第2話:記事「再考、人間魚雷伝説」

 ■走り屋の亡霊を見た——再考、人間魚雷伝説:月刊BGバイカーズ 1995年8月号


(※前略)


 今年(※一九九一年:編者註)の五月頃だったと思います。深夜の国道一号いちこくを、箱根から湯河原の方に向けて走っていて、背後から抜き去られました。箱根峠を過ぎて、五分くらい下って行ったあたりじゃないですかね。追い抜き? いや違いますね。あれは追い抜くとか、そういうんじゃない。ボクが乗ってたのは、インプレッサWRXです。バイクなんかに、抜かれたことなんてないですよ勿論。当たり前ですよね? 向こうは二輪、こっちは四輪、しかも4WD、水平対向4気筒DOHC16バルブ、ターボ搭載、最高出力240PSですよ? 内装引っ剥がして軽量化して、モモステ、フルバケ、ロールバーですよ、気合入ってましたし、圧倒的にこっちが有利ですよね? それにあの片側一車線の狭くて曲がりくねったタイトな下り坂で、こっちが道を譲らない限り、ふつう抜いたりとか不可能じゃないですか? 物理的に。


 バケモノです。

 人間じゃない。

 だって、

 バイクって普通、空飛んだりします?


 ツバキラインの下りを攻めていて、いやドリフトとかはしないです、四輪駆動ですから、無茶してもワリカシ普通に走れちゃうんですよ。


 物音ひとつしない深夜、草木も眠る丑三つ時ですよ、でも車の中は凄まじい音量です、マフラー入れてたんで排気音がまず凄いし、エンジンやミッションからのメカノイズ、タイヤのスキール音、サスが軋む音、フレームがヨジれる音、ドンッという衝撃音、それに集中してますしね、命懸けですから、メチャクチャ忙しいんですよ、峠を攻めてると。


 なのに後方から、

 いや上の方からなのかな、下ってるんで、

 何か、聞いたことが無いような音が近付いてくるんですよ、スゲー勢いで。違うんですよ、クルマやバイクが追っかけてくるような、そういう音じゃないんですよ。クルマやバイクが追っかけてくる時って、リズムがあるじゃないですか、巧いヤツほど、——踊るような、歌うような、奏でるような、時に泣くような、そんなリズム。


 ブツかりながら、火花を散らしながら、転がってくるような、路面を削りながら、滑り落ちてくるような、そんな音が、ちょっと焦るくらいの、ヤバイくらいのスピードで近付いてくるんですよ、もう何だろう、事故ってる感じの音ですよ、走ってるんじゃなくて。


 後ろから、最初は微かな音、でも数秒後にはもう、すぐ後ろまで迫ってる、誰かが猛スピードで事故ってガードレール突き破って上から落っこちてきた? いや、それにしたって速すぎる、飛行機でも墜落した? こんな闇夜に? でもそう考える方が自然かも、でも次の瞬間、——


 断末魔のような激しいスキール音、

 アスファルトの上を滑る金属の擦過音、

 次に、

 ズダンッ!

 というシンプルで大きな衝撃音がして、

 すぐ後ろです、

 そして、


 無音。


 結構長く感じました。

 僕はウィンドウに僅かに顔を寄せ、右上の方に視線を走らせました。

 車の外側です、チラッと、一瞬です。

 それは理屈じゃない、本能的な行動でした。


 音が迫ってきたスピード、

 ズダンッ! という音のした位置、

 そして今走ってるコースの、

 次の、左コーナーを攻めるための「ライン取り」、――


 僕も走り屋です、

 もちろん在り得ない、

 しかし、

 いるとしたら、

 もうそこしかない、――

 うまく言えないんですが、

 そこに、

 その位置に、

 視線を走らせたんです。

 それが右斜め前の上方、ということになるんです。


 そいつと、――

 目が合いました。

 分かります?

 目が合ったんですよ。

 こっちを見てました。

 めずらしい物でも見るような、そんな目で。


 信じられます? イメージできてます? 空中ですよ!


 そいつはバイクに跨って、

 僕の右斜め前、

 路面から2.5メートルくらいの高さを、


 飛んでました。


 手足が長くて、真っ黒で、この世ならぬ、異形の怪物、

 空中にふわりと留まって、無音で、こちらを窺っている。


 ――怪鳥けちょう


 全身の血液が恐怖に沸騰し、逆流したと思います。


 やがて、そいつは、ゆっくりと、サイレント映画のスローモーションのシーンみたいに、ゆっくりと路面に着地すると、


 再び、「ズダンッ!」という凄まじい音と、悲鳴のような禍々しいスキール音が鼓膜を激しく叩き、でも、もう間に合わない、


 左コーナーのガードレールに、――

 ぶつかるっ!!!


 でも、でもそいつは、バイクを路面スレスレに寝かせた状態でスライドさせて、アクセルを断続的に開け、空転するタイヤ、ガリンッ、という音がして、ステップなのかエンジンブロックなのか、路面に擦れて火花がザァーッ、って散るのが眩しくて、そして眼に滲みるほどの白いガードレールの脚に、でも、でもワザと後輪をぶつけるように、そして、


 ドゥラララララッ、


 と地味な音がして、ガードレールの、五、六本、その白い脚を後輪で叩くように、はしごを渡るようにして走り抜け、そして、その左コーナーを、驚くことに、曲がり切ってしまいました。——

 そして、しかし速度は殺さずに、そのままのスピードで、次の右コーナーに飛び込んで行き、次の瞬間、そいつとバイクは、闇の帳の向こう側に、完全に姿を消しました。


 消えたそのバケモノの姿を追い掛けるように、後から悲鳴のようなスキール音と、ガリガリガリガリッ、という擦過音と、狂ったようなカン高いエグゾーストノートが、張り詰めて四囲の暗闇を圧し、轟き渡って、それは耳を澄ます間にどんどん小さくなって行き、しかし、にも関わらず、ずいぶん長いこと聞こえ続けました。ときどきバイクの前照灯の光が、樹々の葉を照らして黄色く、そして小さく、閃くのを見ました。


 僕はクルマを停めて、いや、ガードレールに軽く突っ込んじゃってたんですけど、クーラントが焦げる少し甘い臭いを嗅ぎながら、ヤツが走り去っていく、その峠の暗闇を、見えない渓谷の景色を、呆然と眺めていました。


 ずいぶん後になってから聞きました。そう、「伝説の走り屋、人間魚雷」とかね。でも、違いますよ、あれ、噂にあった、亡霊なんじゃないですか? やっぱし。だって、人間にあんなことできないですよ、人間に相応しい範囲を超えてます、命があるわけですから、あんなこと、無理だし、うまく言えないんですが、許されないと思うんです、いろんな意味で。


 反則だと、……そう、思うんですよ。


(※後略)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る