Melt

伊島糸雨

Melt

 夏真っ盛りの、なんてことない日。雲一つない蒼天の中、世界の終わりみたいに太陽が燦々と照っていた。

 終業式後の帰り道、途中のコンビニで買ったアイスが口先で溶けて垂れそうになるのを音を立てて啜りながら、ゾンビみたいに足を動かす。あー、とか、うー、とかいう呻き声を二人分漏らして、緩慢な動作で前に進んでいた。


「溶けるわ」


 彼女は唐突にそう宣言すると、本当に物理的に溶解し始めた。私は真っ先に熱中症を疑った。あまりに暑いが故の幻覚なのではないか? 水彩絵の具に水を垂らした時みたいに、皮膚がでろでろし始めて、私はホラー映画かっ、と目を見開いた。


「溶けておるわ」

「んでしょ」


 事実確認をしたところ、どうにも現実らしいということが判明して、焦る。残っていたアイスを頬張ったら頭が痛くなった。頭の痛い事態に頭の痛い子の妄想みたいな感じになって混乱する。


「ひ、日陰っ! さ、さぐっ、どこっ! ほぁーっ!」

「そこそこ」


 ほれ、とデザインが狂い始めた指先でさされた先には、キープアウトされた工場の廃墟があった。なんでお前は冷静なのだと二重の意味で茹だる脳みそで考える。皮膚がカルボナーラソースみたいになってきた彼女を引き連れて、私は廃墟の日陰に入り込んだ。



「ふいー。ちょっとマシ。よいしょっと」


 いやーまさか溶けるとはねーうはは、と笑うUMA未確認生物の可能性が浮上した彼女の隣に私も腰を下ろす。アイスの棒を手に握りしめていたことに気がついてクルッと回すけれども、友人が溶けていてもこの棒はいつも通りハズレだった。日常をこんなところで感じたくなかった。よくないと思いつつも、感情に任せて棒を放り投げる。


「説明を要求する」

「体質です。一定以上の温度に触れると身体が溶けます」


 とろけた顔で、真面目くさって彼女は言った。内容はギャグだし、この状況もギャグだと思いたかった。


「そんな体質あるの……」

「ある。ありまくりですよ、マジ」

「はじめて聞いたよ……」


 五年も付き合いのある彼女から聞いたのもはじめてだし、そんなものが存在するなんてこともはじめて聞いたよ。


「隠してたとかじゃないんだけど、今年は特に暑いっていうでしょ。これまでは溶けるほどじゃなかったんだけどさー、今年は無理だったね、無理」


 いや、参ったね、こりゃ、とできそこないのプラスチック人形みたいになった髪を触る。私はどうにかして自分を納得させるべく、すべてを自然に丸投げすることにした。私の手に負えなさそうなことを急によこすのはやめていただきたい。普通に困ります。


「つまり猛暑のせい?」

「そうそう」


 なんてことない風に、顔をでろでろさせながら言っている。左目の周囲が溶けて、目がぱっちり大きくなっているけれど、そこに憧れる要素はない。加えて、口周りも溶けているから、しゃべるたびにねばねばしている。グロテスクだった。ただまぁ、さっきに比べると溶解する速度は落ちているような気がするから、しばらくすれば元に戻るのだろうか。

 見つめていると、小学生の時に雑貨屋で買って遊んだスライムを思い出す。あの柔らかで、どろりとした不思議な感触が好きだった。何度も何度も手で弄んで、握って、指を入れて、割いて、捏ねていた。彼女の身体は、今やスライムの要素を孕んでいる。その感触を想像して、じっと見つめる。


「……触る?」

「えっ、あっ」

「いいよ、別に。減るものでもないし……」


 ほら、と言って、彼女は半袖から露出した腕を私に差し出した。私は狼狽えて、いや確かに気にはなったけどいいのかなどうなんだろうと葛藤して、挙げ句の果てに敗北した。本人がいいと言っているなら、きっといいのだろう。たぶん。

 剥き出しのコンクリートは、影の中で少し冷えている。薄い黒のヴェールを穿つように、点々と光が差し込んで、地面を温める。私の頭はクールダウンするどころかヒートアップして、そろそろと、指先をのばす。


「目がやばいし鼻息すごい」


 やかましい。

 別にやましいことをしようというわけじゃない。友達の、肌に、ちょっと触れるだけ……。いやいや、落ち着きなよ心臓。そんなに血を回さなくたって、もうあちこち熱いんだよ、こっちは。

 唾を飲み込む。緊張を抑え込むために唇を噛む。

 ぬるっ、とした。

 粘性で、とろりとして、少し温かい。指の腹を這わせると、肌色が引き伸ばされて、けれどこぼれ落ちることはなく、彼女の一部を構成している。スライムとはまた違って、それは確かに生き物だった。得体の知れない生命の蠢きを、肌で感じている。


「ぅ、わ……」


 思わず声が漏れる。やましくないのになんだかとても背徳的な趣がある。私は友達に何してんだ? 疑問がよぎるけれど、そもそもが奇妙な事態なので、私の行動が多少変でも許される気はする。

 上目で彼女の顔を見ると、くすぐったそうに歪んだ顔を歪めている。


「必死すぎ……なんか恥ずかしいわ」

「あ、あぁ、ごめん……」

「別にいいけどさ……」


 そう呟いて、顔を背けた。ほんのりと、頬が赤くなっていた。それはきっと、私も同じ。

 許可が出たので、ぬるぬるするのを継続する。骨と肉の形はそのままに、彼女の表層だけが溶けている様は、恐怖よりもむしろ好奇心を刺激した。そしてそれが親しい友達の、ある意味秘匿されていた一面であることに、わずかに興奮する。

 場所も良くなかった。人気がなく、蝉の鳴き声ばかりが木霊する日陰。過去にこんなことはなかったし、私自身思ってもみなかったけれど、どうだろう。人というのは、場面次第でこれほど急激に、何かに感じ入ることができるのだろうか。

 そうやって触れて、彼女の息遣いに耳を傾けていると、せっかく避難してきたのに身体中が熱くてたまらなくなる。見上げた先で視線がかち合って、絡み合って、熱の合間に溶けそうになる……


「……溶けとるわ」

「うぇっ?」

「溶けとる溶けとる!」


 わーっ、と指差されて顔に手をやると、なんだかぬるりとして、肌色が伸びていた。私の、肌が。え、私?

 自覚した途端、ぐつぐつと煮たっていた意識が、一息に弾けて、飛んだ。


「びゃっ」

「ちょっと! 気を失うな! おい!」


 身体を揺さぶられるけれど、もうなんだかよくわからない。ぼんやりしてふらふらするのは、貧血の時に少し似ている。視界が霞んで彼女が三重に分身する。私の友達は忍者だったのかと閃きつつ、そういう私も溶ける人間だったのか、と最後の最後で理解した。



 目を覚ますと、朧げな視界の中で彼女が分身していて、忍者だったのか、と新発見に身を震わせる。目を見開いた先には彼女の顔があって、私は自分が仰向けに寝かされていることを知る。ついでに言うと、後頭部は柔らかいものに支えられていて、それが彼女の脚であることも理解した。なるほど、と納得して、慌てて飛び起きる。


「うわ起きた」


 うわ、ってなんだうわ、って。


「何が起きたの」


 目を擦りながら問いかけると、「うーん」と唸ってから、


「まぁ、なに。溶けたのよ。どろっと」


 元に戻った頬を掻きながら、目をそらしつつ彼女は言う。なるほど確かに、そんな感じの記憶がなきにしもあらず。希釈された現実感で、頭の中に浮いている気がする。


「おそろしい体験をしてしまった」

「まあ、うん。そうねー」

「おそろしい真実を知ってしまった」

「ゔぇっ」


 私ですら出したことのない濁音が出てきた。だいぶ適当な返事が連続したので聞いているのかと思っていたけれど、どうやらしっかり耳には入っていたらしい。しかし顔を全力でそらしている。耳を私の方に向けることで聞き取りやすくしているのかもしれない。


「どうしたの」

「いやなんでも。なんでもない」

「ほーん? まぁ別にいいけどさ」


 それはそれとしてもう溶けてはいまいかと口元を拭うと、なにやら唇がぬめっとして、仰天する。


「あっまだ溶けてるわ!」


 やっぱり私溶けるんじゃん。受け入れたくない現実ばかりが襲ってくるのはどうにかならないのか。友達が溶けて私も溶けて、わけがわからない。

 ところでだけども、お風呂とかってどうすればいいんだろう。ぬるま湯じゃないとダメだったりするのかしら。いやそう考えると逆になんでこれまで大丈夫だった? 難題だ。よくわからないが過ぎる。


「そうだねーえはははは」


 彼女はまた顔をそらして、その頬を赤く染めている。私は熱中症を疑ったけれど、彼女はそれを否定した。

 彼女が持っていたアイスの棒は当たりで、けれどもう一度コンビニに行く気も起きず、私たちはそのまま帰宅した。どうにかこうにか溶けずに済んだのは、僥倖と言うべきだろう。



 翌朝のニュースで、昨日は世のほとんどの人が溶けていたのだと知った。このまま地球温暖化が進みでもしたら、人類の滅亡要因は肉体の融解になってしまうなぁ、とパンにピーナッツバターを塗りながら考える。そしてあの廃工場でのやり取りと、彼女の艶かしく蕩けた様を思い出して、急に恥ずかしくなる。頬張ったパンの上でピーナッツバターが溶けていて、その感触が記憶の生々しさを助長した。

 家を出た道で彼女の顔を見るともうたまらなかった。私はぐるぐるして、素知らぬ顔をしている彼女に「溶けそう」と自身の現状をこぼした。


「溶けとるが」

「ゔぇっ」

「うそうそ」


 ニマニマと笑う彼女を睨みつける。彼女は本当に、昨日のことなんてなかったみたいだ。


「今日は昨日ほど暑くないっしょ」

「まぁ、うん。そうね」


 馬鹿馬鹿しくなってきて、返事も曖昧になる。私ばかり羞恥心を感じるのはフェアじゃないし、ちょっとムカつかないでもない。

 だからまぁ、そういう思いで、私は彼女の手を握ってやった。


「ゔぇっ」


 奇妙な呻き声をあげて反射的に手を引っ込めようとするのを、強く握ることで阻止する。顔が熱くなる。耳たぶは真っ赤だろうか。


「……よし!」


 気合を入れて、そのまま大手を振って歩き出した。私の手と一緒に彼女の手が前に出て、彼女は「えっ、ちょっ」と戸惑いの声をあげる。



 夏真っ盛りの、暑さと熱で蕩けそうな日。

 繋いだ手の平がひどく滑って、私たちが同化していた日。

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Melt 伊島糸雨 @shiu_itoh

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