paint #7


 ——急がなきゃ。花火が終わる前に。

 ひりつくような焦燥感だけが肺を喘がせ、身体を前へと走らせる。このまま祭りが終わってしまっても、ちーちゃんは何食わぬ顔で日常に戻ってくる。でもそこからは、何かが——とても大切な何かが——失われる気がする。それは、私にとって失い難いものに違いないのだ。


 土手を遡って、屋台が並ぶ駅前通り商店街を駆け、目に入った小道をしらみ潰しに探しては空振りに終わる。

 下駄を履いた足では百メートルを駆けるのも一苦労だ。条件は、ちーちゃんも同じ。

 桜の園はどうだろうか。ここからすぐ近くにある。ちーちゃんが繰り返し足を運んでいる場所。記憶を取り戻した私が真っ先に頼った場所。

 ——いや、だめだ。

 あのときの私は半ば錯乱していた。そして無意識に、孤立することを恐れていた。仮にちーちゃんが追いかけて来なくても、じきに先輩か伯父さんに発見されていたに違いない。

 きっと、ちーちゃんにそんな甘えはない。萌黄くんや先輩たちから身を隠そうと思ったのなら、確実に橘の近辺にはいないだろう。かと言って、財布もスマートフォンも持たずに、大和市の外に出られるとは思えない。そう遠くには行っていないはずだ。


『これより、大和市駅前通り商店街主催、七夕花火大会を開催します』


「待って——っ!!」


 反射的に叫んだ私に、通りすがる人たちのぎょっとした視線が刺さる。

 数十分前まで心待ちにしていたアナウンスが、まるで時限爆弾のカウントのように迫ってくる。


 フィナーレまではおよそ一時間だ。闇雲に探しても間に合わない。どうにかして当たりをつけないと。

 ずっと大和市に住んでいるちーちゃんと、八年間離れていた私とでは土地勘が違いすぎる。もし私の知らない場所に逃げ込まれていたら、絶対に見つけられない。だったらまず、その可能性は捨てるべきだ。

 直感に過ぎないとしても想像するしかない。誰にも鉢合わずに逃げこめて、花火の間は見つからず、終わった後になって合流できる——そんな場所。


 開幕を告げる花火が上がる。赤い尾を引く菊の花。

 パンっと小気味いい音が、急かすように耳を叩く。


『ここなら誰にも邪魔されないわね』


 ——あはは……。外したら、取り返しがつかないな。




   *




 駅前通りから十分弱。夜の銀杏並木を歩く人影は全くなかった。

 住宅街のゆるい傾斜を登って開けた立地。ロッジのような木造の建物を囲う小さな堀には、短い木板の橋が渡されている。喫茶『壱月亭』の看板の下、地面から二段ほど高いエントランス前に、少女はうずくまっていた。


 赤と緑の千輪菊が立て続けに打ち上がり、私たちの横顔を照らす。


「ここからでも見えるんだね、花火」


 少女は浴衣の膝に顔を埋めて、それでも律儀にこくりと頷いた。栗毛が一房はらりとこぼれる。

 彼女のパートナーである真っ白なデジタル一眼レフは、傍らに座っている。

 私はカメラを挟んで、彼女の隣に腰を下ろした。背中に触れると、小さく震えているのが伝わってくる。


「ちーちゃん、泣いてるの?」


 ちーちゃんが観念したように顔を上げる。はらはらと声も出さずに落涙していた。明滅する火薬の花に照らされた横顔には、大声でわんわん泣いていたあの頃の面影はほとんどなくて、その雫の意味を知らない私はすくんでしまう。


 どんどんと——それが花火ではなく自分の心音だと気づくのに時間がかかった。私は幼子に絵本を読み聞かせている自分を想像しながら、ちーちゃんに語りかける。


「泣いてばかりだと、鳩さんが逃げていっちゃうよ」


 ちーちゃんが、涙をこぼしながらどんぐりのように見開いた眼を向けてくる。


 巾着に忍ばせていた画用紙の切れ端と、布のケースに包んだ水色、赤、黄色、黒——四色の短い色鉛筆を取り出す。巾着から出したスマートフォンのライトを点けて、切れ端と一緒に木の板の上に置く。躊躇わずに水色の筆を取る。

 みんな笑っていたら平和なのにと、絵を描くときはいつも頭によぎる。むつかしい顔をしていたあの子が笑ってくれたら、それが自分の幸せだと思った。

 ちーちゃんは綺麗になった。宵闇に浮かぶ、小柄ながらも均整の取れた身体つき。雫のしたたる小さなおとがいと、浴衣の襟へと伸びる細い首筋。明るい日向を取り込んで、月夜にあってもなお明るい栗色の髪。引き結ばれてしわの寄った口許に弱々しさは微塵もなく、幼かった彼女がこうあるために通ってきた道は並々ならぬものだと確信させる芯の強さがあった。


 その薄い唇が解かれる。


「——っ、ん。やっぱり、せんぱいの絵は、まほうの絵だね」


 ぱちっと視界が瞬いたような気がした。

 私は何かに操られたように、ちーちゃんの傍らのデジタル一眼を手にして、ファインダーを覗き込み、おぼつかない手つきで写真を撮る。シャッター音と花火の音が重なった。

 笑ったちーちゃんは、とても可愛い。


「——あれぇ……?」


 モニターに映ったのは見たこともない星座のような、ピンボケの写真だった。

 ちーちゃんがくすっと笑い声をこぼす。


「それはですね。まず落ち着いて。シャッタースピードを長くして、感度を——」


 ちーちゃんに言われた通りに撮り直す。


「すごい。今度はちゃんと撮れた」


 ——それでも若干ぼやけてるけど。あと、色が赤っぽい。

 ちーちゃんや伯父さんはきちんと技術を磨いているんだなと、しみじみ実感する。

 自分も負けてはいられない。

 私はカメラを置いて、画用紙の切れ端と色鉛筆を一本手にする。笑顔の色に持ち替えて。


「せんぱい」


 まぶたの少し腫れぼったい鳶色の眼が私を見据えている。

 涙は流れていない。


「さっちゃんになりますよ、あたし」


「——それって、どういう、こと……?」


 ちーちゃんはあくまで大真面目な顔をしている。そこから目が離せない。


 ふいに、抱き寄せられる。

 鼻先が触れ合う。ちーちゃんの腕が目一杯、私の背中に回されている。


「すきです」


 ポーカーフェイス気味の落ち着いた微笑に朱色が差している。熱に浮かされているかのように紅潮した頬が目の前にある。

 唇が触れ合う。吐息と共にもたらされた言葉の意味を理解するより前に、ちーちゃんの顔がさらに迫ってきた。何かを尋ねるように小首を傾げた少女に、私が瞬きを返す。

 浴衣の背を掴む彼女の手に力がこもる。舌先が蠢くように唇を割り、口内を這い回り、奥歯の付け根をなぞってくる。ぢゅっと小さな水音が立つ。鼻先から甘ったるい声を出して、ちーちゃんが私に入り込んでいる。彼女の長い睫毛は半分ほど伏せられ、その瞳が私の答えを確認するように見つめていた。

 火薬の爆ぜる音がして、赤い光が差す。

 ぞくっと——にわかに、腹の下から血流とは違う、言い知れない何かがこみ上げてくる。

 私は、彼女の肩に手を置いて——、


 弱々しく突き放した。

 もう一度、火薬の弾ける音。今度は強く、お腹まで響くような大きな音だった。


「……伝わりましたか?」


 ちーちゃんが私の口許に指を重ねる。


「あたしは、せんぱいの恋人になりたい」


 早鐘が胸を叩き、銅羅が耳にこだまする。息が上がっているのは酸素が足りないせいだけじゃない。ぶつぶつと沸き上がる喉の奥から絞り出すように、


「ちーちゃんには、萌黄くんが、いるでしょう?」


「そうだよ。あたしは、萌くんの恋人」


 まるっきり、江ノ島でのやり取りの反転。なのに、どこかずれている。

 私の声は震えていた。ちーちゃんの声は震えていない。




 沈黙を打ち破ったのは——、


 軽快なテンポの着信音だ。


 私のじゃない。ちーちゃんは依然として私を見つめたまま平然としている。

 ——じゃあ、誰?

 視線を彷徨わせた先にいたのは——、萌黄くんだった。


 憤怒、悲嘆、軽蔑、安堵——ぱっと浮かんだ単語のどれもが正しくて、どれもが間違っている気がする。到底言葉にし尽くせない感情をたたえた表情が、逆光の下にあった。


「帰ろう、ちー」


 萌黄くんは、鳴り止まない着信を放置して歩いてくると、ちーちゃんの手を掴む。そのまま私には一瞥もくれず、前のめりに橋を渡って銀杏並木に向かって歩いていく。ちーちゃんはカメラのストラップを肩に引っ掛け、とてとてと小走りに付いていった。


 私は意味もなく立ち上がって、二人の背中を追いかけ、乾いた砂の上に崩れ落ちる。膝が面白くもないのに笑っていた。

 先輩のところに戻らなきゃ。そう思っても、足が動こうとしてくれない。


 代わりに、握りしめていた画用紙の切れ端を砂の上に広げて、淡い黄色の筆を走らせる。鼓動は相変わらず狂ったように走り続けている。追走するように。

 描き上げた勢いのまま、スマートフォンを拾い上げ、ブラウザを起動して、コンクールのエントリーページを開く。あれだけ躊躇っていたのに。ものの三分とかからず、『エントリー完了』の文字が表示される。

 スマートフォンには、先輩からの着信が入っていた。


 ——彼女は未だに恋を知らない。


 なんて愚鈍な思い込みだったろう。およそ誰よりも人を観察しているちーちゃんが、誰よりも私の恋に寄り添った彼女が、見つけられないはずがないんだ。

 先輩は彼女と萌黄くんの関係について、ことさら気にかけていた。その意味が今ならわかる。


『写真、撮ってもいいですか?』


 それは、ちーちゃんからの告白だった。入学式の朝と、温泉旅行の夜——すでに二度も。そして今夜が三度目。

 あの子は恋を知らないんじゃない。恋を知ってなお、どこまでも天真爛漫であっただけ。


 ——彼女は恋を知らないふりをしていた。


 花火大会はいよいよ大詰め。フィナーレに向けて連弾が咲いていた。大輪の牡丹の輝かしいスターマインが半月の夜空を眩く染め上げる。

 借り物の浴衣を汚してしまったことに気づいたのは、立ち上がってしばらくしてからだった。




   ***続く***

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