paint #6
***凛咲***
夜店は駅前通り商店街に沿ってずっと続いていた。
そこかしこに飾られた小さな笹や、吹き流しの形をしたのぼり。商店街や屋台の人たちの情熱と創意工夫が伝わってくる。赤提灯に彩られた景色は、暗がりに沈み始めた夜空に向かってぼんやりと手を伸ばす炎のよう。
ペアになるなり、ささっと人の群れに隠れてしまった先輩は、手に何かを持って戻ってきた。
先輩が肩をこつんと当ててきたので、そろりと腕を組んでみると、彼女は満足げに頷いた。
相変わらず人は多いけど、駅前広場のおしくらまんじゅうを思えばそれほどでもない。二人で水飴を舐めながら、ゆったりとした足取りで屋台を見て回る。途中、焼きそばを二パックと牛串を何本か買って、とりあえずノルマをこなしておく。
「——コンクール?」
「はい。エントリーしてみようかと思って」
波多野英知プレゼンツ・東京都主催の全国高校生絵画コンクール——。祖父が主催している高校生向けのコンクールで、巷では『美術部の甲子園』とまで言われている。油彩、水彩、アクリル、日本画、デジタルアートの五部門からなり、申し込める部門はさらに細分化されている。
昨年度は水彩の風景画部門に『先輩』をエントリーして、誉れ高くも金賞に輝いた。あの人は親族だという理由で手心を加えることは絶対しないからと、伯父さんからも太鼓判を押してもらった。
「いいじゃない。やる気が出てきたわね」
「えっと、ただ、悩んでて……。今年は人物画にしたいんですけど、本当に描ききれるのか不安なんです。何ヶ月も描いてなかったし……」
当時の制作期間は、何度も描き直して約二ヶ月。しかし、作品の応募締め切りから逆算すると、今年は一ヶ月半もない。
「心配ないわよ。決まっちゃえば筆が速いもの、りさちゃん」
「そうでしょうか……」
「そうそう」
巾着の外からスマートフォンに指を触れる。事前エントリーの締め切りは明日。
まだ、心は決められない。本質的な会話をしていない。悩んでいることを相談することに悩んで立ち止まる——。どうしていつもこうなんだろう。
巾着を見つめていると、腕を強く引かれる。
「——まったく。りさちゃんが悩んでるのは、モデルでしょう? しかも、もう決まってる」
先輩は首を傾げて、皮肉げに口の端を吊り上げて聞いてくる。
この人には隠し事なんて通じない。しかし、日中に釘を刺されたばかりだ。この話はきっと、先輩の意に沿わないに決まってる。
私は——、
「ちーちゃんを、描きたいんです。夏の、桜の園で」
先輩は口の端を結んで無表情になる。やはり予期していたんだろう。
当然だが、先輩はちーちゃんと私の関係を好ましく思っていない。感づいていてあえて問い詰めてきたのが何よりの証左だ。しかも、桜の園という場所は、私が初めて先輩を描いた思い出の場所でもある。
——人を描くことは、傍にいるよ、もっと知りたいよ、って気持ちを届けること。
この人は、私の創作への姿勢を知っている。去年、『先輩』を描き進めながら何度も語って聞かせたんだから。
「——好きな人に好きと伝えること、か」
先輩は歩きながら、薄雲に見え隠れする半月に向かって語りかける。
「ねぇ、りさちゃん?」
「はい」
「大学でね、いい絵描きに出会ったわよ」
「え——?」
ぎくりと心臓が飛び跳ねる。
「この間ゼミで会って、意気投合しちゃって。一緒にキャンプをしたの。あんまり見ない魚——オイカワって言ってたかな。自分で釣って、写生して、最後は塩焼きにして食べてた」
「へぇ……。それは、どこが『いい』——ん、ですかね?」
口にして、刺のある口調だったと気づく。見苦しい。先輩が他の絵描きを称賛しているのが、この期に及んで癇に障るらしい。
先輩はふふっと、してやったりと言わんばかりに笑う。ふくよかな唇が形作る、半分に切った三日月に視線が吸い込まれてしまう。
「塗ると化けるのよ」
「絵を塗ると、ってことですか?」
「そう。ものの輪郭とか透視図法とかあるじゃない? なんとなく歪んでいると言うか、誇張していると言うか——」
——デッサン狂い。
基本はより正確に、より立体的に見えるよう描写する。それが見る者の違和感を取り除き、絵に説得力を与えるから。それを踏まえた上であえて、描き込みに強弱をつけたり、魚眼レンズのように歪ませたりする。
しかし、先輩が伝えようとしているのは、技術的な観点とはまた別だろう。正確さに頓着していない。アンリ・ルソーみたいな感じかな。
「だけど、ナイフを握ったら変身した。彼女も、絵も。命が宿った気がした」
ペインティングナイフ——油彩の人。
先輩もまた、その情景を瞳の中に描くように、生き生きと語っている。
「ああいうのも、自由って呼ぶのよ。きっと」
先輩は自由を愛する。その絵描きの人の素描がどうあれ、少なくとも先輩という鑑賞者を感動させたのは事実だ。
コンクリートのタイルが敷き詰められた足元を見つめる。いつの間にか下唇を強く噛みしめていた。
「——いつも油の匂いがする」
「もう、その話はいいです」
「ふふん、ちょっとは妬いた?」
——ああ、悔しい。
顔も名前も知らない誰かにそこまで思い詰めるのは、私が持っていないものをその人が持っているからだ。それを、先輩が認めているからだ。
私は、ちーちゃんとのことで、先輩にも同じ思いをさせている。
「絵は自由だわ。そしてそれは、私の信条でもある」
先輩が私の身を引き寄せる。
「私からは、りさちゃんの好きにするといい、としか言えないわ。思うところなんて、挙げたらきりがない。でも、りさちゃんがこれからも絵を描いていくのなら、私はそれを応援するしかない。いろんなモデルと出会っていくわけだしね」
そして、私の手に小箱を載せる。
「ごめんね。六月、過ぎちゃったから」
「あ——」
六月——六月二十九日は、私の誕生日だ。
「いちかに先越されたのがとっても悔しいけど?」
「これは——、その……——」
目尻が熱くなる。
——本当、どうしてなんでも分っちゃうんだろう。
スカイブルーのシュシュはちーちゃんからの贈り物。江ノ島で二人きりのときに祝ってもらった。絵を描くときも一緒だと。
果たして、先輩から贈られた小箱の中身は——シルバーの簡素なリングをあしらったネックレス。——どこにいても、付けていられるように。
「芸術家らしく自由にやりなさい。シケンの『紫陽花の乙女』さん」
視界が開けて、流れる雑踏が小さな星の海のように見える。気づけば河川敷の方まで歩いてきていた。花火大会を目指して土手を行く人々のときめきの海。
桜の園でちーちゃんを描く。そうして出来上がった絵を通して、私は先輩にも好きと伝えたい。
まだ、自信はないけど。すぐに惑うけど。
「私は八月、日本を空けるわ。ゼミの合宿でオセアニアに行ってくる」
「はい。帰ってきたら見てください。びっくりするような絵を描いてみせます」
「いいわ、期待してる」
先輩の握り拳が、私の耳の上——シュシュのあたりを小突く。ごめんなさい。
そこに、明らかに私たちに向けられた大声。
「おー、はーちゃんじゃんっ!」
「
ハスキーボイスを上げて駆け寄ってくるのは、キャップを被った、ひょろひょろっとした——女性。
真っ黒な物々しいレンズを装着したデジタル一眼レフカメラ。Tシャツにジーパンという全体的にぴちっとした服装をしているのに、身体のラインは曲線に乏しい。見え方によっては非常に男性的。でも、表情は非常に女性的である。卵形のつるんとした輪郭に、細くにこやかな眼と、緋色のリップが映える派手な面立ち。そのアンバランスさが妙に魅力的だ。
「可愛い子連れてるねー」
彼女は先輩の隣に立つと、私たちと一緒に歩きながら、愛嬌を振りまいてくる。
「
「うわ、なんか睨まれてない……?」
加賀海芽さん——覚えた。
この距離でも漂ってくるテレピン油の匂いも。
「こっち、私の恋人。さっきまであなたの話をしてたのよ。妬いちゃってまぁ——」
「う——。余計なお世話ですっ」
「妬かれるようなことしたっけなぁ……——あ」
絶句した海芽さんの視線の先には——浴衣姿にぴんと背を伸ばして、どこかぼんやりとしている短髪の少女。彼女は河川敷に向かって進む人波から外れて佇んでいる。
「あの子、見たことある。確か、ちっちゃな女の子と一緒だった」
あれは——、萌黄くん。ちーちゃんと一緒に行動していたはずだけど、何故か一人だ。
先輩が弾かれたように駆け出していく。私も慌てて追随する。
「モエっ!」
「姉ちゃん——?」
萌黄くんは心ここにあらずといった調子で私たちを見下ろしている。
「ちーちゃんは?」
「ちーは、先に帰りましたよ。凛咲さんが心配するようなこと、ないです」
「帰ったって——」
萌黄くんの手首には巾着が二つぶら下がっている。ちーちゃんは今、財布もスマートフォンも家の鍵も持たず、単独行動しているのか。
——そんなの絶対おかしい。
「私、探してきます」
言いながら、走り出していた。あてはなんにもない。
背中でぱしっと何かが弾ける音がした。続けて、萌黄くんに向けられた、先輩の鋭い声。
別行動になる前まで、ちーちゃんにいつもと変わった様子はなかった。
——はぐれた? だったら萌黄くんが必死になっている。
——喧嘩した? あの二人に限って、それはありえないと思う。
——じゃあ、どうして。
考えたって分からない。ただ、あの子は一人で泣いていると思った。
幼い頃に桜の園で出会った、あの日のように。
***続く***
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