right #3
***三——凛咲***
宮古家にはものの三十分とかからずにたどり着いた。
先輩に電話した時点ではもう家を出ていて、壱月亭のボックス席で一人コーヒーをご馳走になっていた。通話を終えてからスーパーに寄って、猛ダッシュで駆けつけたのだった。
チャイムを鳴らすと、先輩が出迎えてくれた。
失礼とは思いつつ、玄関先でしゃがみ込んで息を整える。平均的な高校生としてはやや運動不足の身の上で散々急いだせいで、貧血を起こしそうだ。横倒しになった買い物袋の中から、小玉のスイカが転がり出す。
「先輩、ちーちゃんは……、どう、ですか?」
「りさちゃんこそ、どうなのよ。橘から来たの?」
「はい、まぁ……——」
スイカを拾い上げた先輩はちょっと笑って、目線の高さを私に合わせる。そして、さも自然な流れで唇を触れ合わせる。
不意打ちにびっくりして、整いかかっていた呼吸がまた乱れる。その間に、彼女は、私が適当に買ってきた果物や野菜、鶏ムネ肉、スポーツドリンクを冷蔵庫に放り込んだ。
それからリビングに通されて、麦茶を出してもらう。ついでにと、三角にカットされてお皿に並んだスイカも。
「わざわざすみません」
「あの子は今寝付いたとこ。起きるまでここで時間つぶしてなさいな」
麦茶をひと口喉に流し込むと、ようやくひと心地ついた気がする。先輩は私が落ち着くのを見届けるように間をおいて、ゆったりと言葉を紡ぐ。
「まぁ、りさちゃんが顔見せてあげたら喜ぶわ。もしかしたら、そのまま元気になっちゃうかもね」
「————だといいですね、本当に」
ちーちゃんの体調に関しては百パーセント私のせいだ。
それなのに、今も、三日前も、先輩は叱ったり、冷たい態度を取ったり、あまつさえ詮索すらしなかった。今回の一件が、先輩の眼にどう映ったのか——それだけは唯一の気がかりだ。でも、自分から明らかにするのも憚られて、結局私は別の話題を求めてテーブルに視線を彷徨わせる。
「あ、そうでした。これお見舞いです」
白いシンプルなケーキ箱をテーブルの上に載せる。買い物袋と一緒に渡すはずだったものだ。
「中身、当ててあげようか」
「はい?」
先輩はずばり箱を指差し。
「壱月亭のシュークリームアイス」
「——え、うそ……? どうして分かったんですかっ!?」
思わず大声を上げてしまう。そのくらい、心底驚いた。壱月亭にいたことはまだ話していないのに、どんなロジックで正解に至ったんだろう。以前、先輩が「りさちゃんのことならなんだって分かっちゃう」とうそぶいたことを思い出す。
しかし当惑したのは私だけではなかった。名推理を披露した先輩もぽかんとしている。まさか本当に当たったのかと言わんばかりに。
「いや、推理も何もないわよ。ただの当てずっぽう——というか願望」
「願望って……」
先輩は箱を開けて、中に入っているものを確かめる。
「うーわ。りさちゃん凄いわね……。いちかが食べたいって言ってたの、ドンピシャ」
「——ああ、そういうことですか」
ネタばらしを聞いて、ようやく合点がいく。つまり、思いがけず、ちーちゃんのリクエストに的中したということか。そういうことなら——、満更でもない気分だ。
「意外と子供っぽいわよね、りさちゃんは」
「は、はい——?」
私の浮かべた疑問符を置き去りに、二人分の空のグラスに麦茶のおかわりが注がれる。スイカは熟れていないけど新鮮だった。しゃくっと齧ると、さっぱりとした甘味と水分が口の中に広がる。
先輩が「買い物する必要がなくなった」と言って椅子に座ったので、しばらく取り留めのない話をして過ごした。長雨のこととか、先輩の大学のこととか、萌黄くんの大会のこととか。
「そういえば、先輩たちのご両親ってどちらに……?」
私はかねてより気になっていたことを聞いてみる。
先輩は顎を上げて少し考えこむようなポーズをとる。シャープな顎に細い指が微妙なバランスで接して、小さな窪みができる。綺麗なカーブ。
かと思えば、彼女はあっさり首を振って肩を竦めた。
「さぁ、今頃は山形の山奥で蕎麦でも食べてるんじゃないかしら。夫婦で映画撮ってるの」
「はぁ……」
「娘として言うのもなんだけど、おしどり夫婦でね。定期的に連絡はくれるのよ。でも、最後に帰ってきたのは私の卒業式の日。もう何ヶ月前よ、ってね」
「そう、ですか」
「そうね。家を空けるようになったのは、私が橘に入学した頃だったの。まぁ、私は断固残るって譲らなかったけどね。——でも、いちかが残ってくれたことで、私の暮らしはずいぶんと変わったと思う。あの子はママたちに付いていくものだと思っていたから、正直嬉しかったわ」
先輩は懐かしむように目を細めて、ノースリーブから伸びる肩を撫でる。何気なく口にした『ママ』という言い方が可愛らしいと思う。
先輩とちーちゃん——二人は自分の意思を貫いて、ここで生活している。ちーちゃんに至っては中学生の時分から。あらためて、この姉妹がもつ自立心の強さに脱帽する。
「りさちゃんのおうちも、まぁ特殊よね。同居している龍さんは伯父さんで、ご両親は鎌倉でしょう?」
「いいんです。うちは、それで」
——ようやく、家族の体を保てているんだ。
画商をやりながら、身内の絵を平気でこき下ろす父親。病院にいるあの子を極端に溺愛している母親。この二人の元に私の居場所はなかった。伯父さんの側にいることで、ようやく当たり前の承認が得られる。こんなのは、能動的な選択の結果じゃない。
重い方向に流れかけた話を打ち切りたくて。先輩の近況を訊ねがてら、旅行の記録——スクラップブックを見せてくれるようお願いする。サークル活動やゼミの合間につけるのが習慣になって、ここ半年ですっかり長編になったそうだ。手にとってみるとずっしりと図鑑のような重みを感じた。
「そういえば。先輩って、どうして旅行が好きなんですか?」
スクラップブックのページを繰りながら聞いてみる。
目に止まったページには、サバンナの大草原が見開きいっぱいに広がっている。ふいに、地球上のはるか離れた場所の出来事が、現実のように再生される。遮るものがない雄大なパノラマもさることながら、草木の奏でるざわめきや野生動物の息遣い、独特の獣臭さ。それらに心躍らせる間にも常に付きまとう、人の営みから離れてみて初めて分かる圧倒的な孤独。先輩が全身で感じてきたものが、写真にのせた文字や色で、怒涛のように記されている。
「未知に飛び込んでいくのが楽しいからよ。世の中には私の知らないことが沢山あるんだから。たった一度の人生、めいっぱい楽しまなきゃ損だわ」
先輩は伸び伸びと、楽しそうに語る。スクラップはちーちゃんから勧められて、今年から始めたのだそうだ。
「今じゃそれも楽しみの一つ。未来の自分のために記録を残すっていうのはいいことだわ。知らなかったことを知る。知ったことでまた新しく知らない地平が見えてくる。私はね——、その繰り返しの中にいるとき、強烈に生きているって実感できるのよ」
「未知に飛び込む、ですか」
私はそのフレーズを何度か囁くように繰り返す。
「でも、それは私の話。人にはその人らしい生き方があるの」
ふいに、先輩がテーブル越しに、私の両手を握る。そうされると、やっぱり胸が高鳴って、目を合わせるしかなくなる。彼女が私に向ける表情は、泣き笑いのように見えた。
「りさちゃん。辛いなら、無理して描かなくてもいいのよ」
それはずっと心待ちにしていた一言。絵に向き合えなくて追い詰められていた私が、先輩からかけてほしいと思っていた一言だ。
でも今は————、
「いえ。描かなきゃいけないんです。描かなきゃ——私じゃいられない」
「りさちゃん……?」
先輩が怪訝そうに首を傾げる。
描けないことに焦っていた理由。描かなきゃいけないと自分を追い込んでいた理由。江ノ島で過ごして、ようやくその意味が分かった。
私は描かなければならない。
それでもまだ、足がすくむ。指先が震える。
「——もしもですけど。間違えたら取り返しがつかないって分かってても、先輩は飛び込めますか?」
「どうかしらね。私なら——飛び込んでから考えるかな」
「その先に何もないとしても……?」
「どっちにしたって行くしかないのよ。飛び込まないでいれば、現状が保証されるわけでもないし。それなら、何もしないでヤキモキするより、やってみてから間違えないようにした方が、建設的ってものでしょ」
一つずつ、言葉を選ぶようにして、先輩は自分の信念を伝えてくれる。私の曖昧な質問に対しても、誠実に。彼女はいつだって、後ろ向きに躊躇いがちな私の目線を引き上げて、彼方の地平線を見せてくれる。
ああ、やっぱり——私はこの人が好きだ。だから、私もまた、あのとき声にして伝えることができなかった感謝を告げる。
「ありがとうございます。先輩。やっと自分の気持ちを確かめることができました」
先輩の手を、強く握り返して頷く。
「私は絵を描きます。先輩に見てもらいたいから」
「そう。よかった。本当に辞めるって言われたら、やっぱりショックだったみたいだわ」
——言ってから後悔しそうになった。
そう呟くと、先輩はようやく、いつもの不敵な笑みを返してくれたのだった。
「私は大学に行ってくる。やらなきゃいけないことがいっぱいあって、ね。今日は帰らないけど、夕方からモエが来るから。それまでいちかのこと、頼めるかしら」
「はい」
先輩の手が名残惜しそうに離れた。
ちーちゃんは眠っている。起こしてしまうのはかわいそうだから、様子を見にいくのは少し時間をおいてからにしよう。その間に何か作っておこうかな。萌黄くんはきっと泊まりがけだろうし、元気になったちーちゃんと、課題で疲れて帰ってきた先輩も食べられるもの——。そうだ、カレーにしよう。
***続く***
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