鬼桜

もげ

鬼桜

 夜桜が暗闇の中で薄ぼんやりと光っている。

 耶式やしきは身じろぎするたびに枷によって擦れる手首足首に忌々しさを覚えながら、その風景を格子窓越しに見つめていた。


 満開の桜は、容赦なく吹きすさぶ春の風に惜しげもなくその花びらを散らせていた。

 今宵夜が明ければもはや枝だけとなることは想像に難くない。

 潔いことだ。耶式は思わずくつくつと笑いを洩らす。

 自分はこの桜と共に散るのだ。共に逝ってくれるものがこんなに美しいものだとは皮肉だ。だが、それはせめてもの慰めでもあった。


 幼いころより『化け物』と呼ばれることには慣れているつもりであった。

 老人のように真っ白な髪、青白い肌に血のように赤い目。生まれてからこのかた鬼の子と忌み嫌われ、蔵の中で半生を過ごしてきた。

 由緒正しき神条家に鬼の子が生まれたとあれば家名に関わる。それでも生まれてすぐに息の根を止めなかったのは少しでも愛情があったからなのだろうか?


 だが蔵の中は暗く、寒く、そして淋しかった。

 2年後に生まれた黒い瞳の朝基あさきへと注がれる親の溢れんばかりの愛情を見るにつけ、耶式の胸は荒縄で締め上げたように苦しみを訴えた。

 幼いころは蔵の床に敷き詰められた藁を毎夜涙で濡らしたものであった。


 しかしいつしか涙も枯れ、体の成長と共に胸の中にある何かも硬く動じぬものへと変わった。

 我が身の醜さは己の陋劣ろうれつたる心を表したものにすぎないと悟ったからだ。

 自分は醜悪な化け物だ。

 その証拠に、血を分けた弟が憎い。両親が憎い。この美しい世の中すべてが憎かった。

 憎しみが胸の中で黒い靄となり、目の、髪の、黒さを吸い上げてこのような姿にしたのに違いない。いつしかその靄は登頂より吹き出でて、黒い角となるのだろう。

 そうなる前に、まだかろうじて人であるうちに、死ねるならば本望かもしれないと耶式は思った。


 ただ一つ、心残りはあった。

 唯一彼に手を差し伸べたあの少女。名は……忘れもしない。『桐山きりやま 千夜ちよ』殿。

「ありがとう」と耶式に向かって微笑んだ、唯一の女性。


 彼女は目が見えなかった。だから耶式の異形には気付かなかった。ただそれだけのこと。

 だが、彼には人生において初めてのことであった。

 微笑みを向け、謝意を告げ、手を伸ばして頬に触れた暖かい手。

 不覚にも涙がこぼれた。初めて自分の存在をまっすぐ見つめてくれた見えない目。


「泣いているの、なぜ」頬の涙に触れ、不思議そうに首を傾げる彼女。

 とっさに身を引いて、耶式は何も言わずに走って逃げた。

 声を出せばばれてしまうかもしれない。自分は噂に名高い鬼なのだと。それだけは耐えられなかった。


「待って」彼女の声が追いすがって、思わず足を止めてしまう。

「せめてお名前を。私は桐山千夜と申します。命を助けていただいてお礼をせぬわけにはいきません……」

 命の恩人など。ただ、弱い者を力ずくで組み敷こうとする愚かな人間が許せなかっただけだ。だが、彼女のまっすぐな瞳に、自分の存在を伝えたいという誘惑に駆られた。

「私は……神条……」言いかけて、はっと思いとどまる。

 伝えてどうするつもりだ。彼女はその名を聞いてどうすると思う?家に帰ってその名を家主に伝えるに違いない。ぜひその名のものを探してお礼を、と。

 何のために自分は名を、姿を隠して息をひそめて生きているのか?神条家の家名に泥を塗ったとあれば、今までの情けも泡と消えるだろう。自分は存在してはならない存在なのだ。

「神条様でございますか?」

 彼女の手がまたこちらへと伸びる。耶式は首を振ってその手を逃れる。

 苦悩の末に一言、「朝基と申す」と言い逃れた。

 とっさに弟の名を語り、久々に引き裂かれるほど胸が痛んだ。

「神条……朝基様。確かに覚えました。そのうち必ず礼を遣わしましょう。親切なお方」

 名など語らなければ良かった。そうすればただの通りすがりで済んだのに。

 後悔の波に押し流されそうになりながら、せめてと頭上に差し出た大桜の小枝を折って、彼女の流れる黒髪にそっと挿した。

「礼には及ばぬ。花見の邪魔を払っただけのこと」

「花……桜でございますね。話によればこの世ならざる美しさだと聞きます。さぞや美しいのでしょうね」

「だがそなたの美しさにはかなうまい」

 思わず口をついて出た言葉に自分でも驚いた。

 彼女がぽかんと口を開け、みるみるうちに頬に血が上った。

 気まずくなって彼女の肩を押しやると、早く帰れとせきたてた。



 彼女が朝基と結婚すると知ったのはそれから三月もの月日が流れてからだった。

 見合いであったという。

 どちらも名のある家であったから、あり得る話ではあった。

 だが、彼女が乗り気になったのはもしかしたら自分が弟の名を語ったからではなかったかと思わずにはいられなかった。

 訳もわからぬ澱のようなものが胸中を支配した。

 頭を戸板に打ち付け、獣のように唸り声を洩らした。彼は気付いていなかった。彼は千夜を愛していた。

 こんなことならば愚直に名を名乗っておればよかった。家がどうなろうと知ったことではなかったはずだ。家が彼を守ったことは一度もなかったのだから。

 夜に蔵を抜け出し、五分咲きの大桜の下へと走った。彼女と出会った場所だ。

 刀を抜いて桜の枝に切りつけた。花びらがぱっと散って顔面に降り注ぐ。こんな桜の木など無くなってしまえばいいと思った。美しさが目に毒だった。

 訳が分らぬ言葉を喚きながらひたすらに刀を振るっていると、急に背中に衝撃が走った。

「兄上」

 振り返ると、馬上で弓を構える弟がいた。

「夜桜に狂ったか」

 目に、赤い染みが広がっていく。ぎりりと奥歯が音を立てた。それと気づかず右手が弟へと向かう。

 確かに見た。弟の口が『鬼』と動くのを。

「三月前、千夜がここで強姦に襲われたという。彼女は目が見えぬ。犯人の顔は見えなかったはずだが、よもや兄上……」

 今度こそ、登頂より角が生え出でるのが分かった。

 きっと今、自分の口には牙が生え、鋭い爪が伸び、鬼の形相になっているのに違いない。

 人語は口をついては出ず、ただ喚き声をあげて耶式は弟に切りかかった。

 だが、弟は弓の名手であり、相手は馬に乗っていた。

 もう一本の矢は右足を貫き、耶式は無様に桜の木の下へ転がった。


 もはや弁解など、するのも億劫だった。

 耶式は蔵の中で散りゆく桜をただ眺めた。明日になれば自分は鬼としてさらし首になるのだろう。鬼の首を取った弟は、押しも押されもせぬ名武将となる。そんな英雄の妻となるなら千夜も幸せであろう。

 白無垢の千夜が夜桜の下を通る様を思って、耶式は目を閉じた。

 せめて自分はあの桜になって、彼女を見守り続けたいと思った。

 

 その後その桜は鬼桜と呼ばれるようになる。

 白い桜に血のように赤い花が混じるからだ。それは昔居たという鬼の姿に似ていた。

(おわり)

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鬼桜 もげ @moge_

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