第10話:深沢カケルの日記[十八歳]①

[一九八八年五月十三日]※十八歳、フリーター


 ロックが嫌いだった。


 ロックは僕を馬鹿にしている。

 ロックは僕のことクダラナイ奴と罵る。

 ロックは僕を、戦わない僕をクズだと責める。

 ロックは僕を、攻撃している。


 そんな僕でも、

 ロックはカッコイイと感じる、どちらかと言うと好きだ。

 でも、

 僕はロックが怖い。

 怖いのだ。


 サメジマとは、

 大学に進学したサメジマとは、しばらくあっていない。

 人に面と向かう「表情」と、話すべき「言葉」を持たない僕は、

 バイト先でもひどく浮いていて、

 息が、苦しい。

 後から入ってきた年下の後輩に、

 ずいぶんヒドイことまで言われて、

 でも僕は、

 そいつと目を合わせることすら出来ない始末だ。


 僕はこの日本に生まれたことを呪う。

 この「神なき国」を呪う。

 神を信じることが出来るキリスト教圏の国なら、

 神を信じることが出来るイスラム教圏の国なら、

 僕は、こんなに苦しむ必要は無いだろう。

 だってそうだろう?

 僕は神の御心によってこの地上に産み落とされ、

 生かされている筈の存在なのだから。

 至らない、ダメな、劣った部分があっても、

 一心に神に祈ることで、

 それは信仰への純粋な帰依に、昇華して行くに違いないのだ。

 違うかな?


 僕は本屋に行った。

 駅ビルの中にある大きな書店だ。

 僕はひどく、

 本当にひどく精神をヤラレてしまっていて、

 比喩ではなく、

 藁にも縋り付きたい気持ちだったのだ。

 自分を支え、律する規範が欲しかった。

 縋るべき言葉を、探していた。

 落ちれば死ぬ、

 その絶望的な断崖絶壁に、

 何か、

 手掛かりが欲しかったのだ。


 偶然だった。

 ヤギくんと出会った。

 行かなくなった学校の最後のクラスメート。


 背の小さな、

 病弱な感じで色白な、

 痩せてひ弱なイメージ、

 僕と一緒で地味な存在なんだけど、

 いつもニコニコ笑って友達に話しかけていた。


「よう、深沢くん、ひさしぶり……」


 度の強い眼鏡のレンズの向こうから僕に笑いかける。

 細い腕と、

 痩せて尖った肘がなんだか痛々しい。


「ヤギくん、ひさしぶり……」


 柳田……確か、ひとし

 彼はその名のとおり誰にも平等に笑顔で話しかけた。

 話しかけてくれた。

 この出来損ないのいびつなタマシイの僕にも。


 彼とは共通の思い出がある。


 理科の実験だったんだと思う。

 カミソリで指の先をほんの少しだけ切って、

 一滴だけ血液を絞り出し、

 それを何かの試験紙に落として観察する、

 そんな内容だった。


 僕は、

 左手の人差し指の腹を、

 大きく切り裂いた。

 もちろんワザとだ。

 血がたくさん出た。

 教師は慌てて、保健室に行くよう指示した。

 滴る血液をタオルで受けながら、

 僕は保健室まで歩いた。

 僕は試されている、

 そう思ったのだ。

 自分に、だ。

 自分に、試されている。

 きちんと切り裂けなかったら、

 しっかり深く切り裂けなかったら、

 僕はもうダメだ、

 人間として見込みが無い、そう思ったのだ。


 もう一人、

 隣を歩いている生徒がいた。

 ハンカチで指を押さえていた。

 それがヤギ君だった。


「どうしてそんなにいっぱい切っちゃったの?」


 保健室の椅子に座って、

 先生が処置の準備をする間、

 自分のことは棚に上げて、ヤギ君がいった。


「えっと、なんとなく……」

「結構深く切っちゃったね、ちょっと見せて」


 笑いながらヤギ君が言った。

 僕はキズを見せた。

 少しの間、沈黙があった。

 そして真顔になって、

 ヤギ君は僕の目を見た。

 気弱で、いつもは笑顔が張り付いたようなヤギ君の顔は、

 しかし今は真剣だった。

 厳しい目。

 こちらの思いまで見通すような、

 動かない、

 確固とした意志を宿した瞳。


 ヤギ君が、

 実はヤギ君ではなくて、

 全く面識のない、見知らぬ人物のような気がして、

 僕は少し怖くなった。


 僕が目を逸らす前に、ヤギ君は破顔した。

 いつもの、人懐こい笑顔。


「へへへへへ……」


 そうして、ケガをしてない右手を、僕の目の前に差し出した。


「仲間だね」












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