第2話


 ──待ったかい?

 初めて会った時よりも、彼女は大分落ち着いた声になっていた。それでも、一部の病人が病原体を拡散してしまうように、一部の狂人は狂気を撒き散らしながらやってくる。左右の肩を違う方向にぐりぐりと回しながら、狂人は私の向かいに座り、今度は首を地面と平行に動かしたりした。

 それにしても本当に、学科を教えるべきではなかった。偶然にも三限が二人の共通の空きコマだったということで、こうして生協食堂のテーブルで向かいに座らせられていた。


 やー、かなり流暢には喋れるようになってきたけどさ。関西弁は難しいよね。生まれてから色々な場所で聞いてるけど、一向に身に付かないの。親戚がみんな播磨の人間だからそんなに上品なイントネーションも学べなかったしね。んまぁあ京都弁と違って何を言っても嫌味ったらしくならないからいいけど。あ、めちゃめちゃ話変わるけどさ、丘に「もこもこ」って形容詞使うことある?この前友達に突っ込まれたんだよね、気持ち悪い日本語を使うなってさ。お前のそれはお前語になりつつあるぞとも言われたな。これに関連してさ、これは勝手な小生の哲学だけど、人はそれぞれ固有の言語を喋っているんじゃなかろうか?って時々思うのよね。たまたま相互理解可能性があるから話が通じているだけで、小生とめぐちゃんは話している言葉がチェコ語とスロバキア語ぐらい違うかもしれない。

 頬杖をつきながら話を聞き流している私を前に、狂人は湯呑みを勢い良く啜った。窓の外を見れば、焼き立てのシフォンケーキのような春の陽射しが中庭一杯に当たって、地面に木洩れ陽で迷彩を描いていた。

 本当ならばこの時間は、気心の知れた友人のようなものを連れて散歩がしたかった。だが私は、生協の新歓イベントに行ったわけでもない。SNSで人々とやり取りをしたわけでもない。ましてやトイメンの狂人の如く、見ず知らずの学生にやおら声をかけて連絡先を交換なぞ出来るはずがない。気心の知れた友人とやらを生み出すにあたって、碌に努力をして来なかったのだ。だからこうして、何の社会性も無い、ディスコミュニケーションと行動力の化け物のような人に捕まって、共感しづらい話を聞かされている。これは自分の怠惰への報いだ。罰に違いない。そう感じて、ただ唇を噛み締めて、目を閉じてじっとしていた。

 狂人はふと腕を組み変えた。めぐちゃん、サークルどうすんの?拙者はもう大分決まったでござるが。──ようやくだ、ようやく通じる話が振られてきた、と思った。私は、サークルを特に決めていないこと、一番最初に楽しいと思えたところに入ろうと決めていること、明るすぎる人間と煙草が嫌いなこと、なんかを当たり障り無く言った。するといきなり狂人は私の両肩に手を置き、じゃあ今日僕に付いてきてくれないか、と叫んだ。うっわキモ──でもこんなに屈強に見える狂人も、一人ではサークル巡りに不安があるのかもしれない。私が少し介護してやるか──という軽い気持ちで、構内の西にある平屋の建物へ歩き出した。


 えーっと、私、あなたのこと何て呼べばいいかな?

 好きなアレでいいよ。あてくしのことマジで橋本環奈だと思ってるんならハシカンでもいいし、実は野口英世だと思うならエイセでもいいし、北ロカだと思ってるのであらばロカでよいぞ。

 じゃあ、ロカちゃんで。

 狂人の正体をどうにかして掴むべく、懸命なやり取りを重ねながら、平屋の奥の部屋に入った。この部屋は、というかこの平屋全体が、音楽室のようなものらしかった。壁は防音壁になっていて、ドアもノブをひねれば位置を固定できるものだった。

 ロカちゃん、これ何のサークル?と耳打ちして訊ねると、狂人は気色悪い笑みを浮かべながら、おそらくは合唱サークルだね、これで怪しい宗教団体だったらどうしよう、と答えた。宗教団体と言われれば、なるほどそんな風に見えなくもない。部員──もとい信者は皆、自分の名前が分かるように名札をぶら下げていたし、菓子を撒いて新入生に食べさせながら世間話を持ち掛けていた。何かを必死に勧誘する様子というのは、往々にしてカルト的な仕草に見える。ふと、彼らが菓子類を片付け出した。間も無く練習が始まるらしく、皆が立ってじっと部屋前方のピアノを見ていた。


 一人の部員がピアノに近づいた。今日も練習を始めます、と彼は言う。おそらく彼が教祖のようなものだろう。部員たちは一斉に、お願いします、と言った。合唱集団らしい整った声だった。そのまま体操が始まった。首をゆっくりと、前へ後ろへと倒してゆく。肩を、腰を、膝を、同様にかなり遅く回す動きをした。不思議なことに、こんなにものんびり体を動かしているのに、回した関節はことごとく綺麗に解れている。なるほど、ここまで体が自由になるのなら、信者が増えるのも無理は無い。柔らかくなった体を動かしながら、隣にいる狂人のことも忘れて“教祖”の指示を待った。

 さて、ブレスをしましょう。今日はロングブレスをやりましょうかね。まずは四拍から。“教祖”が一定のリズムで手を叩きながらサンハイと言うと、部員たちが息を吐き始めた。四拍、八拍、十二拍、十六拍と息を吐く時間の長さが増えていく。息を長く吐くには、当然お腹に力を込めなければいけない。途中で息切れを起こす痩せ型の部員が何人かいる。私もその一人になりつつあった。狂人に目をやると、まるで数年前から部員であったかのように、決められた拍数通りに息を吐き切っていた。

 そうしてとうとう声出しの時がやってきた。ここまでの儀式でもうかなりの功徳を積んでいるはずだというのに、まだ合唱への準備をするのか。そんなことを考えるくらい、私は疲れている。私には体力が無い。中学のころは絵を描いて暮らし、高校のころは小説を書いて暮らしてきた身だった。持久力も、瞬発力も、コントロール性も無かった。疲弊の中、声出しは始まった。アオアオア、エアエイエ、セキスイハイム、等々の複数の呪文を唱えさせられた。すると今までの疲れらしい疲れが嘘のように取れ、声出しが終わるころには歌が歌いたくて仕方が無くなっていた。これが呪文の効果だろうか、やはりこのサークルは合唱団を語る怪しい教団ではないか。なんとはなしに不安と猜疑とを抱えて“教祖”の方を見ていると、彼は解散の指示を出した。男は別室で、女はこの部屋で、曲の練習を始めるらしかった。間もなく男の部員は一人残らず部屋から消えてしまった。


 部員が合唱の隊形にパイプ椅子を並べ出した。一人の女子部員が、狂人に向かって、その子アシカさんの友達ですか?と問いかけた。その子、というのが私のことらしかった。狂人は太陽のように笑って、いやほんの数々日前に知り合ったばっかりなんだけどさ、と応答した。ふと考えると、女子部員と狂人との関係性が分からない。女子部員が狂人に丁寧な丁寧語を喋り、狂人はやたら女子部員にタメを張っている。

 何かが、何かが確実におかしい。今までずっと私は、狂人を──ロカちゃんのことを、身体測定で後ろに並んでいた、同じ新入生だとばかり思っていた。しかし私の考察が正しければ、あの女は、最少でも二つ、私と学年が違う。おそらく私より女子部員が、女子部員よりあの女の方が、学年が上なのだ。考えたくなかったが、卒業生の可能性だってあった。狂人は、ロカちゃんとなんか到底呼んではならない、ロカ先輩だったのか。

 ピアノを囲むようにパイプ椅子が並べられた後、全員が位置につき、私は真ん中に座らせられた。そして部員の視線の先に、ピアノ椅子が空いている。どこからともなく狂人がやってきて、そこに座った。

 おし、じゃあ練習やっていくか、楽譜回してくれ。──と狂人が勢い良く言うと、諸々の女子部員は私たち新入生にホッチキス留めされた紙を渡してくれた。中を見ると、伴奏の無い合唱曲の楽譜だった。──音取りを始めてくれ、三十分までやったら取れたところまで合わせよう。じゃあ、解散──の掛け声で、女声は部屋に散らばった。

 私は──どういうこっちゃねん、ロカちゃん。嘘つかんといて欲しかったんやけど、といった願いを目線で訴えたが、ピアノ椅子の上の狂人はもはや私の方を見ていなかった。部屋全体を眺めて、予定通りに練習が進んでいることに満足しているように見えた。

 ふと肩を叩かれた。ほら音取りするよ、と女子団員が言った。私は即座に振り向いて、はい、と答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

歌う女 @kita_loca

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ