第2話

 胸が締め付けられるように苦しい。吐く息が酸っぱい。足の裏がズキズキと痛む。

 気づくとミサキは走っていた。ジョギングのような軽いものではなく、陸上競技のように街中を全力で疾駆している。ショルダーバッグをタスキのように下げており、ミサキの走りに合わせてパタパタと尻を叩いている。

「えっ? あれ、何……? なんで私……」うまく状況が把握できないミサキだったが、走るのをやめなかった。理由は一切わからないのだが、何か得体の知れない恐怖が体の内側にべったりとこびりついている。

 しかし、疲労には勝てず、徐々に走る速度を落としつつ辺りを見渡してみる。街の様子や行き交う人たちは特に変わった様子もない。ミサキは少し安心してやや早足で歩き出した。

 心臓が激しく鼓動している音が耳元でこだまする。ミサキは肩を大きく揺らしながら肺に空気を送り込む。額からは汗が噴き出し鼻のそばを通って滴り落ちる。

「ええっ! ウソ、ちょっと何これ! 何があったの?」ミサキはバッグからメモ帳を取り出そうと視線を下に向けると思わずギョッとして立ち止まった。

 ミサキの着ている黒のジャケットは獣に襲われたかのように大きく破れ、穴が空いている。デニムは土埃で真っ白になっており、足は裸足で二つのハイヒールはミサキの左右の手に片方ずつ握られていた。

 恐る恐るバッグに手を突っ込み、震える手でゆっくりとメモを取り出す。

『止まるな、走り続けろ、地下鉄に乗れ!』

 書きなぐった文字だが、それは明らかにミサキ本人の字だった。途端に心臓の音がより一層大きくなる。カラカラにへばりついた喉に唾をゴクリと流し込む。

 とにかく地下鉄に向かおうと顔を上げた瞬間、後方から耳をつんざくような悲鳴と何かがぶつかったような鈍い音が聞こえた。

 ギクリとして振り返ると曲がり角からシルバーのワゴン車が乱暴に姿を見せた。フロント部分は所々凹んでおり、飛び散った血のようなものがこびりついている。運転席と助手席には白いポロシャツを着た二人の人影が見える。

 ワゴン車は強引に歩道に侵入し、店の看板や通行人を次々と跳ね上げながらまっすぐミサキに突進してくる。だがミサキはその場に立ち尽くしたまま動くことができなかった。あまりに現実離れした光景に怖いという感情が湧かない。夢でも見ているのかとさえ思えた。

 暴走車がミサキの目前まで迫った時、運転席に座る男の姿が見えた。どこにでもいるような中年の男で薄めの髪には白髪が混じっている。

 ミサキが一番ゾッとしたのはその男が満面の笑みを浮かべているということだった。恵比寿様のような幸せそうな顔の中で目だけは冷酷な光を発していた。その目には人間の温かみというものが一切感じられない。柔らかい笑顔がその冷たさを一層際立たせている。

 中年男と目があった瞬間、ミサキは反射的に横に飛んだ。恐怖を通り越し、生命の危機であるというシグナルが身体中を駆け巡り、間一髪でミサキに回避行動を取らせた。中年男がそれほどまでに危険だという情報がミサキの体に刻み込まれている。

 ワゴン車はミサキのすぐそばを通り、ブランドショップのショーウィンドウに盛大にぶつかった。大きな衝撃音が響き渡り、あたり一面にガラス片やらマネキンの手足が舞い散る。

 ミサキは尻餅をついた格好で呆然とワゴン車の後ろ姿を見つめた。車はさっきまでの暴走が嘘のように静かに停車している。

「死んじゃった……かな?」ミサキが荒っぽく呼吸をしながらじっと様子を伺っていると突然ワゴン車のブレーキランプが点灯した。

「うそぉっ! 勘弁してよ、もう!」ミサキは慌てて起き上がると裸足のまま駆け出した。数十メートル先には地下鉄の入り口が見えている。

「そうだ! 地下鉄……! 地下鉄に乗らなきゃ!」ミサキは先ほど見たメモを思い出した。走りながらチラリと後ろを見てみるとすでにワゴン車はバックを終え、まっすぐミサキを捉えている。運転席の中年男は力強くハンドルを握りしめ、助手席には坊主頭の大男が座っている。坊主頭の男も喜色満面に溢れており、額からはわずかばかり血が流れているが気にする様子は一切ない。

 中年男はアクセルを踏み込み、猛スピードで発進させた。バックミラーからぶら下がっているツリー型のカーフレッシュナーが激しく揺れている。

 車とミサキとの距離はみるみる縮まっていく。地下鉄入口の階段までは十メートル以上あるが、ミサキのすぐ真後ろで猛り狂ったようなエンジンの音が聞こえている。振り返ることもせず息を弾ませながら走る。目には涙が溜まり視界が滲んでいるが手で拭う余裕すらなかった。

 ミサキの息遣いが聞こえるぐらいまで迫ると中年男がアクセルペダルを限界まで踏みつけた。

 突然車の下からバンという衝撃が走った。車体がガクガクと揺れ、ハンドルを取られる。さきほどぶちまけたショーウィンドウのガラス片のせいで左前輪がパンクしていた。

 ワゴン車は大きく左に流れ、サイドミラーがミサキの背中をかすめる。ハンドルを切り元のコースに戻った時には既にミサキは地下鉄の階段を下りだしていた。

 仕留め損なった中年男は笑顔のまま冷たい目でミサキの背中を刺すようにじっと見つめた。

 助手席に座った坊主の男が促すように坊主頭の男の腕をポンと叩く。二人は素早く車から降り、ミサキの後を追って地下鉄の階段を下っていく。

 地下鉄構内は大勢の人で溢れていた。その中でたった一人の人間を見つけることはプールに落ちたビー玉を探すのに等しい。しかし、二人の男は周囲をざっと見渡しただけでミサキの姿を見つけだした。

 二人は両手を地面につけると陸上選手のようにクラウチングスタートのポーズをとった。腰を浮かせて互いの顔を見合わせると猛スピードでミサキ目がけで駆け出した。

 周りの人間をかき分け押しのけながら進む。人混みの中だというのに進む速度は普通の人間が走るのとほとんど変わらない。二人に弾き飛ばされた人たちはぶつかり合ったり将棋倒しになったりしている。

「ちょっとあんたたち! 何やってるんだ!」二人の凶行を見た駅員が慌てて駆け寄る。

 坊主の男が駅員の顔を左手で掴むとガクガクと左右にひねった。生木の枝が折れるような音を立てて駅員の首が百八十度曲り、脳天が地面の方を向いている。掴んだ手をパッと離すと糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 周囲からざわめきが起こり、徐々に悲鳴に変わる。やがて皆狂ったように騒ぎ出し、蜘蛛の子を散らすように二人組の男たちから逃げていく。ただでさえ混雑している構内は混沌を極めた。

 構内全体に騒ぎが広がる中、ホームには定刻通り電車がやってきた。

「お願いっ、通して! ちょっと! どいて、どいてよ!」ミサキは電車の中から流れ込んでくる人間をかき分け、必死に乗り込むと隅の方で小さくなるように地べたにしゃがみこんだ。素足の裏はじんわりと血が滲んでいるが、痛みを感じている余裕は今のミサキにはなかった。

「早く閉まって……! 早く! 早く!」他の乗客からの冷ややかな視線をよそにミサキは震えながら呪文のように呟いた。

 二人組の男が人混みから抜け出しホームに出てきたと同時に電車は閉まり、発車した。二人は表情を変えることもせず、観察するように遠ざかる電車をじっと見続けた。

「助かった……。何なのよ、さっきの二人……。意味わかんない! 一体私が何したっていうのよ!」生命の危機が遠のいたと感じると今度は怒りがこみ上げてきた。

 ミサキは呼吸を整えゆっくりと立ち上がった。すると何の前触れもなく頭に激痛が走り、再びしゃがみこむ。痛みと同時にヴィジョンが流れこんできた。交番に駆け込もうとした時、作業服を着た小太りの男に呼び止められている。男は深刻そうな面持ちでこちらに何か訴えかけているようだった。

「痛ぁ〜っ! っていうか警察! 通報しなきゃ! あんな頭がおかしい奴らが逃げちゃったら次何が起こるかわかったもんじゃないわ」二人組の凶暴な運転に巻き込まれて大勢けが人が出ている。ひょっとしたら死人も出ているかもしれない。だがバッグの中をいくら引っ掻き回してみてもスマートフォンの姿はどこにもなかった。

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