第9話
ソウジが運転する黒いコンパクトカーが夜道を走っていた。研究所は郊外にあるため車は止まることなくスムーズに進んでいる。
二人が乗っている車は盗難車だが、ミサキに罪悪感やモラルといったものは随分と薄れていた。命の保証さえしてくれるならどうぞ捕まえてくださいとさえ考え始めてしまっている。
「それで? いい加減教えてくれるかしら? あなたのことも。それから研究所に行って何をするのか」助手席に乗るミサキはドアに肘を乗せながらソウジに視線を流した。
「わかったよ。ただ一つ約束してくれ。僕の話を信じるって」
「あなたは命がけで私を救おうとしてくれた。今更疑うなんてそんなことしないわ」ミサキはわずかに口角を上げてソウジの横顔を見つめた。彼は見ず知らずの人間のために体を張って助けてくれた。一体どれだけの人がそんなことできるだろうか?
「僕は……この世界の人間じゃないんだ」
ソウジは言い澱みながら告げる。だがミサキにはその意味がよく解らなかった。
「え? 何それ? 住む世界が違うってこと? ひょっとしてとんでもないお金持ちとか? でもその割にはヨレた格好ね」
「いいや。そのままの意味さ」ソウジはひたすらまっすぐ前を見たまま応えた。冗談を言っているような表情ではなく、怖くなるくらい冷静な顔をしている。
「ちょっと待って。信じる信じない以前に言ってる意味が理解できないわ」
「エヴェレットの多世界解釈って知っているかい? 世界というのは一つではなく、分岐した世界線が無数に存在していているってやつさ」
「そりゃあ、もちろん知ってるわよ。量子力学の解釈の一つで、私たちは無数にある分岐のうちの一つのみを観測可能で他の分岐は干渉ができず観測することは不可能っていう……。って言うことはなに? あなたは元々私がいる世界線じゃなくて、別の世界線から来たって言いたいの?」ミサキの周りにはエヴェレットの多世界解釈の話題を持ち出してくる人間は山ほどいる。別の分岐した世界を観測する研究をしている人間も少なくはない。
「そう。その世界線同士は決して交じり合うことはないが、どういうわけかそれが起きてしまった。十年前にね」ソウジはゆっくりとハンドルを切りながらミサキの方を一瞥した。
「まさか……」
「そう。君の話を聞いて腑に落ちた。そのタイムマシンが原因だろう。君達がそいつの実験をしたせいで二つの世界線が一瞬だけ混ざっちまったんだ。君はさっきタイムマシンの被験体になって実験をしたって言ったよな?」
「つまり現在の世界線と、あなたがいた十年前の世界線が繋がったってこと?」
「そういうことになる。そのタイムマシンはまだ未完成だったんだろ? これは僕の憶測だけどね、君の記憶が飛ぶのも僕が今日の出来事の映像が見えるのも肉体と意識が完全に同期できていないせいなんじゃないかな」
「そんな……」ミサキはそれ以上言葉を発することができず、ただ鯉のように口をパクパクと開閉させている。さっきまではソウジを信じると言ったばかりだが、さすがにこればっかりはそう簡単に受け入れることができない。ソウジは別の分岐線を観測するどころか干渉し、なおかつ転移までしてきたのだ。
「この世界に放り出された時は混乱したよ。歴史や文化、常識がちょっとずつずれているんだから。助けを求めたら精神病棟に押し込められたことだってあった。本当に頭がどうにかなりそうだったな」ソウジは遠い目をしたかと思うと苦笑いした。
「ごめんなさい。私たちの研究のせいであなたに迷惑を……。しかも十年っていう長い時間を無駄にしちゃって」
「気にするなよ。誰がこんなこと想像できるっていうんだ?」
ソウジは明るく笑うと手をパタパタと振って見せた。まるで気にしていないようだが、それがミサキには余計に申し訳なく思えた。訳もわからず自分の知らない世界に突然放り込まれたのだ。頼れる人間もおらず、住むところも戸籍も何もない。とてつもない苦労をしたということは想像に難くない。
「……でも研究所に行ってどうするつもり? 装置を破壊するの?」ミサキは重たそうな声でソウジに投げかけた。
「もう一度タイムマシンを起動するんだ。さっきも言ったろ? そのタイムマシンは僕がいた世界線と繋がっているって。だからそっちの世界線を移動するのさ。そうすれば絶対に奴らは追ってこれない」
「嘘でしょ! 世界線の転移をしろってこと? そんなこと……」
「いや、やるしかないんだ。君は始まりの園の連中にも追われ、警察からも指名手配を受けている。この世界全てが君を狙っている。もう逃げ場は他の世界線にしかないんだよ」ソウジはミサキの言葉を遮り、強い口調でミサキに視線を向けた。
「ソウジ……。わかった。よし、やりましょう」ミサキは両手をぎゅっと握った。
「それと一つ、君に頼みがある」
「えっ? なに?」
「そのタイムマシン、僕にも使えるようにしてくれないか?」
「あなたにも? やっぱり元の世界に戻るの?」
「ああ。それだけが生きる希望だった。もちろん、そのタイムマシンが僕の世界線に再び繋がるって保証はないんだろ? ひょっとしたら僕らの文明や文化がまるっきり通用しない世界かもしれない。でもどうしても諦めきれないんだよ。それに君と同様こっちの世界では僕も終われる身だしな」ソウジは下唇を噛むとハンドルを強く握りしめた。その様子を見てゆっくりと頷いた。
「わかったわ。こうなったのも私たちの研究が元凶になってる訳だしね。それにあなたも一緒なら別の世界線に行っても怖くないから」
「ひょっとして君、僕に惚れたとか?」ソウジがニヤニヤしながら顔をミサキに寄せた。
「はぁ? キモ! 私はね、もっと爽やかなタイプが好きなのっ!」
ミサキはソウジの肩にパンチをお見舞いする。ソウジはバイザーに付いている小さなミラーで自分の顔を見ながら髭の生えた顎を撫で回した。
「僕だってちゃんと小綺麗にすれば爽やかになると思うんだけどなあ」
「そんなことよりもさあ。ねえ、一コ聞いていい?」
「えっ?」
「あなたがいた世界ってどんなところ? やっぱりこの世界とは違うの?」
「う〜ん、そうだなあ。こっちに来て一番驚いたことっていったら男がワンピースを着るって習慣がないことかなあ」
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