Unfreeze

伊島糸雨

殺伐感情戦線:第6回「冷蔵庫」

 同居人が出て行ってから2週間が経つ。あれだけ詰め込まれていた冷蔵庫の中身は、すっかり寂しくなった。基本的に食が細く怠惰な私だけじゃ、中身は少しずつ減るだけで、空になるまで追加もされない。

 迷惑と気楽は紙一重で、どっちも無くなった以上は、お気楽で面倒臭い一人の生活だけが残る。私という女が、誰と話すでもなく静かに暮らす日々だけが。

 もともと自主的に酒を飲むタイプでもない。缶ビールは放置されて、つまみは賞味期限を過ぎた。やめていた煙草を再開して、換気扇を回し、煙を吐き出しながらチョコレートを食べる。口の中が、やたらとべたついた。


 物が少なくなった部屋は陰気な暗い色の家具ばかりが残り、テレビリモコンの上にもうっすらと埃がたまっている。彼女と過ごしていた時間は空白となって、私は日に十時間も眠るようになった。仕事をして、適当に食事をして、寝る。他にやりたいこともなく、休日は見たくもない映画を見に行って無為に時間を潰した。読みたくもない本を読み、中古で売りに出した。新品同様だから、少し高く売れる。雑に畳まれた服がタンスの上に積まれて今にも崩れそうだった。崩れてから仕舞うのが基本になった。


 時は進み、私は着実に死に向かい、世界のあちこちで誰かが寿命を終えていく中で、私の日常だけが逆行していく。今は、大学を出て就職し、それから二年が経ったあたりの状況とほとんど変わらない。一人暮らしに慣れて、仕事に疲れて、色々なことが自分本位になっていく時だ。


 同居人ができて、本位になる対象が少しずつ変わっていった。かつてうんざりしていたはずの妥協と譲り合いは不思議と心地よく、たまの喧嘩もコミュニケーション手段の一つの域を出なかった。なるほど、私にもこんな一面が、と思っていたものだけど、それも泡沫の幻じみて観測のしようもない。はじけて消えて、手は届かない。私にそういう穏やかさを与えてくれた人は、もう傍にはいない。


 夕暮れ時に、冷蔵庫が空になったのを見計らって買い物に出た。長いこと利用している近所のスーパーに向かっていた。

 乳白色のマイバッグを肩から下げた元同居人に会った。それはそうだ、と思い至る。彼女の職場のことを考えれば、そう遠くにいるはずもなく、買い物をするならできるだけ行き慣れた場所がいいという心理も理解できる。遭遇する可能性は十二分にあって、私の怠慢がそれを回避していただけだった。

 お互いにほぼ同時に気がついて、目を合わせて、気がつくとスーパーの前にあるベンチに隣り合って座っていた。私の手には無糖コーヒー。彼女の手には微糖コーヒーの缶が収まっていた。


 たいしたことは話さなかった。調子はどうかと聞くと、彼女は悪くないと言い、私は冗談めかして堕落した現状を嘆いてみせた。彼女はにこりともせず、私にしたって別に面白くもなんともなかった。それでも口の端をちょっと上げるのはただの虚勢で、悪くないと言った彼女への当てつけだった。我ながら幼稚だと思う。少なくとも、大人ではなかった。ちらつく過去の光景を叩き潰すので精一杯だった。忘れようと思って、忘れられなかった。

「もう、ないか」

「もうないよ」

 コーヒー、ありがとう。そう言って彼女は立ち上がると、自動ドアの中に消えていった。私は結局開けなかったプルタブを見つめながら、しばらくその場に留まっていた。これが最後の会話かと思うと悔しかった。もうちょっと何かあるんじゃないか? と思っていたのが恥ずかしい。私にも彼女にも、何もありはしなかった。これ以上の言葉はなく、物語は続かない。ここで打ち止めだ。


 気持ちは薄れ、熱情は冷めた。自動ドアを潜った先で冷凍食品をカゴに放り込みながら、ふと彼女が作ってくれた暖かい料理のことを思い出し、即座に叩き潰す。そんなものはなかった。そんなものは、もうないのだと知っている。

 スーパーを出るまで、彼女を見かけることもすれ違うこともなかった。冷たいビニール袋をぶら下げて歩道に出たところで、夕焼けに滲む彼女の背中を見た。肩から下げられたバッグからは、長ネギの青が顔を覗かせていた。


 夜中に目が覚めて、水を飲もうと台所に向かった。水道水を雑に注いだコップを握りしめて息を吐く。一息に飲み干して換気扇をつけてから、缶コーヒーが残っていることを思い出した。中腰になって冷蔵庫を開けると、缶コーヒーだけがぽつんと鎮座している。冷凍庫の方は、凍った食料がギチギチに詰まっていた。彼女に出会う前の姿が、自然と再現されている。

 放射状の光を身に受けながら、壁を背にしてずるずると座り込む。手に取った缶を開けて中途半端な苦味を飲み下す。冷蔵庫の稼働音が台所に反響していた。

 煙草に火をつけて、灰を缶の中に落としていく。ゆっくりと広がる冷気に二の腕をさすりながら、その空白を見つめた。


 人間も感情も、冷凍して保存して、必要な時になったら温められたらいい。冷えきった関係も、愛した人も、私だって、この冷たい光の中に閉じ込めておければよかった。

 けれど、そうはならない。すべては空っぽで、私たちは……私のこの愛は、維持されずに膿み腐っていく。一度温かくなったら、あとは冷めるのを待つだけだ。


 いっそのこと、と思わないでもない。彼女を殺して、ここに閉じ込めておけばいい。そして彼女の顔を見たくなった時には、ひっそりと扉を開ければいい。

 けれど、これもまたそうはならない。冷たい身体に用はなかった。冷めた想いになんて触れたくなかった。そんなことをしてしまったら、私はきっと、天国もまたこの愛と同じように冷えているのだと錯覚してしまうから。魂のコールドスリープなんて、まっぴらだった。


 短くなった煙草と、長くなった灰を缶の中に落とす。重たい身体を持ち上げて、光と冷気をその空白の中に押し込めた。

「寒いな……」

 暗闇が滲んで、煙草の臭いが染み付いた指を目元にあげた。冷えた手の上を、生温さが伝っていった。

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