こうしてわたしたちは永遠に至った

犬井作

神は少女たちに祝福の永遠を与え給うた

 ユアはアラームの音で目を覚ました。

 真っ暗な部屋だった。ユアは起き上がると、ぐっと伸びをした。ベルの音がけたたましく響いていた。コンクリートの床に積もった埃が震えている。ユアは目覚まし時計を叩いた。軽くだったが、ベルがその拍子にもげた。地面に落ちて、硬い音を立てる。五年も使ったものだった。錆びていた。仕方なかった。

 ユアは気にも留めず、ベッドを降りた。身に纏っていた薄いシーツが床に落ちて、白い肌が顕わになる。

ユアは裸だった。この世のものではありえない美しさだった。

 均整の取れた肉体は雑誌の表紙を飾るモデルのように気品のある、下卑た色気とは無縁の美を表現している。細い腰に手を当てて、ぐっと背中をそらすと、形の良い乳房が左右に流れる。その感覚がうざったいらしい。ユアは脱ぎ散らかしていた下着を拾う。今日はベッドの後ろ脚あたりにあった。

 レースがふんだんのシースルーの下着は、確かにユアが纏うと白い肌が黒いレースとコントラストになって様にはなったが、相応しくなかった。局部を顕わにするOバックのショーツと乳頭しか隠せない薄い布きれが縫われたブラジャー。ユアが唯一持っていた衣服がそれだった。

 こんなこの世の果てでは、それ以外望むべくもないのだが。

 ユアは気だるそうに息を吐く。薄く空いた唇の間から、鋭く伸びた犬歯が見えた。唇を閉じても、先端が見えそうなほど長い。

 物憂げに伏せられていたユアの目が開いて、部屋の奥に向けられる。そこに冷蔵庫があった。ユアは部屋の中央にある手術台を避けながら、冷蔵庫の前に立つ。

 業務用のもので、大きい。ユアは重たい扉に手をかけるとぐっと引いた。扉は軽々と開いた。ユアは力持ちだった。

 冷蔵庫の内部電灯が点いて、真っ暗だった部屋に光が差す。照らされた床はえぐれていたり、血飛沫が飛んでいた。

「ルリ……今日も綺麗よ」

 うっとりした様子でユアは腕を伸ばす。指先が頬に触れる。ユアの目は、冷蔵庫の中で、磔にされた女に向けられている。

 それは手首と両足首を鎖で繋がれていた。力の抜けた手足は肌がささくれだっていて、指は爪が剥がれかけていた。手入れのされていない長い黒髪を垂らして、目と口を半開きにしたまま、ユアに肌を撫でられるがまま、反応しない。

「いま起こしてあげるからね」

 ユアは両手を伸ばす。それの脇の下に腕を通し、十字架をぐっと持ち上げる。ユアは壊れ物を扱うように、それをそっと抱いた。

 足を後ろに引くと、もつれて、よろめいた。ユアは咄嗟に十字架をかばった。肩から床に転んだ。けたたましい音がした。

 十字架がぶつかり、金属が落ちた。ユアは悲鳴を上げた。呻きながら、そっと十字架をずらして床に下ろす。ユアは腕に刺さったメスを抜いて、立ち上がる。倒れた台を起こして、床に散らばったメスやペンチ、縫合糸などを拾って台の上に戻す。

 ユアは息を整える。疲れた様子だった。食事も満足に得られなくなって、もう三日になっていたから当然だった。

 ユアは紅い目をせわしなく動かして問題がないか確認する。床にはもう空になった輸血パックが散らばるばかりだ。大丈夫だと判断すると、今度こそ十字架を持ち上げて、頭を冷蔵庫の側に向けて手術台に横たえた。

 ユアはしばらく、その側に立ったままでいた。じっと繋がれたそれを見下ろしていた。その目からじわりと涙が溢れてきて、頬を伝った。ユアはかがむと、かろうじてまだ形を保つそれの唇に自らのやわらかい唇を重ねた。

 何秒間そうしていただろう。

 ユアはそっと口を離すと、濡れた唇を舐めて、手術台から離れ、ドアに向かう。冷蔵庫とは真反対の位置にある出入口のドア横にスイッチがあった。ユアは切り替えた。明かりがついて、部屋の全体が明らかになった。

 それはぼろぼろになった手術室だった。どこのものともしれない、打ち捨てられた病院の一室だ。手術台として使用されている木製の平らなテーブルがあり、その側に器具を並べるための台があった。台のいくつかには本や、歯型だらけになった持ち運び式の音楽プレイヤーが置いてあった。

 この場所は、ユアがその長い人生の中で得たお金を、それのためだけに投げ売って、手に入れた楽園だった。

 真新しい手術道具や鎖と、ところどころ蜘蛛が巣を作った一室は対照的で、その中央に横たえられたそれは、空間の異常性を際立たせている。ユアはそれの、生前と変わらない肉体を見て、うっとりと目を細めた。

「ルリ……」

 ユアはそれに近づくと、テーブルの上に乗ってそれの上に覆いかぶさる。額に口づけしながら、うわごとのように口を開いた。

「ルリ……今日は、いつもより量を増やすからね」

 それはただの死体だから反応を返すことはない。

「ルリが死んで、今日で一週間目だよ。あなたをこの世に留めて、もうそんなになってしまった。まだ体は残ってるけど……まだ一度も、私の名前を呼んでくれない。でも、私は奇跡を信じているの。ルリも、そうでしょう? 前例のないことだから、まだうまくいってないだけ。だから今日はね、量を増やして、もっと私に近づけてみようと思うの」

 ユアはそれの首筋に舌を這わせる。変色した肌に、二つ、穴が空いていた。

「ルリ……昨日までの量だと、まるでゾンビみたいにしかならなかったの。反応は返しても、私に答えてはくれなかった……思い出の詰まった本も、音楽も、なにもわからなくなって……でもそれは、私のせいだから。どうか自分を責めないでね。ルリ、本当にごめんね。本当は、もっと早く、こうするべきだった。生きている人間に与える量なんかじゃ、死体を眷属になんてできやしない。考えてみれば当たり前なのに……気づけば、あなたの体は、壊れそうになっていて。私、わた、し……う、うぅ……」

 ユアは胸に顔を埋めるようにして泣いた。

 そんなことないよ。

 そう言おうにも、それは口を動かさない。

「火葬される前に盗んできて、こういうことにして……怒っているかどうか、それだけでも知りたいの。再び動くあなたが見たい。それだけで嬉しかったけど、いまは声を聞きたい。だから……だから、ルリ、私を許してね」

 そう言って、ユアはそれの首筋に空いた穴に、自らの歯を突き立てた。


心臓が動く音が、内側から聞こえてくる。

 ああ、行かなくては。

 凄まじい引力で吸い寄せられる。

 抵抗する意思なんて湧くことはない。

 これはユアが呼ぶ声だから。

 わたしは激流に身を任せる。

 急激に、狭く細く押し込められるような感覚がする。

 細い管を通るスライムはきっとこんな気持ちだろうか。

 ユアが見えなくなる。

 この瞬間だけが、いつも怖い。

 ぱちぱちぱち、っと、頭の中で火花が弾ける。光が見える。

「……リ……ルリ……」

 声が聞こえる。ユアの声だ。

 わたしは、固くなった体に、力を込める。

 感覚が鈍い。

 だけど、瞼は、ゆっくり開いた。

 光が、見える

「ルリ!」

「  」

 声を発した。

 つもりだった。

 けれど聞こえてきたのは、おぞましい、音。意味を示さない、不調和な、ただの音だった。。

音は本来自らを表現する。美しかろうと醜かろうと、音は音であるだけで、そのかたちを示すものだ。ガラスを引っかく音や地鳴り、そういった自然が発する音を、別の音と違えることはないだろう。歪んでいてもなお保たれる調和が本来の音にはある。しかし、聞こえてきたものはそれとはかけ離れたもの。複数の音程が一度に発せられていて、そこには何の美しさも醜さもなく、ただただ、理解できない。

 わたしは、気が狂いそうになって。

 それが自らの喉から発せられたものだと気づいて、絶望しそうになった。

「ルリ……ッ!」

 昨日より悪くなっている。

 にもかかわらず、ユアは目覚めたわたしを祝福するように抱きしめる。

 濁った視界であってもなおルリは美しかった。黄金の絹糸を束ねたような長い髪はわたしの肌の上に垂れているだろう。感覚が鈍いせいでわからないが、きっとそうだ。

 わたしはユアの名前を呼び続ける。おぞましい、生理的に嫌悪を催す、その音が、いまのわたしの声だった。

「ルリ、大丈夫だからね、こわがらないで」

 落ち着かせるようにユアはわたしの頭を撫でる。気づいていなかったが、わたしは、じたばたともがいていたらしい。がちゃがちゃと鎖がぶつかる音がしていた。

 朦朧とした記憶が蘇る。

 わたしは覚えていなくても、体は記憶していた。

 それは、わたしの体が暴れて、ルリを傷つけた記憶。

 ユアは試しに血を少なく与えてみた。わたしは目覚めたが、ほんの僅かな時間しか理性を保てなかった。理性を失ったわたしは、わたしではなくて、わたしはその間の記憶がない。肉体を抜けてから、思い出せたのは仕方ない。ゾンビのように理性を失ったわたしは暴れて、ユアだけじゃない。二人の思い出も、ぶちこわそうとしたのだ。

 後悔がとめどなく溢れてくる。泣きたい。わたしがユアを苦しめてしまった事実が蘇って、苦しくて、吐きそうになる。泣きながらルリはわたしを止めた。何度も謝りながらわたしの肩と膝を下り、さらに腕も縛ったのだ。信じてもいない神様に縋るように、どこかからとってきた十字架にわたしをつないで、奇跡を祈った。わたしはしばらくして、なにかとても冷たい感覚を味わって、全身が冷たさに包まれたあと、肉体から抜けてしまった。

 思い出せるのはそこからだった。

「ルリ、ルリ、大丈夫よ、泣かないで……」

 ユアはわたしの頭を撫でる。

 泣き止むなんてできなかった。

 昔は逆だったのに。今は、わたしが慰められていた。


 一週間前、交通事故でわたしは突然死した。わたしはユアと恋人同士で、日中動けないユアのもとに輸血パックを届けに行くところだった。運悪くトラックなんかに突っ込まれなければ、ユアが買ってくれた外国の車だったから、きっと怪我で済んでいただろうに、つくづくわたしは運がない。

 運がないからユアと出会えたとはいえ、その不幸を毎日呪っている。

 ユアと出会ったのはもうずいぶんと昔のことになる。あれは、バイト帰りの道だった。遅くまで働いていたわたしは、近道できないかと思って、普段使わない路地裏を通った。そこで、ユアの食事風景を見てしまった。それがきっかけだった。

 後から知ったがそこは軽犯罪が多発する道らしかった。道というよりは左右に建物が並んだところにある隙間というべきそこは、細く日中でも薄暗い。夜だったからスマホのライト機能を使わなかったらなにも見えなかっただろう。それを狙って、スリや強盗、はては暴行まで少なくとも週に一度は起きてしまうとのことだった。暴力団の縄張りなので警察権力も及び難いと。

 ユアはそこで、人助けをする代わりに、加害者を食べる習慣をつけていた。彼女は優れた狩人だったから音もなく歩き、素早く獲物を殺すことが出来たから、それまで人に見られたことはなかったそうだ。

 だけどわたしは、わたしを狙って後頭部にコンクリのブロックを叩きつけようとした男が、ユアに首をへし折られたことに気づいてしまった。

 ピアノをしていたから耳が良かったのだ。

 なにかを壊す音がして、振り返って、ライトを照らした。そこに、だらんと四肢を投げ出して仰向けに倒れている男がいた。首はくの字に曲がっていて、口からは血の泡を吐いていた。骨が突き出ていた。死んでいると判った。その首筋に、牙を突き立てていたのが、ユアだった。

 あの日のユアは、わたしの世界に現れた天使だった。そう思えるくらい、美しく、上品で……それでいて、寂しそうだった。

 その孤独に寄り添いたいと強く願った。それは、つまり、わたしはあの紅い目に、恋してしまったことを意味していた。

 そして、ユアも、恋してくれた。

食事を見ても怯えず、あまつさえお礼を言ったわたしを不思議がって、ユアは話をしてくれるようになった。帰り道はその路地裏を使うようになった。ちょっとずつ、仲良くなるうちに、彼女のことも知るようになった。

 ユアが生まれたのは十九世紀フランスらしい。ヴァンパイア・ハンターにイギリスに住む遠縁の親戚が殺されたことがきっかけで、様々な手を尽くしてアジアに逃げてきたそうだ。水を渡れないと言われる種族がどうやって日本に来たかはわからないそうだが、とにかく地域に根づいて、裏社会のお手伝いをするなどして生き延びてきたらしい。

 しかし、アジアは彼らにも効果を発するウイルスがいたらしくて、病気にかかって家族は少しずつ減ってしまったそうだ。

 長生きするうち、運悪く戦争で家が焼かれ、頼りにしていた日本の家族(とユアは言っていたが、おそらくヤクザ……極道? の、ことだろう)も解体され、頼るものも少なくなり、なんとか資産は家族代々使用する銀行口座に維持したものの家も、なにもかも失ってしまったらしい。

 今後を考えたら稼がないといけないからと、娼婦をやっていると、そのときのユアは話してくれて……わたしは思わず泣いてしまった。

 そうしたら、ユアも泣き始めて、ずっと一人で寂しかった。怖かった。誰ともつながることのできない孤独はなによりも耐え難いと、そう話した。

 彼女の孤独に触れ、思わず、抱きしめた。そして伝えた。あなたの孤独に寄り添いたい。永遠に。二人で生きていられたらいいのに。

 その言葉が、わたしたちのあいだにあった一線を踏み越えさせた。

 そうして恋人になり、四年を共に過ごし、大学を卒業したわたしは、ユアと一緒に暮らす算段を立てながら、卒業したと報告に行こうとして。

 その矢先、死んでしまった。

 日中動けないせいで死んだわたしを迎えに来ることも出来ず、死体が焼却される直前、ルリは助けに来てくれた。不思議と意識はずっとあった。わたしはわたしの周囲を漂う魂魄みたいなものになっていたのかもしれない。ちょっと高いところから、みんなを見渡していた。だからルリが来てくれたことはすぐわかった。

 だけど移動が早くて、どういう順序でここまで来たかは覚えていない。気づいたらわたしの体は手術台に横たえられていて、そして、ルリに牙を突き立てられ――そこで初めて、体の中で意識を取り戻した。


 神様がいるとしたら、きっと、陵辱趣味のサディストに違いない。

 聖書によれば神様は悪魔に、人間の信仰を証明するために、罪もない、善良に生きていた老人を人生の破滅に追いやったそうだ。そして死ぬ間際になっても信仰を抱き続けた人間を示し、悪魔をぎゃふんと言わせたそうだ。

 神様は、人間に優しくなんてない。

 それはきっと、吸血鬼にも。

 孤独に耐えた少女から大事なものを奪って、その少女とただ生きていたいと願った少女も奈落に落として、落ちた先にある沼地でもがくさまを、今も見ているに違いない。


「ルリ……大丈夫だよ。大丈夫、落ち着いて。…………うん。いい子だね。ルリ。そう、落ち着いて……えらいね、ルリ。

 今日は、ちょっと声が変だと思ってるよね。きっと、怖いよね。でも、大丈夫。それはね、いいことなの。昨日までは涙も出なかったでしょう? でも、今は出てる! あなたは良くなってきているの。

 あなたの声がおかしいのは細胞の増え方がおかしくなってるだけよ。事故でぐちゃぐちゃになった舌根が回復しつつある証拠!

 いつもはただゾンビ化して、細胞なんて増えなかった。細胞は生きているけど、増殖ができなくなっていた。損傷しない限り減らないけど増えもしない。かたちを維持するだけで精一杯の体だったの。だけど、今日は違う……今日は、変化が出た。

 きっとルリは気づいてないけど、いまね、ルリのお肌、キレイになってるのよ。爪も、剥がれかけてたあなたの爪も、きれいになってる。しばらくは、気が狂うほどかゆいと思う。私も再生するときは、そうだから……だけどいいことだから、我慢してほしいの。

 ルリ、聞いて。今からあなたに、私の血をもっと分ける。今よりもっと気が変になると思うけど、耐えてほしいの。私とあなたのためだから……おねがい、どうか、お願いね」

 ユアは私の首筋に牙を立てる。今度は、意識があるから、流し込まれる血液の暖かさがわかる。これがユアなのだ。わたしは、いま、ユアと溶け合おうとしてる。ユアの命がながしこまれてわたしは生まれ変わることができてだからそれはいいことにきまっている。

「                  」

 音がうるさい。

「ど、どうしよう……あ、そうだ。ルリがいつもしてくれたみたいに、お話をしてあげる。私、ルリの声聞いてたら落ち着くから……きっと、ルリも、落ち着いてくれるよね……?

 寝物語だから、難しいお話がいいかな。ルリ、難しい話するとすぐ寝ちゃったもの。

 えっと……吸血鬼が血を分けることで眷属を増やすことができる話はしたわよね? ふつうなら少量でいいのだけど、それは私たちの赤血球の細胞内に共生するウイルスに似た生物が、骨髄に寄生するから。骨髄幹細胞のすべてが最終的に、運搬されたDNA断片を組み込むことで、全身の細胞にウイルスが運搬され、すべての細胞が私たちの細胞に置き換わる……生きているときはそれがスムーズに進むけど、細胞の増殖ができないことと関係があるのか、わからないんだけど……

 けど、ルリはきっとこれを耐えたら、また」

「      ――ォ」

「……! ルリ、ルリ?」

「ア、ゲブ、ク、モヲ」

「ルリ! やった、声になった! 腐りかけてた舌の根っこが再生しているのね! ルリの声を、また聞けた……っ」

「ヴ、ガ」

「い、いまの、私? 名前を、呼んでくれたね? じゃあ……じゃあ、意識、ある! すごい、ルリ、すごい、ずっと一緒にいてくれたのね、ルリ、ルリ、ルリ、ルリ! あぁ、ぁぁっ……嬉しい、うれしいわ、ルリ……」

 ユアはわたしに抱きついて肌に触れる。冷たさが伝わる。わたしは、明瞭になってきた視界で、ユアを見ることができるように鳴っていた。

「ルリ……ああ、ルリの目だわ。濁りも消えてる。私を、見てくれているのね、ルリ。やっぱり、奇跡はあったのよ……! いま鎖を外すからね」

「ア、アア、ボ、ベ、ボベ!」

「る、ルリ? 怒らないで……? すぐ外すから……」

 首を横に振ろうとする。ダメだった。舌だけが動いた。でも声にならない。あのおぞましい音は消え去ったけど、わたしの体はまだおぞましいままなのにそれをユアに伝えることが出来ない。

 ダメ。ダメ。

 何度伝えようと思っても、ダメだった。


 ……やはり、神様がいるとしたら、きっと、陵辱趣味のサディストに違いない。

 神様は信仰を証明するためならば、ただ生きていたものを破滅に追いやれるのだ。そして、死ぬ間際になっても信仰を抱き続けるかどうかを見ているのだ。

 ユアは神様が吸血鬼を作ったのだから、吸血鬼も祝福されると家族に教えられてきた。そして素朴にもそれを信じてきた。だから奇跡を信じて、死体になったわたしが復活したときも、無邪気に喜び、うまく行かなくてもいつかきっと、と思い込んでいる。でも、それは、嘘だ、と思う。神様が与えた釣り針だ。

 だって、本当に祝福したいのならば、ユアのような美しいものから光を奪ったりなんてしないから。わたしを事故に合わせて、ユアにこの上ない悲しみを与えたりなんてしなかったから。

 寝てる間ずっとユアは泣いていたのに。神様は幸せな夢すら見せてあげなかった。

 だから神様を、呪いたいと、そう思っていた。だけどわたしは、いま、奇跡を願ってる。

 ユアが、変貌したわたしに対処し切ることを祈っている。

 本気で、神様に、奇跡を祈っている。これを信仰と呼ぶならば、私は神様に負けたのだ。

だって、わたしは、わたしの手で、ユアを殺してしまうかもしれないから。


 鎖が外れた。足首のものも、外れた。わたしは、起き上がった。わたしが嫌だと思っていても。脳が、おかしくなっている。だめだ。戻らない。なんで。意識ははっきりしているのに。あのときは忘れたのに。覚えてもいないのに今はちゃんと覚えて見えて感じているのに体だけは勝手に動いている。夢遊病みたいに、わたしは、立ち上がる。

「ルリ、……ルリ、ルリ!」

 わたしの足元にうずくまっていたユアはた立ち上がると、わたしのほうへ駆け寄って、抱きついてくる。わたしの体はユアを抱きしめ、万力のように、握りつぶさんと、力を込めて。

 きれいな首筋に噛みついた。

「っ――あ、ァああッ」

 ユアの悲鳴が聞こえて泣きそうになる。視界は歪む。泣いている。なのにわたしは、骨の固さを感じながら、それを、噛み砕く。

 突き飛ばされる。

 ユアは顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら傷口に手を添えている。ぶくぶくと膨れ上がった肌がまた元通りになる。

「ルリ――泣いてる……ってことは、わざとじゃないのね?」

 ユアは観察する。観察するユアにわたしは飛びかかる。獣のように、体の内側から熱く火照っている。発狂した犬のように歯をがちがち言わせて吠えるような音を出しながら、そのユアに肩を押さえられて、必死にジタバタ抵抗している。

「ルリ、ルリ! 返事して! あなたはそこにいるの? 私、間違えたの?」

 止まらない涙を拭うこともせず、声を震わせてユアは叫ぶ。

「ボ、ボび、ニ、ブぉ」

 呻く中なんとか声を作る。舌が回らない。頭にくる。苦しい。頭の内側から蛆がわいて血管を伝ってくるようなかゆさがある。みちみち奇妙な鳴き声を発しながら三角定規と円盤をこうらねいみあ、おめ、して。

 考えがまとまらない。だめだ。

わたしの意識もたまに混ざる。ミキサーだ。ミンチにされている。内側から。わたしが。

 どうにもできない。

 叫び出したい。叫んでいた。声じゃない。あの音。舌は舌の感覚があるのに。

「ルリ……っ」

 下唇を噛んで、血をにじませて、ユアはふらつく体を細い足で支えながら、襲いかかるわたしに抵抗する。腕を押さえる指がわたしの肌に食い込んで、増殖したわたしの細胞に絡め取られる。内部にもぐりこむユアの指のかたちがわかった。それが、苦しい。

「神様、神様、奇跡を……っ」

 ユアは、ふらふらしている。血が足りていないのだ。ずっと血を与えていて、三日前には血の補充もできなくなっているのだ。

 以前は週にどれだけ少なくとも一回は食事をしていた。血を与えなくても、そうだったのだから、いまは、きっと。

 ユアは祈るように目をつむった。ずぶり、と指が沈み込む。わたしの体は、ユアに壊されるのも構わず、少しずつ近づいている。肌が裂けていく痛みと内側からはいあがるかゆさと増えていく快感が一斉に襲ってきてわたしはわたしを保つことに精一杯で声も発することもできなくてこのままではユアにかわいいなんておもわれないからどうすればいいかわからなくて、そんなとき、ユアは、ひらめいた様子で、顔を上げた。

「――ああ、これは、天啓なのね」

 そういって、うっとりとした顔で、ユアは一歩前に出た。

 わたしとの距離が近づく。

 わたしはまた、ユアの首筋に、噛みついた。

 がぶり、と――

ユアも、わたしを、同時に噛んだ。

 その瞬間、体の奥底から何かが奪われるような寒さが襲ってきた這い上がる冷たさだったそれはおそろしくておそろしくて死はこうし訪れるのだと否応なく理解させられて、わたしの目は、ごくごくと、なにかを飲む白い喉を視界に捉えている。

「――また、あげるからね」

 一瞬だけ口が離れ、今度はなにかが流し込まれる。熱が生まれる。あたたかい。ユアがいる。ユアだ。わたしの中に広がっていくユアを感じていると声が聞こえる。

「ルリ、わかったよ。私たち、こうして血を分け合っていればいいのよ。私が飲んで、与えれば、あなたは再生するし、私は生きていける。動けなくなるけど、どうだっていい。だってルリがいるのだもの。こうしてルリの暖かさを感じられるならそれでいい。ルリが食べたところ、再生するから大丈夫だから、食べていいよ、ルリ、私を食べていいよ。こわがらないで。そのぶん、血をもらうわ。もらうから、あげるからね。安心して、食べていいよ。ルリ。愛してる」

 愛おしそうに頭を撫でてくれて。

 赦されたとわかったとき、わたしはこれが、奇跡なのだと理解した。

 だって、わたしの体に起きていることと、ユアの特質、なにかがズレていたら、こうはならない。

誰も訪れない病室。

 死んだと思っているから探さない遺族。

 食べたがるだけで再生し続けるゾンビ化現象。

 血を飲めばいくらでも再生できて、生き永らえる吸血鬼の体。

 そして、わたしたちの間に産まれた愛。

 すべてがあったから、今がある。

 これこそが、奇跡だった。

「ルリ、私たち、ずっと一緒だよ」

「ア、ミビベ、ヅ」

「……私もだよ、ルリ」

 触れ合う肌は、擦れ合ううち、熱を帯び。死体と吸血鬼ではありえないあたたかさの中、わたしたちは夢中でお互いを貪り始める。それが、わたしたちの、永遠の始まりだった。

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こうしてわたしたちは永遠に至った 犬井作 @TsukuruInui

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