right #2


   ***四——萌黄***




 合鍵を使って宮古家に入ると、玄関にもほんのり香るカレーの匂いに出迎えられた。続いて、二階から制服姿の凛咲さんが降りてくる。ブラウスの上に青紫陽花の色をしたカーディガンを着ている。胸元には青藍のネクタイピン。学校帰りだったんだろうか。

 彼女は食事の支度を終えて、帰る間際だったと言う。


「凛咲さんには、譲りませんから」


 ちーの見舞いを終えて、俺と入れ違いに土間に立った凛咲さんを見下ろして、面と向かって宣言する。言葉にしてみたらなおのこと、我ながら子供じみているなと情けなくなる。


「ちーちゃんは、誰のものにもならないよ」


 凛咲さんは眉根を寄せ、困ったように笑ってそう告げる。なんだろう、違和感があるのに、うまく言葉にできない。そういえば、凛咲さんと話すのは久しぶりだった。橘は全校生徒、六月中に衣替えを済ませてしまった。その期間まるまる不在だった彼女の夏服を見るのも初めてだ。


「ちーのこと、分かった気にならないでください」


「うん。私にはさっぱり理解できない」


 そう言って、彼女は意味深に口許を指でおさえる。その仕草に深海ほども深い意味があろうと、この際どうでもいい。ただ、普通に肯定されたことが猛烈な波になって押しよせてきた。

 悔しい。分からないことを一番分かっているのが凛咲さんなのだと、突きつけられているようで。


「それじゃ、萌黄くん。ちーちゃんのこと、よろしくね」


「はい——」


 にこりと笑った凛咲さんを問いただそうにも言葉を生み出せず、結局、もやもやしているうちに彼女は宮古家を後にしてしまった。




   *




 大して面白くもないバラエティ番組を流しながら夕飯を食べて、部屋に戻ってみると、ちーはまだぐっすりと眠っていた。

 凛咲さんが置いていってくれた鶏ムネ肉の和風カレーは、スパイスが効いていてとても美味しかった。せっかくなら甘口がよかったけど、そもそも俺のための料理ではないし、文句は言うまい。


 ベッドの脇に腰を下ろした。物音で起きる気配はない。

 濡れた前髪を払って、彼女のおでこに手を当てる。他人より少し体温が高い彼女だが、明らかに平熱ではない。汗はひいたみたいで、肌はすべすべしている。伏せられた長い睫毛。結をして「素材がいいんだからもっと化粧すればいいのに」と言わしめるのだから、俺の贔屓目抜きにして美人の部類に入るんだろう。


 ——可愛いな。

 そう思ったら、口づけていた。唇を触れ合わせて、永遠にしたいほどのひととき、この距離でしか見られない表情を眺めていた。

 そのひとときを待ち合わせでもしていたかのように、ちーの眼がぱちっと開く。悪いことをしている訳ではないけれど、肩がぎくりと跳ねて身を離す。


「感染っちゃうよ」


「俺は平気なの。ちーみたいに家出とかしないし」


 彼女は鼻声で笑いながら聞いてくる。


「大会、あるでしょ?」


「——負けた。ちーのせい」


 ちーが身体を横にして、俺の背中に手を回して抱きしめてくる。パジャマの襟から覗く首筋もほのかに赤みを帯びている。

 彼女のせいにするのはお門違いだけど、それも了解した上でねぎらってくれてるんだろう。それは夏場の熱砂のように、温かくて、擦り傷が残るくらいのざらざらとした優しさだ。


「熱、下がってきたんじゃないの。測りな」


「はぁい」


 ちーは枕元にあった体温計をパジャマの中に突っ込んで、脇に挟む。


「凛咲さんとどこにいたの」


「江ノ島。水族館に行ったよ。クラゲの水槽が燦々として、キレイだった」


「水族館は島にないじゃん」


「ふふっ、そうだね」


 燦々として——なんて、滅多に聞かない単語を口にしたちーは、可笑しそうに笑った。

 どうにも視線を合わせられなくて、部屋の中を見回す。綺麗な部屋だ。白とグレーのチェック柄をしたリネンのカーテン、黒いラグが敷かれた床の上には、白いローテーブル、壁際には十年もののダークブラウンの学習机——備え付けの家具以外は全体的にモノトーンで統一されている。本棚や画材はクローゼットの中にあるし、ハンガーラックには制服しかかかっていないので、本当に色彩が少ない。布団だけがパステルブルーの水玉模様だ。

 そんなさっぱりした部屋であるが、壁の一面だけは異彩を放っている。壁に貼り付けたコルクボード全体に所狭しと、写真や切り抜きが貼られている。写っているのは俺や姉ちゃん、凛咲さん、結や珠希などなど——、飾り気のない無防備な表情まで撮られていて、何度見ても恥ずかしくなる。

 そこに一枚だけ見覚えのない写真がある。緩やかな下り坂の上から見た景色——踏切とその向こう、眼下に広がる雄大な青い海。踏切の反対側には、シンプルなワンピースに白い麦わら帽子をかぶった凛咲さんが立っている。


「あとで写真見せてよ」


「たくさん撮ったな。猫がいっぱいいたんだ。三毛のね、可愛い子」


「いいね」


「萌くんも好きだよね、三毛猫」


「まぁ、ね」


 ——ちーが好きだから、ね。

 ぴぴっと体温計が鳴った。ちーは表示された数字を読み上げる。


「——三十七度五分」


「まだ高いな。気分は?」


 ちーは横向きのままへにゃっと笑う。


「お風呂入りたい気分」


「そんだけへらへらしてるなら大丈夫か。了解。沸かしてくるよ」




 お湯が沸くまでの間、なんでもないことを話した。あのバンドの新曲聴いたとか、あの漫画読んだとか。

 俺たちが交わす会話はこういうので十分だ。

 江ノ島の写真なんか別に見たくない。ちーがどこで何をしていたって、この気持ちは同じなんだ。だって、俺が気に入らないのは、ちーと凛咲さんの間に共通の隠し事ができたことなんだから。




 ちーをお風呂に送り出した後、ベッドに並べるように布団を敷く。今夜は泊まりがけで看病すると親にも連絡してある。宮古家は両親が不在なので、東家がちーと姉ちゃんの保護者代わりになっている。片方の家に何かあれば、ちーたちがうちに来るか、その逆か。持ちつ持たれつでなんとかやっている。


 布団の上に仰向けに倒れる。さっきからあくびが止まらない。兎にも角にもサッカーに集中した二週間——、その疲れが出てきたみたいだ。




   *




 急に開けた視界に飛び込んできた壁掛け時計の針が、三十分くらい進んでいる。軽く眠っていたらしい。


「ちー?」


「萌くん……」


 俺の布団に入って寝ていた彼女は、薄く眼を開ける。


「自分の布団に行きなって」


「いい。あったかいから、ここで寝る……」


 そう言って彼女は、俺の胸に頭を押し当てて、赤ん坊のように身体を丸めてすり寄ってくる。


「はは……。もう、こいつめ」


 ——まったく、何度泣かせてくれれば気が済むんだか。

 だからといって、本当に泣いたりはしない。その行為に意味がないから。かわりに漏れたのは湿った笑い声だ。いっそ、この瞬間の映像も感情も、涙と一緒に流れて消えてくれればいいのに。

 そうしたら————いや、それでも。懲りずに彼女を好きになってしまうんだろうな。俺の正しさの地平は、ちーの向いている方角とイコールだ。


 ちーの栗毛を撫でつけて顔を上向かせる。とろんとした目蓋。白いクリームがちょこんとついた唇に、俺はもう一度口づけた。




   ***続く***

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