right #1


   ***二——初香***




「——三十八度九分。はい、絶対安静ね」


 体温計を見るまでもなく、いちかの体調は悪かった。ひどい風邪をひいて、もうまるまる三日間寝込んでいる。

 予告もなく音信不通になって、帰ってきたと思ったらこれだ。龍さんから連絡が入って居所が知れたからよかったものの、一時は本気で捜索願を出そうと考えたのだ。去年、学校帰りにふと思い立ってニューヨークに飛んだ私でさえ、いちかへの連絡は欠かさなかった。治ったら絶対に叱ってやる。


「食事。昨日の夜から摂ってないでしょ。お粥でも食べる?」


「ううん。いらない」


 そうは言いつつも、いちかの眼は何かを訴えかけてくるようで。


「——何がいいのよ?」


「壱月亭のシュークリームアイス」


「はいはい」


 夏限定、一個からお持ち帰りも可能な壱月亭の人気商品である。

 壱月亭までなら車を出すまでもない。自転車でいいかなと思って踵を返したそのときだった。スカートをきゅっと引っ張られる。


「お姉ちゃん」


「うん?」


「手ぇ、あたしが寝るまで繋いでて」


 ——えぇ……。

 昔の甘えん坊が顔を出したのか。幼い頃を思い出させるやり取りだ。しかし、潤んだ瞳を震わせてこちらに向ける妹は、発熱のせいで紅潮した頬とあいまって、いっそ蠱惑的にすら感じられる。


「はやくー」


「仕方ないわね」


 ベッドサイドに膝をついて、手の甲を撫でるように握ってやると、いちかはししっと満足そうに微笑む。仕方ないので私も適当に笑い返しておく。


 ——こりゃ、りさちゃんには見せたくないわね。


 大人しく寝付くまでは見届けよう。そう思ってベッドに身を寄せた途端、いちかの空いている方の手が、私の首筋に回される。次の瞬間、唇に感じたのは、上半身を起こした彼女の、ふわりと柔らかな唇の感触——。


「こら——っ、やめなさい。感染るでしょう」


「ふふ、お姉ちゃん、やっと怒った」


 その一言で力尽きたかのように、いちかは再びベッドに倒れこんだ。ふわふわの羽毛の枕に小さな頭が沈みこむ。


「ああもう、無理するから」


 布団をかけ直しながら、そういえば幼稚園くらいの頃は平気でキスをしていたなと思い出す。

 最近は大人びた考え方をするようになったと思っていたけど、根っこはやはり昔のままなのかもしれない。キスをしてやると泣きやむ、泣き虫だった妹のまま。


「それ、男の子の前では絶対やっちゃダメよ。特にミッチー」


 その忠告は耳に届いただろうか。

 妹は安心しきった表情で寝息を立てていた。


 ハンガーラックの前には、下ろしたての真っ白な半袖ブラウスと、冬服より少し淡い色味をしたチェック柄のプリーツスカート。まだ一度も袖を通されていない橘高校の夏服だ。


 頭の中にあるカレンダーを呼び起こす。七月後半は定期試験、八月は丸々ゼミの旅行だ。オセアニア秘境巡り。幸いにも予定の谷間だったおかげで、こうして家にいることができる。でもさすがに課題を溜めこみすぎた。今夜は大学に泊まりがけで片付けておきたい。


 ——仕方ない。モエを頼るか。

 表立って事を荒立てたりはしないけれど、いちかとりさちゃんの件で一番むくれているのはモエだ。「ちーが謝るまで顔は合わせない」なんて息巻いていたが、実際には、呼べば飛んでくるんだろう。つまるところ、いちかの身を最も案じているのも彼女なのだ。

 私は————。もちろん心配していたのだけど。普段と変わらない様子で帰ってきた二人を見たとき、どこか予定調和のように感じてしまって、モエほど熱を傾けられずにいる。仮にも、妹と恋人の一大事だったというのに。


 正しい家出、正しい友愛、正しい恋愛。私は二人がいないうちに、自分の基準の引き直しを済ませてしまったのかもしれない。それは、傷つかないための準備と言い換えてもいい。感情が腐らないかわりに、思考はじめじめとカビが生えてしまったように蒸れている。

 らしくないわねと独言る。


 モエに連絡しようとスマートフォンを手にした瞬間、ちょうど待っていたようなタイミングで着信がきて、取り落としそうになる。発信者の表示を確かめると、

 ——りさちゃん。

 ワンコール待ってから通話を始める。


「ごきげんよう。どうしたの?」


「こんにちは。先輩。今、お話してもいいですか?」


 彼女は挨拶もそこそこに訊ねてくる。何やら深刻そうな声音だ。背後でがやがやと音がしているから、外にいるんだろう。


「それなら、うちに来なさいな。いちかの顔も見たいでしょう?」


「はい。今から行きます」


 返事を聞き届けて、ごく手短な電話を終える。

 寝入ったばかりのいちかは、りさちゃんがいる間は起きないかもしれない。というか、個人的にはそっちの方がいいかなと、妹の寝顔を眺めながら自分の唇に問いただしてみた。


 ——あ、しまった。

 ついでに壱月亭に寄ってきてもらえばよかった。

 まあ、りさちゃんが来たら留守番を任せて自分で行こう。


 リネンのカーテンから覗く空はうっすらと晴れている。

 うん。壱月亭と大学、今日は自転車をこいで陽を浴びよう。道端に咲いたクチナシの香りに誘われて、何か楽しいアイデアを思いつくかもしれないし。




   ***続く***

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