left #4
見上げれば、視界の遥か彼方まで広がるのは雲ひとつない青空。
平日の昼間の海は格別だ。鳶が上空高くを舞い、高い音色で鳴く。
なんと言っても誰もいない。サーファーが数人ほど沖で波を待っているのが遠目に見えるけれど、砂浜はほぼ貸し切り状態だ。
ちーちゃんは波打ち際で裸足になって、足形を作って遊んでいる。
姉は長期間のリハビリをすることになった。まずは自立した生活ができるための歩行や生活の訓練から。しかし彼女たっての希望で、並行して、一般常識や学業の方も勉強していくそうだ。彼女の知識は七歳で止まっている。リハビリは病院と両親が中心になって進める予定だ。私はこれまで通り、金曜日だけここに様子を見にくることになった。
これからのことについては、少しだけ両親と話をした。伯父さんが立ち会ってくれて本当に感謝している。でも、同時に思う。離れすぎていた父と母のことを、もっと見直すべきなのかもしれない。わだかまりが消えたわけではないけど。それぞれの九年間の想いを語り合う必要があるのかもしれない、と。
さしあたって、ひとつ、大きな課題が残っている。名前についてだ。つまり、凛咲として生きるか咲季として生きるか、という問題。正直どうすべきか迷っている。でも、姉が退院するまでには決めなければならない。
かつて、事故後に目覚めた私は、『咲季』と呼んで近づいてくる大人たちにこう言ったらしい。
『なにいってるの? わたしはりさだよ』
当時、臨床心理学的に診て不安定だった私の精神を守るために、伯父さんと父は病院や学校の協力を得て、凛咲として生きられる土壌を作ったのだそうだ。双子だからといって、それがどれほど大変なことか、子供でも多少は想像ができる。しかし昨夜、姉は目覚めた。本来なら私は凛咲の名を返して、咲季に戻らなければならない。
でも昨日、医者から名前を問われた姉は言ったそうだ。
『いいえ。わたしは、さきです』
医者が言うには、眠っている間も、私の声は聞こえていたらしい。
だとすれば、自分が咲季と呼ばれたことにはじめは戸惑っただろう。そして、次第に私の置かれている状況を理解したんじゃないだろうか。だから、私の前では咲季であろうとしてくれたのだと思う。
でも、今度は二人で、あり方を見つめ直すことができる。その選択のチャンスを姉と家族がくれた。
それにしても不思議だ。このタイミングで目覚めたのも、やっぱり双子だからなのだろうか。少なくとも私は、とても落ち着いた気分でこの問題に向き合えている。
どちらが凛咲で、どちらが咲季か。
これまでの人生はどちらのものだったか。凛咲を演じるがあまり、私は無意識的に、あの頃の凛咲ならこうするという選択をしてきたように思う。それは私だと言えるんだろうか。いや、そもそも咲季は存在していると言えるんだろうか。咲季の色は私というキャンバスの隅で断絶している。
今の私と、あの頃の私。感情は分離してしまった。あの頃の咲季は子供ながらに凛咲を愛していて、凛咲もまた咲季を愛していた。事実は思い出したのに、確かにあったはずの恋心未満の高揚が思い出せない。それは家族愛を包含していて、恋心にほど近くて。ずっと二人は一緒生きていくんだと思っていたはずだ。
「やっぱり私は、咲季だった自分をほとんど覚えてないみたい」
私も裸足になって、ちーちゃんの側に歩み寄っていく。冷たく濡れた土に足が沈みこむ。滑らかな砂の感触。
彼女に追いつくと、その小さい背中を抱きしめる。
「ちーちゃんはどっちがいいと思う?」
「せんぱいは、せんぱいですよ」
「せんぱいだねぇ……」
波音に紛れて、いつかの言葉が甦る。
——あたしにとって、せんぱいはせんぱいなんですよ。
そういえば。ちーちゃんだけは私を凛咲とも咲季とも呼んだことがないな。
沖の方からさざなみが立っては私たちの足首を洗って、さっと引いていく。
昨夜のことを思い出す。病院からアトリエに帰った後、私はちーちゃんに意地悪なひとつの質問を持ちかけた。
*
*
*
アトリエの作業部屋に、二枚の水彩画を並べる。長年しまわれていたのを引っ張り出してきた。土台は土壁だけれど、天井から白い木製のボードを釣って壁にしている。私達が向き合っている一面は磁石入りのホワイトボードになっているので、絵はマグネットで貼り付けている。
ちーちゃんはピンク色のパジャマを着ている。起毛のもこもことした素材は、抱きしめ心地が非常にいい。
「作者当て、ですか?」
「うん。クイズみたいなものだと思って」
クイズと聞いてか、ちーちゃんは薄く微笑んで二枚の絵を見比べている。
紙面いっぱいに描かれた幼い女の子。四等身くらいだろうか。顔のパーツそれぞれが大きめに描かれていて、少し前衛芸術っぽい感じになっている。その片方は昔の自分が描いたんだと思うと、少し恥ずかしい気もしてくる。
「この絵は小さい頃、凛咲と咲季が、遊びでお互いを描いたのよ」
B3画用紙を縦に使って、全く同じをした容姿の女の子が、全く同じポーズで描かれている。構図も似ていれば、配色もほぼ一緒だ。仮に同時ではなく、片方ずつ時間をおいて見せたとしたら、同じ絵だと答える人もいるだろう。
「笑っちゃうでしょう。本当に、そっくり」
「さっちゃんが描いた絵を当てればいいんですよね」
「うん。当てずっぽうはダメ。降参は、してもいいよ」
「ん」
ちーちゃんの目が据わる。ちょっとたちが悪い問題だったかな。ちーちゃんは姉の絵を知らない。私の絵については、『先輩』といくつかの落書きくらいか。小学校の頃のも見たことがあるはずだけど、九年も前の記憶から照合するのは無理難題だ。
「わかりました」
「へ?」
ちーちゃんがなんと言ったのか認識が遅れて、間抜けな声が漏れる。
「——分かったって。どっち?」
右が凛咲が描いた咲季、左が咲季が描いた凛咲。つまり、左と言えば正解だ。
そして、ちーちゃんは迷うことなく左の絵の前に立つ。
「こっち」
「どうして、そっちだと思うの?」
「『先輩』と似てるなって、ひらめいたんです」
彼女はふふっと笑って、「ラブですよ」と囁く。
——泣きたくなっちゃうな。
私はずっと完璧な凛咲を演じてきたつもりだったのに。
一枚の絵からだって、分かる人には分かっちゃう。ちーちゃんは咲季の描いた絵から、正しく今の私にたどり着いた。『好きな人に好きと伝えること』。彼女は私が発するどんなメッセージも汲み取ってくれる。
「正解」
——この気持ちを言葉にするならば、『愛おしい』かな。
*
*
*
「二人の絵、あたしはどっちも好きですよ」
ちーちゃんの胸元で組んだ私の手を、彼女の柔らかくて温かい手が握る。
「描きたいって気持ちが溢れてますもん」
鳶が一瞬遮った太陽の光が、彼女に集まったような気がして、目が眩んだ。
——ああ、そうだ。
分かった気がする。あれだけ深く接してきたのに、居心地がいいと感じてきたのに、この子にどこか踏み込みきれないと感じていた理由。
眩しかったのだ。そして、羨んでいたのだ。凛咲が咲季にそうしたように。
だって、彼女は凛咲の思い描く理想の咲季。私のイデアだ。
この子には、迷いなんてないのか。いや、迷って、それでも強く前を向いて、答えを出すのか。やっぱり思考は及びやない。でも、彼女の心の内が知りたくて、堪らなくなった。いくら考えたって、私はその方法を一つしか知らない。
「次は何をしたい?」
「お祭りに行きたいな。大和の七夕祭り。お姉ちゃんや萌くんも一緒に」
「その次は?」
「せんぱいと海を見たいです」
「まだ足りない?」
「夏の海はきっとまた、違う色を見せてくれると思いますよ」
そう答えて私を見上げる彼女の微笑みは、妙に艶っぽくて。心の内は巧みに覗かせてくれない。
ただ、猛烈に絵を描きたい。今までちーちゃんに胸をかき立てられてきたその意味がようやく分かって、とどまることなく心の底から湧き上がる。
晴れなかった雨雲を切り裂いて、後ろ向きに躊躇いがちな私なまま、精一杯手を伸ばすんだ。前のめりに走りがちな咲季の残滓を包み込んで、まっすぐに飛び立つ、翼のような彼女へ。
「絵を、描いてもいいですか?」
「はいっ」
見上げた空はどこまでもどこまでも、抜けるように青くて——。
渡り鳥が潮風を運んで来た。もうすぐ夏になる。
***続く***
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