第5話

 気がつくとミサキはスクランブル交差点のど真ん中に突っ立ていた。忙しそうに行き交う人が時折肩をかすめていく。

 状況を把握すべくメモを取り出そうとポケットに手を突っ込んだと同時に腕に衝撃が走った。

「何やってるんだ! フラフラと動き回ったら危険だぞ! 君は自分が置かれている状況がわかっているのか?」

 ミサキが驚いて振り返ると見覚えのない男が神妙な顔をしてミサキの腕を掴んでいる。見た感じ三十歳前後といったところだろうか。無精髭を生やし、少しヨレが目立つブラウン色の薄手のジャケットを羽織り、背中には黒のリュックを背負っている。

「ちょっ、ちょっとなによ、誰? 離してよ!」ミサキは掴まれた手を振り払おうとするが、男は手を離そうとしない。

「何言ってるんだ君は? しまった、もう一時間経ってしまったのか! ちょっと待って」男は顔をしかめるとジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し、ミサキの目の前に突き出した。

「ほら、これを見てくれ。僕と君が一緒に写ってるだろ? 君の記憶が一時間ごとに消えるってことは聞いていたから写真を撮っといたんだ。安心してくれ、僕は味方だ」

 ミサキはスマートフォンの画面を覗き込んだ。そこには確かにミサキと男がはっきりと写っている。ただ写真が若干下からのアングルだったのが気に入らなかったが。

「……あなた、誰なの? 私の味方ってどういうこと?」

「また説明しなきゃダメか。まぁ、いいだろう。ここは人目につく。歩きながら教えるよ」男はミサキから手をそっと離すと小さく頷き足早に歩き出した。ミサキも遅れないように後ろをついて行く。

 ミサキはアヒルの雛のように男に離れまいとぴったり後ろを歩きながら周囲を警戒する。いつあの二人組が現れるかわからない。奴らは人が大勢いてもお構いなしに襲ってくる。

「痛ぁっ!」前触れなく強烈な頭痛がミサキを襲った。両手で頭を抱えその場にしゃがみ込む。痛みと同時に短い映像がまぶたの裏側に見える。

「大丈夫か? 例の頭痛か? 映像は何か見えたか?」男が駆け寄りミサキの顔を覗き込む。

「……ええ。痛みが引いて来たわ。大丈夫」ミサキはこめかみの辺りをトントンと叩いた。

「これを使うといい。ひどい汗だ」

「ありがとう。……この頭痛のことも私から聞いていたの? それからその、ヴィジョンのことも」ミサキは差し出されたハンカチを受け取り額の汗を拭った。

「聞いたよ。君が一時間前の記憶を失った後に頭痛が起こるって。それと同時に一時間先の映像がほんの一瞬だけ見えるっていうじゃないか。しかし、すごいよな。だってほんの少し先とは言え、君には未来が見えるんだぜ?」

「本当に話していたのね、私は。でもそんないいもんじゃないわよ。別に見たいものが見れるってわけじゃないんだから。はぁ、せめて馬の順位でも分かったらねえ……。見えたのは白いバンに乗っている映像よ。運転手の顔は見えなかったけど少なくとも危ない状況ではないみたい」

「なるほど、ヒッチハイクってわけか。どこか遠くに向かっているのかな……。よし、ひとまず人通りの少ないところへ行こう。立てるかい?」男はミサキの手を掴むとぐいっと引っ張り立ち上がるのをサポートした。

 二人は周囲を警戒しながら再び歩き出した。ミサキの住む街の中で一番人通りの多い交差点で例の二人組が近くにいても気がつきにくい。道路を挟んだ向こうのビルの街頭ビジョンにはいつもと大して代わり映えのしないニュースが流れている。

「市川だ」ミサキの前を歩いている男がまっすぐ前を向いたまま唐突に言った。

「はい?」

「名前だよ、僕の。市川ソウジ。まあ、好きに呼んでくれ」ソウジは顔をわずかに後ろに受けると左手をひらめかせた。

「はあ、市川さん……。私は」

「ああ、さっき聞いたよ。駒形ミサキ君だろ?」ソウジがミサキの言葉を遮り先回りして言った。

「そう……。それじゃあ、私が今どういう事になっているかも全部知っているわけ?」そう尋ねた時、ソウジは立ち止まって振り返るとミサキの顔をじっと見つめた。

「聞いたよ。君が覚えている限りのことはね。理由はわからないが、二人組の男に命を狙われているそうじゃないか。それも尋常じゃなく危ないやつらに」

「あっ、そうだ警察! 警察に行かなきゃ!」

「それはやめたほうがいい。君はつい一時間前に警察で奴らに襲われたんだぞ? それに警官もまともに取り合ってくれなかったっていうし」

「そんな……。もう何がなんだか……。あの二人、ひょっとしたらヤクザとかマフィアの人間なのかも。でもどうして私を狙うんだろう……。ああ、もう! 全然わかんない!」ミサキはグシャグシャと頭を掻く。美しく長い黒髪が台無しだ。考えようとするが過度のストレスと特殊な記憶喪失のせいかうまく頭が回らない。

「落ち着きなよ。その二人組のことは大体わかっている」

「えっ?」ミサキはピタリと手を止めソウジの顔を見た。

「そいつらはヤクザでもマフィアでもない。【始まりの園】っていう組織の一員さ。新興宗教団体らしいが、はっきり言ってカルト教団だな。本名はわからないが、例の二人組は【鶴】と【亀】なんて呼ばれている。コードネームみたいなもんだろうな。なにせそいつらは組織の汚れ仕事を担当しているらしいから。つまり暗殺だよ」

「暗殺って、……まさか私を?」ミサキの顔が凍りつく。暗殺だなんて、そんなもの映画やドラマの中での話だけだと思っていた。

「他に誰がいるんだよ。どうも始まりの園は君の何かを欲しがっているみたいだ。心あたりはあるかい?」

「持ってるわけないでしょ! そんな命を狙われるものなんて!」ミサキはムッとしてソウジを睨みつけた。

「持ち物じゃなくてもいい。君だけが知っているようなデータとか。写真、映像、個人情報……」

「データって言われても……」ミサキは腕を組むと顎に手を置き考え込む。

「君の勤め先の企業の極秘データや、研究データとか……。とにかく普通じゃ絶対に手に入らないものだな」ソウジの口から出た研究という単語にミサキの眉がピクリと動いた。

「研究……」

「ん、心当たりあるかい?」

「……ないわ」ミサキは短く答えるとソウジの顔をまっすぐ見つめた。

「う〜ん。そう、か。ひょっとすると君が無意識のうちに知っていることや物なのかもしれないな」そういうとソウジはクルリと前に向き直った。

「ひとつ聞いていい? あなたはどうしてあの二人組のことを知っているの? カルト教団とか、【鶴】と【亀】だとか。ひょっとして刑事か何か?」

「いや、違う。ただの一般人さ。調べたんだよ」

「調べた、ってそんな簡単に……」ミサキは眉間にしわを寄せた。ネットでおしゃれなカフェを探すのとはわけが違う。ちょっとやそっと調べたくらいでそんな情報が出てくるわけがない。

「もちろん簡単じゃなかったよ。随分長いことかかった。ヤクザ・マフィアはもちろん、いろんな反社会組織をしらみつぶしに探ったよ。何年も何年もかけてね。危ない橋もいくつも渡ったし、金もだいぶ使った」

「はあ? ちょっと待って、あなた何言ってるの? これは今日、数時間前に起きたことなのよ。しかもあなたとあったのは一時間前ぐらいなんでしょ? 一体どこにそんな時間があるっていうの?」ミサキは怪訝な表情でソウジの背中を見た。言っている意味がよく理解できない。

「……これもまた言わなきゃならないのか。いいかい、僕は知っていたんだよ。十年も前から。今日何が起きるのかということが」

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