第14話:一九九二年、箱根峠2

 その日、箱根峠の山頂付近、信号横の空地には多くの単車が陣取り、騒音を撒き散らしていた。


 或る者はアクセルを開けてエンジンのレスポンスを見ており、或る者はクラッチミートのタイミングを測っている、また或る者は急発進、直後に急ブレーキを掛けてタイヤのグリップを確かめ、そして或る者はパワースライドで8ノ字スラロームをブチかまして己の技量を周囲に誇示している。


 基本的にはほぼ全員フルフェイスのヘルメットだ。Araiのメットが多い、次にSHOEI。機能優先、空力優先、今とはだいぶ違う。「悪そうなムード」なんて何の自己主張にもならない、「速いほど偉い」「速さこそが正義」、それが当時の「掟」だった。


 この日、オレはセリカGT-FOURの運転席で、空地の中から車道を眺めていた。社会人一年目、やるべきことは山程あり、こんな真夜中の峠道で、走り屋どもに混じって咥えタバコで闇に沈む街道を睨んでる場合では無かったが「人間魚雷」が、或いはカケルかも知れない、という予感があり、それを確かめるために愛車のセリカを駆って来たのだ。


 オレの進学を機にカケルとは疎遠になっていて、口論になったり、そうこうしてる内に、カケルが洋光台のガソリンスタンドを辞めてしまい、すっかり会わなくなっていた。


 地元の朝比奈峠で、少し前にノーヘルのRZにブチ抜かれて、あれ?コイツひょっとして、あの「人間魚雷」じゃないか?って言うか、カケルなんじゃ無いか、って思って、それを確かめに来たのだ。カケルとは以前、よく一緒に走りに行っていたのだ。戸塚カントリークラブとか、懐かしい。


 この日、箱根峠の信号横の広場の出口には、「カリッカリ」のレーサーレプリカが三台並んでエントリーしようとしていた。きっと仲間なんだろう。


 ロスマンズ・カラーのNSR、ウォルターウルフ仕様のRGVガンマ、そしてアンダーカウルが無い、少しボロい感じのTZRだ。しかもこのTZR、今の人は知らないかも知れないが「エビ反り鬼ハン」にしてあった。峠をナメてんのか?と一瞬思ったが、ハンドルの角度は比較的緩やかで水平に近く、峠を攻めることを意識しているようだった。またバランスの取り方とその操車は巧みなものであり、この三台の中で一番速いのは、間違い無くコイツだろうと思われた。


 ちょうど日付が変わる頃、箱根新道の方から、2ストロークエンジンの排気音が登って来るのが聞こえた。V型エンジンの滑らかな音とは違う、無理矢理にパワーを振り絞るような、怒り狂ったケダモノの咆哮、命からがらのヒステリックな音。


 空地と、隣にある駐車場を騒がせていたいろんなバイクやクルマ達の、その空ブカシやタイヤのスキール音が一時的に鎮まる。その場に居合わせたほぼ全員が、その排気音に耳を澄ませる。


 ツースト・パラツー(2ストロークエンジン並列二気筒)の、その闇を裂く爆音は、ヤマハ・ロケット、——RZのものに違い無かった。


 ——人間魚雷!


 多くの単車乗り達が、音がする方に、闇の虚空に視線を巡らす。


 違和感を覚えた、すぐにその場にいた全員が気付いた筈だ。音が近付いてくるスピードが、いくら何でも速過ぎる。時速160キロくらいか?


 ゼロヨンのつもりなのか?

 峠だぞここは!


 箱根新道は自動車専用道路で、長い登坂が続いているからアクセル全開でカッ飛んでても大丈夫だが、箱根新道を抜けると一般道だ、幾つかの道が合流し、勾配も急激にフラットになる、しかも坂を上り切った箱根峠を過ぎて少し走ると、すぐに急峻な下り勾配になり、タイトで曲がりくねったダウンヒル・コースが展開する。


 空飛んじまうぞ、


 減速せずに箱根峠の交差点に侵入しようとすれば、登り勾配が尽きた所でロケットのように空中に射出される形となる筈だった。


 遠く、黄色い前照灯の光が見えた、が、その次の瞬間にはハイビームのその眩い光芒は眼前に迫り、鼓膜を激しく叩く排気音が、連続する破裂音が、


 瞬間、消えた。


 えっ?


 何が起こったのか分からなかった。音と共にRZの、その姿までが消失してしまったのだ。


 そして、車道を照らす外灯の、そのスポットライトのような円錐形の光束の中を、空中を飛ぶ単車の影が、一瞬だけ、ヒラリと映り込んで消えた。その単車に跨がる人影も見えたが、それは人、と言うよりは、全身黒ずくめの、異形の怪物のように見えた。


 現実感が薄く、何かの見間違い、或いは幻覚のように思えてボンヤリしてしまったが、すぐに暗闇の向こうから、


 ズダンッツ!


 という衝撃音と、絶望的なくらいのタイヤのスキール音、発狂寸前なまでのエグゾースト・ノートが轟き渡り、ちょうどギャラリーが大勢タムロする駐車場の前だったのだろう、歓声とクラクションが沸き起こり、しかし事故る訳でも無く、転倒もせずに、派手にタイヤを鳴らしながらダウンヒルを駆け下って行くのが、その音から知れた。


 ボンヤリせずにコースを見据えている奴が一人いた。エビ反り鬼ハンのTZRだ。スポットライトのような外灯の光に、空中を飛ぶRZの影が映り込んだその瞬間、まるでタイミングを測っていたかのように、エンジンを高回転に保ったままクラッチを繋ぎ、魂切るような排気音を路面に叩き付け、車体が浮き上がる程の勢いで急発進した。


 隣にいたガンマも気付き、3秒程遅れて急発進、ヤケクソなまでのエグゾースト・ノートを甲高く響かせて追い縋った。


 しかし残りの1台、ロスマンズカラーのNSRは何時まで経ってもスタートしなかった。


 何を思ったのか、不意にそいつはゆっくりと単車を降りた。スタンドを掛けずに離れたため単車はそのまま音を立てて倒れ、しかしそいつは、それにも気付かない風でフラフラした足取りで路側帯まで歩いて行った。そして乱暴にヘルメットを脱ぎ捨て、下を向き、


 嘔吐した。


 怖ろしかったのだ。


 直後、そいつの前の車道を、2台のカワサキ車が轟音と共に猛スピードで通過した。ZX10、それからZ750FX、——人間魚雷を追っているのだ。箱根新道でもう既にバトルになっていて、ブッチ切られたということか。


 そして更に、その2台のカワサキを轢き殺すような勢いで、空地に停車していたポルシェ911がタイヤを空転させながら急発進した。タイヤが強大なトルクを支え切れないのだ。その「スーパーカー」の名を冠するモンスターは、怒り狂って獰猛な咆哮を上げ、ケツを左右に振りながら派手に車道へと乗り出して行った。








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