第3話
ミサキの眼前に急に現れたのは光ひとつ見えない完全な闇だった。
自分が目を開けているのか閉じているのかもよくわからず、声を出そうにもうまく口が開かない。その場から離れようとするが体が何かにつっかえて身動きができない。それにさっきから樹脂のような異臭が充満している。
ミサキは得体の知れない恐怖に襲われ、足は痙攣したように震え、自然と涙が湧き出てくる。
次第に呼吸が荒く激しくなり、意識が朦朧として来た時、頭に刺すような痛みが走る。反射的に頭を下げると冷たい壁のようなものにぶつかった。
激しい痛みが頭の中を弄ぶ中、ヴィジョンがチラチラと見える。交番に駆け込み、若い警官にすがりついているようだ。警官は驚いた様子で無線でどこかに連絡を取ろうとしている。
痛みが引いていくと同時に、ミサキは冷静さを取り戻していた。目を閉じて鼻から深く空気を吸い、ゆっくりと出す。完全に鼓動のリズムが正常になると再び目を開いた。
まずは自分が今どういう状況に置かれているか確認しなければ。ミサキは四方を見渡してみるがやはりどこもかしこも真っ暗で、身動きが取れないのはどうやら狭いところに押し込められているようだった。
ミサキは自分の尻と壁の間に挟まれている両手を前に持ってきて周囲をペタペタと探ってみる。つるりと滑らかで冷んやりとしており、それが鉄板でできているということはすぐに理解できた。
四方が鉄板でできている、ということは自分は今ロッカーにいるのではと思い、ミサキは目の前の壁をゆっくりと押してみる。すると鉄が軋む音と共に右上の角からわずかばかりの光が差し込んできた。すっかり暗闇に慣れたミサキにとっては眩しいくらいだった。
やはり目の前の壁は扉で間違いあるまい。ミサキは安堵のため息をつこうとした時、自分の口元を粘着力の強いテープがべったりと貼られているのに初めて気がついた。ミサキは眉間にしわを寄せながらテープをゆっくりと剥がし足元に捨てると、解放された口を大きく開け目一杯空気を吸い込んだ。肺に飛び込んできた酸素がミサキの脳をどんどんクリアにしていく。
再び目の前の扉にぐいっと押し開き、一歩外に出た時、ミサキの動きがピタリと止まった。
そこはどこかの小さなオフィスらしく、数台の事務机やコピー機、キャビネットなどが置かれていたが、泥棒にでも入れたかのように荒らされていた。書類は散乱し、オフィスチェアはひっくり返り、ブラインドカーテンは片方のコードが切れてブラブラと力なく揺れている。だが何よりミサキの目を引いたのは正面の壁に描かれた落書きだった。
それは真っ白な壁にでかでかと口紅で書かれた『マーズ 7ー8ー12』という文字。
ミサキは瞬時にその意味を理解すると慌ててロッカーの中に戻った。
『マーズ 7ー8ー12』と言えば5年前の十月、ミサキが菊花賞で購入した馬券の番号だった。ミサキが目をつけていた馬の【マーズサイレンサー】はゲートが開いても微動だにせず、おかげで大枚をつぎ込んだ馬券が紙くずになってしまった。
つまり、壁の落書きはミサキ本人が書き残したもので、【マーズサイレンサー】のようにそこから動くなという過去の自分からのメッセージに違いない。
ミサキが乾燥した喉に無理やり唾を流し込んだ時、人の気配を感じた。数人の話し声と足音が徐々に近づいてくる。そして事務所の扉が開く音が聞こえ、ミサキの体がビクリと小さく跳ねた。
「うわっ、何だこりゃあ! めちゃくちゃじゃないか!」間の抜けた中年男の声が聞こえた。
「……どういうことでしょう? 誰もいないじゃないですか。彼女は一体どこです?」その丁寧ながらも機械的な声にミサキは鳥肌がたった。あいつらだ。
「あ、いえ、ついさっきまでは絶対にここにいたはずなんです! ……あぁっ、窓が!」
「逃げられましたか」
「そんな……! ここは二階なのに……」
「そんなことは関係ないですよ。これは明らかにあなたのミスだ」
「すいませんっ! 次は二度とこんなことがないよう必ず……」
「次はね、ないんですよ。今回の件に絶対に失敗は許されないんです。絶対に」
「お願いします! どうか、どうか!」
「そんな顔をしないで。これからあなたは神と面会できるんですよ? とても素晴らしいことじゃないですか」
「そんなっ! ちょっと待って……」
「あぁっ! 素晴らしい! 今あなたの魂がどんどん清められているのが分かりますか? なんて美しい光景なんでしょう!」男が興奮した口調で手を叩いている。それに混じってうめき声が途切れ途切れに聞こえた。
やがて外が静かになったかと思うと、何かが床に叩きつけられる音が聞こえた。ミサキの心臓はかつてないほど暴れている。顔がジンジンするほど熱く、噴き出す汗が目に流れ込んでくる。
「この壁の落書きの意味は?」
「よく分かりませんが我々へのメッセージというわけじゃないでしょう。仲間への伝言か何か、もしくは自分への……」その言葉を聞いた時、ミサキは思わず声が出そうになった。ひょっとしたらここに隠れているのがバレたのか。ミサキは自分の拳をぎゅうっと噛み、ロッカーから飛び出したくなる衝動を必死に抑え込んだ。
「自分? どういうことですか?」
「いえ、忘れてください。それよりも彼女を探しましょう。そこまで遠くには行ってないでしょうから」
「これはどうします?」
「どうもしませんよ。こんなものに構っている暇はありません。さあ、行きましょう」
扉がバタンと閉まる音の後に徐々に遠ざかっていく足音を聞きながら、ミサキは肺に溜まった熱い空気をゆっくりゆっくりと鼻から抜いた。ミサキは固まったまま動くことができなかった。
物音が聞こえなくなってどれくらい経っただろうか。ミサキは意を決してロッカーの扉を恐々と開けた。
ミサキの目に飛び込んできたのは、おびただしい量の血がそこら中に飛び散ったおぞましい光景だった。床には小太りの中年男が体はうつ伏せに、頭は天井を見つめた状態で倒れており、その表情は苦悶の色を浮かべたまま固まっている。
胸の底がひりつくのを感じるとミサキは我慢できずその場で嘔吐した。
涙目になりながらフラフラと背中をロッカーにくっつけて大きく息を吐いた。
「どうして、どうしてこんな簡単に人が殺せるのよ……」
ミサキは汚れた口元を拭おうとジャケットの右ポケットに手を突っ込んだ。ポケットの中でハンカチとクシャっとした紙切れを掴んだ感触がした。ミサキはすぐにメモの切れっ端だとわかった。
『これを読んだらすぐに逃げろ』
メモには相変わらず書きなぐった字で書いてある。言われなくてもこんな所いつまでも居たくない。
「そうよ警察、警察に行かなきゃ……」
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