一時間女

石丸砲丸

第1話

 黒い稲妻のようなひび割れが無数に入った倒壊寸前のアパートの三階、その一番奥にある部屋の窓からカーテンの隙間を抜けて青白い光がチラチラと溢れていた。その部屋の真ん中には男がポツンと座り、ただ黙って食い入るようにしてテレビを見つめている。

 型遅れのテレビと部屋の片隅に几帳面に畳まれた布団以外家具らしい家具はなにもない。その代わりに日に焼けた五十音表や日本地図などのポスターが壁中に貼ってある。

 画面に映し出されているのは朝の情報番組で、女子アナウンサーが屋外で今日の天気を予報している。

「白いシャツに、グリーンのスカート……」男が女子アナウンサーをじっと見つめたままポツリとつぶやいた。

「そしてこのすぐ後に火事……」そうつぶやいた瞬間、画面が急に揺れ、遠くのビル群を映し出した。ビルの合間からはどす黒い煙が立ち上っており、アナウンサーやスタジオにいる出演者たちは大騒ぎをしている。

「間違いない。今日だ、今日こそ俺はあの女と出会うのか……!」


 ついこの間までのうだるような暑さが嘘のように涼しくなった午前九時、駒形ミサキは街を颯爽と歩いていた。

 体のラインがくっきりと出るタイトなデニムパンツに黒のジャケットを見事に着こなし、カツカツカツとハイヒールの軽快な音を鳴らしながら人の群れをスイスイと躱す。風に撫でられ長い髪が優雅に舞う。持って生まれた美貌も相まってさながらモデルのようだ。

 時計の針が九時五分を指した時、電池が切れたラジコンカーのようにピタリと足が止まる。後ろを歩いていたサラリーマン風の男が危うくぶつかりそうになる。怪訝そうな顔でミサキを一瞥し通りすぎていく通行人をよそにミサキは大きな目を瞬かせながらキョロキョロと辺りを見渡した。

「ええ、ウソ。またぁ? 勘弁してよ、本当に。いつになったら治るのよ……」ミサキは鬱陶しそうに呟きながら道の端っこにそそくさと寄ると肩にかけていたバッグの中をかき回し一冊のメモ帳を取り出した。

「えっと……、『十時半にシゲさんたちと競艇』……。そっか、さっき連絡があったんだわ。そういえば今日のメインレースは外せないって言ってたっけ」ミサキはスマートフォンを取り出し、通話履歴画面を呼び出した。画面には三十分ほど前に競艇仲間であるシゲさんからの着信履歴が残っていた。

 スマートフォンをバッグに戻そうとした時、着信音が流れた。再び画面に目を移すとミサキの勤める研究所の所長からだった。

「はい。駒形です」

『おお、駒形君。石動だ。どうだ? 休暇は。羽を伸ばせているかね?』石動所長は明るい声でミサキに尋ねた。お茶でも飲んでいるのか何かを啜るような音が聞こえる。

「ええ、おかげさまで。気を遣っていただいてありがとうございます」

『いやいや。君には迷惑をかけたんだから休暇ぐらい当然だ。……それでどうかな? その後は?』

「いいえ……。残念ながら。相変わらずです」

『消えるかね? 一時間前の記憶は?』

 所長が声のトーンを抑える。ミサキは少し間を空けて答えた。

「ええ、消えます。つい先ほども消えてしまいました。時間も九時を五分過ぎた時です。今は九時五分から八時五分までの記憶が綺麗さっぱりありません」

『そうか……。なかなか君のような症例がないからねえ。その、ぴったり一時間前の記憶だけがなくなるというのは』

「どうせまた十時五分になったら今の記憶も消えるんでしょうね。まぁ、その時になれば今から一時間前の記憶は蘇るんでしょうが」ミサキは半ば投げやりに答えた。

 ミサキの奇妙な超限定的な記憶喪失は一ヶ月ほど前に突然発症した。一時間前の記憶だけが綺麗さっぱり欠如する。気がつけば自分がまったく身に覚えのない場所にいたり、突然誰かと談笑しているといったことが毎時間ごとに起こっていた。そのため、記憶がなくなる時間が近づいてくると自分が何をやっていたのか分かるようにメモを書く癖をつけていた。

『よし、こちらも解決法を何としても探しておくよ。それがわかるまで君はゆっくりしなさい。あまり悲観的になるのは良くないぞ?』

「お気持ちは大変嬉しいのですが、その、研究に遅れが生じるのではありませんか?」ミサキは周囲を伺いながら声のボリュームを少しだけ下げた。

『やむをえんさ。職員の方が何より大事だ。それにこうなったのも私の責任だからね』

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えてしばらくお休みをいただきます」

『うんうん、それがいい。ここのところ君は仕事漬けだったしな。だがギャンブルの方はほどほどにしないといかんぞ?』石動は嬉々とした声で釘を刺す。

「えっ! あ、は、はい。気をつけます……。それでは失礼します」ミサキは上ずった声を出しつつも通話を終了させると小さく吐息を漏らした。

 顔を上げるとタクシーでも拾おうかと道路側に向かって一歩踏み出した時、ナイフで突き刺したかのような激痛が頭に走った。

「痛っ!」ミサキは反射的に頭を抑えた。身体中からじんわりと脂汗が滲む。

 ミサキは身をひねり道路に背を向けると、肩から下げたショルダーバッグのストラップをギュウッと握り締め、ただじっと痛みに耐える。

 痛みと同時に頭の中にヴィジョンが流れた。まるでチューニングがうまく合っていないラジオのようにノイズ混じりにミサキ視点の映像が見える。

 その映像は地下鉄に乗りしきりに辺りの様子を伺ったり自分のバックの中を必死に漁っている。ヴィジョンは素人が撮影したビデオのようにひどく揺れていた。

 ヴィジョンは十秒ほどで見えなくなり、同時に頭痛も嘘のように消えた。

「はあ……。こっちの症状も相変わらずか……。やっぱり家で大人しくしとけば良かったかなあ」ミサキは息を整えると再び道路の方に歩き出した。

「でもどうして地下鉄? ここからボートレース場だったらタクシーに乗ったらすぐなのに……」ミサキはちょうど通りかかったタクシーを右手を上げて止める。

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