第10話

 研究棟の職員専用入口の前にミサキとソウジが立っていた。人目を避けるため茂みを抜け、研究所のフェンスを超えてきたため二人とも体のあちこちに葉っぱや蜘蛛の巣がくっついている。

「それにしてもよく警報が鳴らなかったな」ソウジは周囲を用心深く見渡した。

「言ったでしょ? 一箇所だけ抜けれるポイントがあるって」

「なんで君はそんなこと知ってるんだよ」

「その件に関してはノーコメント。女には色々あるのよ」

 ミサキはカードキーを取り出すとドアの傍に取り付けられた金属製パネルにかざす。パネルから電子音が鳴るとドアのロックが解除された。

「開いたわ。行きましょ」ミサキはドアを開けるとソウジを手招きした。

 中は不気味なまでに静まり返っていた。通路の照明は落とされており、非常口誘導灯の明かりが緑色に弱々しく辺りを照らしている。

「絶対におかしい。この時間に誰もいないなんて今までないのに。まさか……」ミサキの脳裏に例の二人組の顔が浮かんだ。首元を一筋の汗が滑り落ちる。

「落ち着くんだ。とにかく先に進もう。それでどっちに行けばいい?」

「……まずはオフィスに向かうわ。そこにタイムマシンが置いてあるラボの鍵があるから」

「わかった。よし、急ごう」

 二人は警戒しつつオフィスに向かった。床を叩く靴音が大げさに廊下に響く。頬を撫でる空気がひんやりと冷たい。

「ねえ」ミサキが声量を抑えながらソウジに視線を向けた。

「本当に上手くいくかな? タイムマシンで別の世界線に行くなんて」

「必ず上手く行くなんてことは僕にも言えない。だけどそれが一番最善な手だと思う。非現実的な話ではあるけどね」

「あっ。あそこよ」ミサキは突き当りの部屋を指さした。通路側のすりガラスの窓を確認するに部屋の灯りは点いていないようだった。

 ミサキは恐る恐るオフィスの扉をスライドさせ、中に一歩足を踏み入れた瞬間、異臭が鼻をついた。

「くっさ、何この匂い?」ミサキは腕で口元を塞ぎ、照明のスイッチを入れる。すぐさま灯りが点き、部屋の姿を露わにした。

 目に飛び込んできた光景を見てミサキは愕然とした。オフィスには一面に散らばった書類と職員たちの死体の山が血の海に沈み、部屋を赤く染め上げている。

 悲鳴を上げそうになったミサキの口をソウジが塞ぎ、震える声で囁いた。

「叫んじゃダメだっ! 奴らは近くにいる」

 ミサキは小さく何度も頷くと口元からソウジの手をゆっくり引き剥がした。一日で多くの死体を見たせいか、変わり果てた同僚たちの姿を見ても気持ちが悪さはほとんど感じない。ただ目からは涙が止まることなく流れ出ていた。

「……みんないい人たちばかりだったのよ。なのにどうして」

「きっとタイムマシンと資料データ目的だろうな。……気持ちはわかるけど、今は」

「ええ、わかってる。ラボに急ぎましょう」ミサキはソウジの言葉を遮った。鼻をすすり、ロッカー横にある壁に埋め込まれた小さな金庫にパスコードを打ち込んだ。扉を開け、中に置いてあった鍵を掴むとポケットに突っ込んだ。

「さぁ、行きましょう!」

 ミサキは扉を開け廊下に出た瞬間、重く強烈な衝撃に襲われた。カーリングのストーンのように廊下を滑るミサキ。痛みを堪え顔を上げると例の二人組が幽霊のように立ち、蝋人形のような冷えた笑顔をミサキに向けていた。

「また会えましたね」【鶴】はミサキに視線を合わせたまま自分の頭をじっくりと撫でた。ミサキの体は痙攣したように震えて上手く立ち上がれない。

「何やってるんだ! 早く立って! 逃げるんだ!」ソウジはオフィスに置いてあった消火器を手に取ると二人組に向かって噴射した。勢いよく飛び出した消化剤が通路を煙幕のように真っ白に塗りつぶす。ミサキは口元を手で覆いながらその場から逃げ出した。

「ちっ。こいつが協力者か」二人組は咳き込みながらもミサキを追跡しようとする。ソウジはすっかり空になった消火器を声がした方に向かって投げつけた。消火器は【亀】の頭にぶつかると高い音をあげながら廊下の床や壁に何度もバウンドした。 

 徐々に消化剤の煙幕が薄れていく。【亀】のこめかみからは血が滝のように流れ出ていたが、その表情はお面を貼り付けたように全く変わっていなかった。

「【鶴】さん。僕がこの男、叱ります。躾をします」【亀】はゆっくりと体をソウジに向けポロシャツの袖口を引っ張り流れる血を拭った。

「あまり遊びすぎると良くないですよ。あくまでも目的は彼女なんですから」

 【鶴】は猛スピードで駆け出した。ソウジはそれを阻止したかったがオフィスの入り口に【亀】が仁王立ちしているためそれができない。

 ゆっくりとソウジに近づく【亀】。ソウジは手当たり次第に傍にあった本やパソコンのモニターをめちゃくちゃに投げつけたが、【亀】は手でそれらを軽く弾きながら近づいてくる。

 ついに【亀】はソウジの襟元をガッチリと握ると軽々と頭上高く持ち上げる。もがくソウジをキャッチボールをするかようなフォームで彼を放り投げた。ソウジはデスクに激しくぶつかると引き出しの中身やオフィスチェアが辺りに飛散する。

 背中に走る激痛を堪えソウジがヨロヨロと立ち上がる。顔を上げると同時に【亀】の蹴りが飛んでくる。ドアを蹴破るようにソウジの胸を思いっきり蹴りつけ、一直線に壁まで吹き飛ばした。

 ソウジは壁一面に置かれたロッカーに激突すると床に突っ伏す。視界がぼやけ立ち上がることができない。【亀】がゆっくりと近づいてくるのが朧げながらに見える。

「お前、許さない。僕たちの邪魔、許さない。物を投げるの、ダメです。投げてもいいのは野球のボールだけっ」【亀】はソウジを見下ろしながら顔を踏みつけた。

「【鶴】さん、きっと女捕まえてます。女、言うこと聞かないなら殺してもいいことになってます」

 【亀】の言葉を聞いてソウジは身体中を巡る血が熱くなるのを感じた。目を見開くと踏みつけられた顔を抜き【亀】の軸足首に噛み付いた。

「ダメッ! 逃げたらダメ!」【亀】はソウジの首根っこを抑えようとしたが、ソウジはその手を間一髪交わした。それと同時に【亀】の手元で金属が噛み合うような音がした。曲げた体を戻そうとした時、【亀】の腕が何かに引っ張られ体を起こすことができない。ついにはその場にゴロンと転がった。【亀】が手元に視線を向けると自分の右手と左足に手錠がかけられている。

「これダメッ! お前、許しません!」【亀】は必死に手錠を千切ろうともがく。

「そりゃこっちの台詞だ」ソウジはよろめきながら立ち上がると壁とロッカーにあるわずかな隙間に手を入れ、思いっきり後ろに引っ張った。

「何を……。ダメ、ダメッ!」

 ロッカーはゆっくりと壁から離れバランスを崩したかと思うと猛烈な勢いで床に転がっている【亀】に轟音とともにのしかかった。

 埃と近くに落ちていたいくつかの書類が宙を舞った。

「そこでおとなしくしてろよ、この化け物め。もう時間がない。急がないと……」

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