兄妹談議 #1
***結***
土手から河川敷に降りて、ロープが張られた正方形の区画が整然と並ぶ砂利の上を歩く。花火の一発目までおよそ五十分——人はまばらに埋まり出していた。
この中から予約してある座席を見つけなければならない。ヒワさんが早速音をあげたので、チケットの整理番号から睦月夫妻の待つ席へと彼女を案内する。広場や駅前通りと違って、人とすれ違うにも十分なスペースが確保されおり、特に問題なく到着した。
「千代さぁんっ」
ヒワさんは千代さんと、まるで十年来の恋人が再会したかのような熱い抱擁を交わす。恋人どころかほぼ初対面の千代さんは少しも動じずに、ハイテンションのヒワさんに調子を合わせている。これが細君の余裕か。
「結さんも。迷わず来られたようでなによりです」
恭しく私たちを歓迎してくれる千代さんの足元で、睦月さんことマスターは缶ビール片手に焼き鳥を頬張っていた。禿げ上がった頭に深い彫が刻まれた目鼻立ちを備え、甚平を着流した姿は、視線を合わせた人々を軽くびびらせていた。
千代さんが思案げに頭のかんざしに触れる。
「他の六名様は?」
「大丈夫です。色々あって二人一組で行動しているので。他のみんなも、時間までには集まってくると思いますよ」
「そうですか。安心しました」
千代さんと私が話している隙に、ヒワさんは屋台で得た戦果をビニールのレジャーシートに並べ始めた。
「どうぞ、お納めください。みんなも買ってくるので、先に手をつけちゃってもバレませんよ」
「——どうも」
ヒワさんはマスターに、プラスチックパックに詰められた食べ物を勧める。マスターはコンビニの焼き鳥とくんさきを肴に、先立ってお酒の缶に手を付けていた。
「こっちがたこ焼きです。あと、鮎の塩焼きを見つけたので何本か買ってきました」
ヒワさんのにこやかなスマイルがマスターの鉄面皮を向日葵色に和らげる——なんてシーンは訪れることなく、彼は「ありがとう」と無表情に言って鮎の塩焼きにかじり付く。
そのやり取りを眺めて、千代さんも得心がいったようだ。
「なるほど、みんなで持ち寄ってくる方式ってわけですね」
「はい」
「幸太郎さん、お酒はほどほどにしてくださいよ。他の子はみんな未成年なんですからね」
新しいアテを手に、あぐらをかいていよいよ勢いよくお酒を飲み始めたマスター。そんな彼に対して、千代さんはしっかりと釘を刺す。会場から壱月亭はさほど遠くないけれど、唯一の男性である彼がへべれけでは帰り道が少々心配である。
「——うむ」
マスターの広い背中が心持ち萎んだように見える。
私はヒワさんの隣に腰を下ろす。持ち寄ってきた屋台料理の他に、チョコバナナを二人で一本買っていたのだった。大ぶりのバナナにチョコレートソースがたっぷりとかけられており、赤、青、緑——色とりどりのチョコスプレーが振りまいてある。
ほぼ何も食べずにここまできた空腹感も手伝って、それはキラキラとした魅惑的なスイーツに見えた。
「先に食べていいよ」
「本当ですか? ありがとう、ヒワさん」
私はチョコがたっぷりついたバナナの先端を齧る。
——甘ぁ、うまぁ——あああ。
昔からお祭りといえばチョコバナナだ。
「今日は彼氏と来なくてよかったの?」
私は口の中で楽しんでいたチョコの甘みを一息に飲み込み、ほろ苦いため息をつく。
「——先週フラれましたから」
気を遣って軽い調子で告げたのだけど。
——途端にヒワさんの頬が膨らみに膨らみ、ふぐのような膨れっ面になる。
「いるって言ったのにぃー」
彼女は駄々っ子のように、両手を私の胸元にぽかぽか当ててくる。
「誤差でいたようなもんじゃないっすか」
「そう、だと、しても! それなら私に隙の一つや二つや三つ見せてくれたっていいじゃんかよぅ」
冗談じゃない。そんなに隙を見せるようなヤツは貞操観念を見直した方がいい。
「大体、ずいぶんと女子に拘ってますけど。ヒワさんって、女子と付き合ったこと、あるんですか?」
「あー、中学の頃に少しだけ、ね——」
彼女は顎を上げて、遠くを見つめるように視線を前に伸ばす。瞳に映り込むのは人混みに違いないけど、その中から彼女は大切な記憶の断片を見つけている。あまり微笑ましい思い出じゃないのかもしれない。
そんな物思いに浸る時間を切り上げて、彼女は私の双眸を眺めることにしたようだ。無邪気そうな顔とにらめっこ。
「ま、いいや。結ちゃんはさ、女の子を抱きしめたいって思ったこと、ある?」
「ありません」
「ええー」
「いちかや初香さんはどうだか知りませんけど、私は女子を好きになりません。男子と付き合ったことはありますけど、それより女子の方がいいと思ったことはないですから」
「そうかぁ。残念なりよ」
私はチョコバナナの欠片を飲み込む。
普段から誇張と虚飾に塗れたヒワさんの発言だが、残念というのは本心らしい。肩ががくりと落ちている。これまでいろんな女の子にアタックして、失敗を繰り返してきたんだろう。こればかりは私ではどうすることもできない。
ただ、幼少期からいちかと萌黄くんを見慣れているせいか、女性同士の恋愛には驚くほど抵抗感がない。
「悩み事くらいなら、聞いてあげますよ」
「さすが、ゆっちゃんっ。優しいなぁ」
ヒワさんの機嫌が直ったところで、私の方からも一つ問いかけてみたいことがあった。今切り出してしまおう。
「うちの兄、迷惑かけてませんか?」
「かけてないよ。夢に向かって一直線って感じ? 毎日一番に部室に来て漫画描いてるよ」
「そうですか」
「心配なのかなぁ?」
「茶化さないでください。だいたいあの部活、なんなんですか? 遊んでるだけじゃないですか。半年待たずに二カップルも誕生してて——合コンサークルですか? もっと美術部や漫研みたいにストイックに——」
「——う。シケンのことね。まぁそれはさておいて聞いてよ」
ヒワさんはこほんと咳払いをして、「現在の漫研についてはね」と語って聞かせる。
話の矛先が脱線してきたときの予防線を用意していたようだ。
「漫研はほとんど批評サークルになってるのよ。美術部はまぁ——二極化してるから例外ってことで。漫研が悪いとは思ってないよ。事実、部としては承認されてるわけだしね。でも、昔は自作の漫画を学内報や即売会に展示するくらい活発だったんだ。今となっちゃ、その頃の熱意が感じられないのも確か」
「だからって、
「漫研には誰も描ける人が残ってないの。本当の天才はみんな巣立っちゃった」
バカ兄は言っていた。「上手な人の絵を観察して、真似て。リアルなモデルを観察して、真似て——そうやって何万枚も描いて、初めて自分の絵になるんだ」と。描く人が残っていないのだとしたら、目的意識も方法論も失われたということだろうか。
「今のところシケンが一番、彼に合ってると思うんよ」
確かに、あの部にはバカ兄に必要なものが詰まっているかもしれない。恭一さんの風景画、凛咲さんの人物画、道明さんの彫刻、萌黄くんというモデル、いちかの写真。
バカ兄はバカには違いないけど、巡り合わせは悪くないと思う。今度こそ、理想的な居場所に出会えたのかもしれない。だとしたら、私も少しは、応援してあげないこともないというか……。
「まぁ妹としては気にかかるところだろうし——」
ヒワさんがにまっと満面の笑みを浮かべる。
「ゆっちゃんもうちにきなよ、歓迎しますよ?」
「お断りです。テニスありますから」
ヒワさんは熱っぽい吐息を漏らして私にすり寄ってくる。
「いいからいいから。試しに抱きしめてみてよ」
——ええ、ずっと拒絶してたよね、私……?
肩をすぼめた浴衣姿が本気モードにしかみえなくて、若干引くんですけど。
ヒワさんは色めきだった瞳を伏せて、そろそろと距離を詰めてくる。
「一回だけですよ」
「はぁい」
ヒワさんの肩の後ろから手を回し、お腹を交差して反対の腰に。子どもみたいに小さい。いちかよりちょっと大きいくらいだけど、サイズ感はほどほどに一緒だ。ヒワさんが私の胸元に体重を預けてくる。向日葵色の癖毛が私の首筋を撫でる。
頬に手を当てて微笑ましげに見ている千代さんと視線がかち合った。困るなぁ。
「ねぇねぇ」
「はい?」
「週一でどう? もちろんお礼は弾むぜ」
ヒワさんは表情をてかてかさせている。指先で丸を作って、お金のポーズ。お礼ありきの関係で本当にいいんだろうか。しかも、お礼とお願いがエスカレートしていくのが目に見えている。
「凛咲さんと詩織さんに怒られるので遠慮しますよ」
「そんなぁ!」
ヒワさんの悲嘆にくれる叫び声は花火の前座にもならなかった。
***続く***
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