right #4


 ——よし、いっちょ作りますか。

 そう思い立って、カーディガンの袖をまくる。ちーちゃんと江ノ島にいる間に衣替え期間は終了していて、中に着ているブラウスは半袖だ。


 私の前には玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ、鶏ムネ肉。それから大量の粉末スパイス。ガーリック、クミン、コリアンダー、チリペッパー、ターメリック、ガラムマサラ、カルダモン、クローブ——先輩の許可をもらって調理棚を漁ってみたら、一式揃ってしまった。そういえば、ちーちゃんは料理好きと言っていたっけ。

 手には和風カレーのルー。これも宮古家にあったものだ。別に本格インド風なものを作る気はない。

 鶏ムネ肉を一口大に切ってキッチン用ポリ袋に放り込む。そこに粉末スパイスを適量、適当にまぶしてから揉み込む。こうしてお肉にしっかり下味をつけるのが河内流である。

 中辛ルーの旨味を生かしながら、タンドリー風な味わいの鶏肉で発汗を促す。風邪をひいたらこれだ。


 伯父さんが衣食住全般にルーズな人なので、家事は一通りこなせるようになってしまった。最近は仕事で家を空ける時間も増えてきたので、料理はもっぱら私の担当だ。——なんて。本当のところは、ずっと外に出て撮りに行きたいところを伯父さんは我慢してきたんだろう。私がいることで、彼に負担をかけてきたのは事実だと思う。


 煮込んでいる間に洗い物を済ませたら、火の番しかやることがなくなってしまった。他の家事は先輩がやってしまった後だったから。

 スツールに腰掛けて、最近買った手帳サイズのスケッチブックを開く。鍋から漂うとろけるような香りを楽しみながら、ざらざらとした紙の上に鉛筆でコンロとその周辺のものを写しとる。筆を立てて迷いなく描いた線に沿って、今度は筆を寝かせて陰影を付けていく。そして最後に光を入れ込む。刻んだ消しゴムを滑らせてくっきりと、練り消しで擦ってやんわりと。もちろん、鍋の番も忘れずに。

 私は昔から無機物——特に建築物を描くのがあまり得意ではなかった。直線と楕円の幾何学的な物体。そこにはなんらかの物理法則があって、誰かの意図がある。私はすぐ、後者に引きずられてしまう。

 ——またやっちゃった。

 キッチンの棚やフックは低めに配置されている。それは、ちーちゃんが背伸びをしないで自由に使いこなすため。彼女の姿が脳裏に浮かんで、そのまま紙の上に浮かび上がる。無人のキッチンをモチーフにしていたのに、筆を置いてみれば、味見をして満足そうに微笑む少女まで描いている始末だ。着色はしていないが、髪はどことなく栗色に見える。


 さて——。カレーが出来上がってしまうと、本格的にすることがなくなった。ちーちゃんはどうしているかな。二階から物音はしないから、まだ寝ているんだろう。

 お見舞いのシュークリームアイス——はまだとっておいて、スイカを切って持っていくことにする。




 階段を上がって部屋に入ると、ちーちゃんは眼を開けて天井を見つめていた。スクラップやコラージュが好きな彼女にしては、ずいぶんとシンプルにまとまった部屋だった。なんの色にも染まっていない。ただ、部屋の片隅に貼り付けられた写真たちだけがカラフルだ。

 私が入ってきたのに気づくと、彼女は安心させるように口角を上げて笑いかけてくる。


「まだつらい?」


「まぁまぁ、です」


 ローテーブルの上にスイカをのせたお皿を置く。一口サイズに切って爪楊枝を刺してある。


「食べられる? ちょっと水分摂った方がいいよ」


 彼女の頬はスイカの果肉みたいに紅潮していて、まだ熱があるのは明白だった。


「せんぱいが、あーんってしてくれたら食べますよ」


「甘えんぼだね」


「いいじゃないですか。風邪ひきさんですよ」


「はい」


 ちーちゃんは身を起こしてベッドに腰掛ける。私が差し出したスイカを、彼女の小さな口が頬張る。夢心地のような表情で咀嚼している彼女は、きっと少し朦朧としているんだろう。私も彼女の隣に座る。スプリングの効いたベッドにお尻が沈み込む。

 こくりと喉が動くのを見計らって、彼女にキスをする。さりげなく、穏やかに体温を重ねるように。ちーちゃんもまた、それをやんわりと受け入れる。


「目を瞑ってた」


 ちーちゃんは私の胸に体重を預けてくる。


「だって、照れちゃいますもん」


「ちーちゃんには何が見えてる?」


「せんぱいのこと」


「いい子いい子」


 私は彼女の栗毛を撫でる。汗をかいてぺったりとしていたけど、柑橘のような甘い香りは健在で、鼻腔をふわっとくすぐってくる。


「壱月亭、行ってきたよ。メニュー新しくなってたね」


 壱月亭のメニューはがらっと夏仕様に刷新されていた。トッピングシュガーが見目鮮やかなパフェや、大粒のブルーベリーを乗せたチーズタルトなど、どれも美味しそうだった。紙面のトップを彩るのは——夏限定、一個からお持ち帰りも可能——香ばしく焼き上げた生地にさっぱりとしたアイスミルクをたっぷりのせた、口当たり爽やかなシュークリームアイスだ。

 渡辺さんもとい睦月さんは当然のように、ちーちゃん撮影だと説明してくれた。よく見ると裏表紙の遊び紙、緑色の細かい繊維が入った和紙の上に、金色の文字でクレジットが書かれていた。

 ——撮影:宮古いちか。

 もうすっかり、彼女は一人前の写真家だと思った。いつの間に撮ったのか、店内の風景写真も拡充されていて、木とガス灯が織りなす檜皮色の空間に、たくさんの笑顔が溢れている。


「ん、シューアイス……」


「買ってきた。あとで食べてね」


「うん」


 ちーちゃんは弱々しく、でも悪戯っぽくししっと笑う。


 ——私は、誰に何を伝えたかったのか。

 二週間あまり、それを探して、ようやく見つけた。

 ちーちゃんは、消失点の存在しない私という存在を繋ぎとめる不動点だ。咲季は未だ泡沫の中にいて、このままでは私の奥底にあるものを伝えられる人は不在になってしまう。

 でも、ちーちゃんの心にはあの子がいる。私と同じ顔をしているくせに、前のめりに走りがちなあの子。私が求めてやまない人は、確かにちーちゃんのファインダーの裏側に息づいている。

 それならいっそ、こう定義してしまえばいいんだ。


 ——河内咲季は宮古いちかの一部である。


 彼女を寝かしつけ、同じ枕に頬をのせて、頭を抱きすくめる。汗ばむおでこにぴたりと自分の額を重ねる。


「熱いね、ちーちゃん」


「————せんぱいは、冷やっこい」


 それなら、この口づけも間違いじゃない。


 萌黄くんは夕方に来ると言っていたっけ。それまでは江ノ島のアトリエと同じように、ちーちゃんと二人きりだ。萌黄くんは軽蔑するんだろうな。先輩は怒るかも——ううん、悲しむかな。


 嘘じゃないのよ。今の私は先輩が好き。

 それでも、思い出してしまったの。凛咲は咲季が好き。咲季は凛咲が好き。


 薄く開いた唇を通して吹きこまれる吐息は熱っぽい。潤んだ鳶色の瞳に、双子の片割れの歪んだシルエットが映っている。


 ——どうかそばにいて。いなくならないで。

 咲季、聞いてる? 私は今度こそ、正しいメッセージを伝えるよ。




   ***続く***

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