left #2


 大和市から江ノ島まで——約三時間弱の道のりを、私たちは無言で過ごした。

 電車の右側と左側に分かれ、背中を向け合って、車窓を流れる景色を見ていた。

 お互い、ずっしりと水を吸い込んだジャージと制服姿で、全身から水滴をぽたぽたと垂らしていた。そんな風体では座席に座れるわけもなく、立ちっぱなしでいるしかなかった。

 藤沢からは結構混んできたので、ちーちゃんがいる側のドアの端に寄った。スマートフォンを操作するちーちゃんの正面に立って、一箇所にかたまる。やっぱり会話はしない。

 私にとってはすっかり身体に染みついた乗り換え経路でも、ちーちゃんにとってはそうではない。電車を降りてホームを移動し、改札を出入りして次の電車に乗り換える。その時だけは、はぐれないようにちーちゃんの手を引いた。握り返してくる手は冷えていて、ちょっとぎこちないように感じた。

 駅舎を出ると、鳶の高らかな歌声に出迎えられる。


「海だぁ。ほんとに来ちゃいましたね」


「江ノ島、初めてなの?」


「ちっちゃい頃に、家族でちょっとだけ。水族館に行ったんですよ」


 ちーちゃんは新鮮な景色を嬉しそうに見回しながら答える。

 雨は小降りになっていたけれど、空は相変わらずの灰色だ。

 小田急線片瀬江ノ島駅から、江ノ島の東側にある伯父さんのアトリエまでは、三十分ほど歩く必要がある。竜宮城をモデルにした派手な駅舎を背に橋を渡り、地下歩道に入る。そこから砂浜にも出られるのだが、ちーちゃんを案内するのはまたの機会にして、脇目もふらずに島へ向かう。

 霧雨が降っているのにも関わらず、思ったより人はいるもので、弁天橋は傘をさした人たちでごった返していた。その合間を縫って橋を渡る。傘も持たないずぶ濡れの女子高生が二人、神社を目指す観光客とは反対方向の道へ逸れていく。

 古い民家に挟まれた急な階段を登る。湿っぽい雨の匂いと、湘南の海風が運ぶ磯臭さ、小道に咲いたクチナシの甘い芳香が混ざった複雑な香りが、ノスタルジーのような感傷を胸に呼び起こす。

 二歩後ろあたりにちーちゃんがついてくる気配を感じつつ、私はスマートフォンで電話をかける。散々水に濡れたシリコンケースの感触は気持ち悪かった。


「——伯父さん? 私、り……凛咲……です」

「どうしたの?」


 伯父さんは仕事中だったようだ。パソコンのタイピング音が聞こえる。


「今、江ノ島にいるの。……ちーちゃんと」

「アトリエ?」

「そう、アトリエ。しばらく、使わせてもらえないかな?」

「しばらくって、明日は月曜日だけど」

「しばらくはしばらく。学校は……——休むよ」


 伯父さんは声色をあらためた。椅子に座り直したのか、ギシッと軋む音がした。


「何かあった?」

「思い出したの。咲季のこと。たぶん、ちゃんと——」

「そう————」


 少し考え込むような間が生まれるけど、その声に当惑は含まれていない。きっと私を預かると決めたときから——、何年も前からこの日を迎える準備をしていたんだろう。

 ただ、その時が来ただけ。電話の向こうで伯父さんが息を吸い込む。


「なんでもいいから、毎日連絡をよこすこと。それが守れるなら、俺が全部なんとかしておく」

「わかった。お願いします……」


 通話が切れるのと同じタイミングで、アトリエにたどり着いた。

 赤い瓦の屋根に、木組みの床下。ちょっと広めの縁側もある。いわゆる日本家屋というやつだ。アトリエと呼んでいるけれど、生活する上で必要なインフラは維持されている。一ヶ月くらいなら何不自由なく過ごせるだろう。

 大和市を出てから橘に入学して戻ってくるまでの約九年間、私はここで伯父さんと一緒に生活していた。現在では、金曜日に咲季を見舞った後、予定のない土曜日などに丸一日、時間潰しがてら本を読みに来るくらいだけど。

 玄関の鍵を開けて両横開きの扉をがらがらっと開く。


「どうぞ。とりあえず、身体乾かそう」


「お邪魔します」


 ちーちゃんは水を含んだ靴下ごとスニーカーを脱いで、上がり框に足を乗せる。みるみるうちに足元に小さな水たまりができる。

 流石の防水効果というべきか、あれほど乱暴に走り回ったにも関わらず、薄紫色のレインブーツの中は濡れていなかったので、私は靴下を履いたまま浴室にバスタオルを取りに行く。ちーちゃんのスニーカーは見るからに浸水していた。


「バスタオル持ってくるよ。突き当たりの部屋、先に入ってて」


「うん——っくしゅっ」


 ちーちゃんはくしゃみをして、寒そうに身を震わせる。風邪をひいてなければと心配になる。


 ジャージとブラウス、下着と靴下を洗濯機に放り込んで、縁側の物干し竿にはブレザーとスカートをかけた。洗濯が終わったら、他の衣服もこっちに干そう。縁側の床には使い古して擦り切れたタオルを敷いておいた。充分に絞ったつもりだったけど、水はまだぴちゃぴちゃと滴っている。

 飾り気が一切ない作業部屋の何もないフローリングの床に、花柄テキスタイルの大きなブランケットを敷いて、明かりもつけずに二人で横になる。部屋の角に退けてあった黒いファンヒーターを引っ張り出して電源を入れた。厚地のバスタオルを身体に巻いていたけど、ちーちゃんは寒そうに背を丸くしている。


「ねぇ、ちーちゃん——」


 私は丸まっているちーちゃんのバスタオルの上から、その身体を抱きしめる。こうしている方が温かいと思ったから。腕の中のちーちゃんはいつもより小さく感じられた。背中に張りついて腕を回しているだけなので、表情は窺えない。


「萌黄くんと別れたら」


「のー、です」


 ぽつりと呟くような返答。


「かわりに、私と付き合おうよ」


 我ながら甘美な提案だと思った。

 ちーちゃんは悲しそうに湿った栗毛を振る。


「せんぱいは、あたしを好きにならないよ」


「そんなのちーちゃんだって同じじゃない」


 ちーちゃんの滑らかな肌に指を這わせて、左胸に直接触れる。彼女はみじろぎするが、腕の中から逃げたりはしない。こんな会話をしているのに、鼓動はあくまで平坦で、私の追求を裏付けるようだった。


「あなたは誰のものにもならない」


 ——だって、そうでしょ? 決まった一人を好きになったことがないのに。


 数ヶ月彼女を見てきた。きっと彼女は、萌黄くんを憎からず想っているんだろう。恋人として当然のように大事に想っているんだろう。萌黄くんには悪いけれど、そこにあるのは幼馴染の延長線上にある感情だ。

 その一方で、思い出の中の咲季を追いかけている。私に重ねて、咲季を探している。あの頃の咲季とは似ても似つかない私を見つめて。雨が降り注ぐ桜の園で、今更掴んだシグナル。


 彼女は、未だに恋を知らない。


「せんぱいにはお姉ちゃんがいる」


「うん。私は先輩を愛してる」


 それは偽らざる事実。私は決まった一人——先輩と、これからもずっと添い遂げたいとさえ思っている。その気持ちは重いかもしれないが、先輩にもそう思って欲しいと願っている。


「でも私は凛咲として、咲季に伝えることがある」


 私は今度こそ、正しく咲季に呼びかけなきゃいけない。

 ——どうかそばにいて。いなくならないで。

 そう叫び続けなきゃいけない。


「さっちゃんは——?」


「咲季は、いなくなったの」


 身体の向きを変えたちーちゃんは、さすがに鳶色の瞳を見開く。私はそんな彼女をもう一度抱き寄せ、耳元で囁くように、昔話をする。


「ちーちゃんと初めて会った後、だね。咲季はずっと苦しんでたんだ」




   *

   *

   *




 私たちは大和市で生まれ育った。

 一卵性双生児——二人でいるのが当たり前。勉強も運動も成績は一緒。やりたいことも、七夕の短冊に書いた願いごとも同じだった。性格はちょっと違ったけど。私たちは二人で一人なんだと、なんの疑いもなく育ってきた。

 しかし、こと絵に限ってのみ、咲季は凛咲を凌駕していった。絵を描けば凛咲が悲しむ。なのに、母が無神経にかけてくる期待にも応えなきゃいけない。父は対照的で、絵を描くことそのものに反対のようだった。

 三方からの板挟みを逃れるように、咲季は一人で行動するようになって、その頃にちーちゃんと出会った。

 でもそのうち、あることを思いついた。


 ——自分がいなくなればいい。

 そうすれば凛咲が比べられることもなくなる。


 それからまもなく、あの事故が起きた。いや、事故じゃない。咲季は、いつも二人で絵を描いていた河川敷の高台から、故意に落ちたんだ。反射的に助けようと身を乗り出した凛咲と一緒に。




   *

   *

   *




 それから、伯父さんに連れられてちーちゃんに再会したのが私だ。奇跡的に無傷だったけど、事故以前の記憶があやふやになってしまった私は、伯父さんの元に預けられた。結局すぐに江ノ島のアトリエに引っ越すことになって、ちーちゃんに藤色のトイカメラを渡してお別れした。大和市の小学校には一年と一ヶ月ほどしか通えなかったから、今となっては同学年の子たちの間でも、双子がいたことは知られていない。

 ちーちゃんはその話を、顔色ひとつ変えずに聞いていた。


「あのカメラ使ってたね」


「うん。あたしの、宝物」


 浴衣の袖に、大事そうにトイカメラをしまう彼女の姿を思い出す。


「私ね、元気だった頃の咲季を、あまり思い出せない」


 ちーちゃんの豊満な胸元に頬を寄せる。問い掛けるように。

 彼女に残留している咲季を形にする方法。咲季に気持ちを伝える方法。彼女がどこにもいない今、手がかりあるとしたら、一つだけだ————。


「咲季はちーちゃんの中に、いるのかな?」


「そうかもしれませんね」


 彼女は、驚くほどあっさりと肯定する。ずいぶんと安易な反応ではないか。私の質問の裏にある意図など察しているだろうに。先程だって、萌黄くんと別れることには反対したくせに、付き合おうと言ったことに対しては明確な返答をしなかった。

 この子を見ていると、付き合うことに恋は不必要なんじゃないかと思えてくる。


「あたしは、さっちゃんに憧れてたから」


「憧れて、今のちーちゃんになったの?」


「うん」


 目を瞑れば、感じるのは温かな鼓動だけ。

 いいのかな。それを信じられるなら、私は——。


「私は、ちーちゃんの中の咲季が欲しい」


「せんぱいが、そうしたいなら」


 窓の向こうは真っ暗で、雨音がしとしとと屋根を叩いていた。




   ***続く***

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