いた。


 レーサーレプリカ・ブームの、謂わば「アンチ」として誕生したこの新しい世代は、人間工学に基づく最先端のテクノロジーを結集して作られたレーサーレプリカが、ネイキッドの、しかも絶版車であるRZにまったく歯が立たなかった、という事実を「痛快事」と捉え、歓迎し、「人間魚雷」を旧世界のスーパーヒーローとして讃え、伝説として語り継いだのだ。


 ******


 人間魚雷の最期については、いくつかの説がある。いずれも相模湾沿岸の国道134号線で死んだことになっている。方角は西から東に向けて走っていて、そして時間帯は深夜から明け方にかけて、つまり未明である。


 一つ目は、

 暴走車輛の集団とバトルになり、RZに横付けしたスカイラインGT-R/R32の後部座席にいた小僧に、後輪めがけて横から鉄パイプを突っ込まれ、時速200キロでブッコケて死んだ。——とする説。


 二つ目は、

 早朝の国道の路面に、大破したバイクと、長身の若い男が横たわっていた。検死の結果、何らかの飛来物による頭蓋骨の陥没骨折、及び脳挫傷が死因だったという、ノーヘルの人間魚雷ならではの死に方だった。——とする説。


 ひとこと言いたい。何もずーっとノーヘルだった、という訳じゃない。箱根に着く前に、厚木第二交機とバトルになっちまう。——いや、話が逸れた。


 そして三つ目は、

 これが一番ド派手なエピソードだ。その厚木第二交機の白バイとバトルになり、時速200キロオーバーでカッ飛んでいて、ウィンカーを出さずに左折したタンクローリーの側面に激突し、その後輪に巻き込まれて死んだ。——という説だ。


 しかし、そんな話題も、程なく忘れられ、メディアの口の端に上らなくなった。


 旧世界の、そのまた旧世界から現れた伝説の単車乗りの記憶は、

 箱根峠にスタンバっていた連中の脳裏からすら、

 砂で書かれた文字のように、

 波打ち際に記された足跡のように、

 風に吹き飛ばされ、

 波に洗われて、

 完全に消え去り、失われた。
























































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