歌う女

@kita_loca

第1話


 私だって西宮の一軒家の息子に生まれたかった。いつまでも無くならない街がよかった。母はよく晩御飯を食べている時、本でも読み聞かせるような口調で、この街はあと五十年もしたら無くなるんやで、と言い聞かせてくれた。まあ、数年に一度のペースで行きつけの古いお店屋さんが潰れて、「テナント募集」の紙ペラが淋しく一枚貼られることはあった。だけれど、人の多さが目に見えて変わることは無かった。──ほんまか、ほんまにこの街は無くなるんか。私は、胸にさみだれ色の問いを抱えて、顔をくしゃくしゃにしながら家の西へ東へ走った。新聞の十七面からも、天神社の近くでたむろしている中年女性たちの噂からも、同じ答えが返ってくるばかりだった。


 高校三年生のときの担任の、渡先生という人だけは妙な答え方をしてきた。東京から転勤してきたばかりで、左耳にホクロがある、関東弁がずっと抜けない若い先生だった。去年の七月、英語科教官室に借りていた本を返すついでの相談だった。渡先生は腕を組んで五秒考えた後、何かを思い返すように言葉を発し始めた。

 いや、大仲がここに住み続けることはできるよ。ただね、放っておけばしだいに利便性を失っていって、お店が全部閉まって、阪急だけが通ったからっぽの場所になる。──ということを人々は矮小化して、、と呼んでいるだけ。そういえば大仲は、地元の何が好きなの?

 結局、その問いには何とも答えられなかった。かつての私は、自分の住んでいた郷土に何かしらの愛があったはずなのだ。(あるいはそれさえ私の妄想かもしれない) 年を経るうちに、愛はいつの間にか星や霜に変わっていって、ただ、無くなってほしくないという無根拠な願いだけになっていた。私が緘黙を貫いている間、渡先生は細かく問い詰めもせず、ただうっすら微笑んでいた。

 そんなに街が無くなってほしかったら公務員になって再開発を推進すればいいんだよ。現に再開発は始まってるでしょ。でも大仲が言いたいことはそういうことじゃないんだよね。故郷にはさ、自分がなんにもしなくても、ずっと楽しく住めるような街でいてもらいたいってことでしょ?

 渡先生は、隣のクラスの京都人の担任とは対照的な性格で、決して遠回しなことを言う人ではなかった。しかしながら──今回ばかりは「いつまでも甘えるな」と怒鳴られている気までして、それが体に侵食し、仙骨をカリカリカリカリ削っているような気配さえ感じられて、ついに故郷を離れようとさえ思った。住むところはなるべく遠く、できれば東が良かった。大学は国語ができないから理系でないとあかんと思い、国立は前期も後期も東京の理系っぽいところに願書を出した。無理なら浪人して東北大にでも行こうと思っていた。

 なんとなくの勢いで入試をやって、大学には受かっていた。受かってすぐ、塾から家へ電話が来た。合格体験記のようなものを書いてくれと頼みが来たが、ここ半年のことを何も覚えていなかったので言葉に詰まった。自分はただ、勉強のパチモンをただシャカリキにやってただけやったんです。他に言えそうなことは無いので、なーんにも書きまへん──と言って、チャコンと受話器を置いた。


 甘えた人間だったから、身体測定の前日に引っ越してきた。荷物を開ける作業は全て父がやってくれたし、彼は江戸前寿司の宅配の注文までした。少ない量ながら珍しいネタばかり頼んだようで、どれがサヨリなんやろ、これキスとちゃう、シャコ食うたん初めてかもしれへんわ、等々ぶつぶつ言いながら二人で食べた。夜の八時ぐらいに父が帰った。まだ綺麗な部屋に私一人で残されると、ひとつひとつの呼吸まで気になって上手く眠ることができない。いよいよ私は東京の人間になる。さっき東京の人と同じものを食べたし、これから東京で寝るのだ。もう数ヶ月、自分の口から以外では、西の言葉が聞けなくなる。しばらく東京で呼吸していれば、きっと正しい関東弁が喋れるようになり、やがては渡先生のような理知的な人間に勝手になれると思い込んでいた。


 携帯のアラームを止めると六時になっていた。ポシェット一つで大学に行った。誤算だった。数え切れないほどのサークルが、ポシェットに入らないくらいの薄い紙を押し付けに来た。どの集団も、一回生なんて人材としか見ていないように感じて、肩のあたりがむず痒くなった。

 誰かが、ちょうど痒くなっていたところを叩いた。驚いて振り向くと、同い年ぐらいの女がいる。一年生ですか?とその女が言う。まだ驚いていたので、せやけど何や、と大きな声で言い放ってしまった。女はいたく笑って、ほなそのチラシ、いらんもんだけ預かろか──と言った。ものすごく甲高い、気味の悪い声の出し方だった。私は手にしたチラシの全部を、捨てるように差し出した。

 ありがとう、これな、窓拭きにちょうどええサイズの紙なんや。君、ごっつうネイティブな関西弁を喋っとおやんか、大阪から来たん?──女はやはり流暢な関西弁を使いながら私に詰め寄る。近い近い近い。「やねん」より「なんや」を優先的に使用するところ、進行形の「とお」の使用などから、尼崎より西の人間とみた。そういうことをぐるぐる考えながら、なるべく素っ気ない声を意識して、うん大阪や、と返した。まもなく女は私に接近し、目をギッと見つめて来た。

 実家の最寄り駅は千里中央と北千里どっちや。

 その質問を聞いた時、私は呼吸をすることも忘れて、ただただこの得体の知れない女への畏れで肺をいっぱいにすることしかできなかった。確かに私が住んでいた家は、千里中央と北千里駅両方を最寄りとして使用できる位置にあったのだ。

 なんで分かったん、私どっかで身分証落としたんか。それともあんた、超能力者かいな。半分狼狽し、半分は怒りながら女に尋ねた。女は──なんとなくやね。君みたいな真面目で頭の良さそうな女の子は、市内や堺の子とちゃいそうやから、勘で言うてみたまでや。ほな最寄りも当たったことやし、ライン交換するか?──そう上機嫌で言った。私は無言でスマートフォンを差し出した。女が私のアカウントを受け取ると、屈託の無い笑顔で両手を真上に上げ、両足と同時にくねくねさせた。あんなに人を苛立たせるような人体の動きは久々に見た。

 めぐみ、君めぐみっていう名前なんやな、実質オーナカメグミやん。

 (悍ましい、ただ悍ましい、この女は、道化の振りをして、全てを知っている。なぜ私の苗字が分かったのか。ここで私と合うことも、最初から何らかの運命や計画付けがあってのものだったのではないか。女、お前は何者だ。どうして初対面なのに本当の名前も住処も知っているんだ本当にこの大学の人間なのかなぜ会いに来た、理由を言え、言わんかったら淀川の汚い水に沈めるまでや)──呪詛を一言一句ひたすら瞼の裏に浮かべ、一切のわけがわからなくなりながら、えっ私苗字大仲やで、と女に向かって吐き捨てた。

 ほんまなんか?私の尊敬する合唱の作曲家にオーナカメグミっていう人がおってな。同姓同名やんか。──と、何か幸せなことがあったかのように女が言う。先程までの戦慄が長引いて、私は胸を撫で下ろすこともできなかった。女は検索結果を見せてきた。確かにそこには大中恩と書いてあった。

 時間を見ようと思ってスマートフォンを覗いたら、指紋が認証されてロックが解かれてしまった。さっき交換した女のアカウントの名義は、花の顔文字が四文字並んだものだった。あんたこれやったら名前わからへんやん、なんて呼んだらええんや。女は満足そうに顔を上げて、こう言った。

 ──どうも、橋本環奈です。


 女のことは、狂人と呼ぶことにした。

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